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第8章 

クリシュナの知識における活動

na māṁ karmāṇi limpanti
 na me karma-phale spṛhā
iti māṁ yo ’bhijānāti
karmabhir na sa badhyate

「私に影響を与える仕事はありません。また、私は活動の結果を望むこともありません。私に関するこの真理を理解する者もまた、仕事の結果的な反応に絡まることはありません。」(Bhagavad-gītā 4.14)

世界全体がカルマによって縛られています。私たちは皆、1ミリメートルの長さの中に何百万と存在する微生物や菌の存在を知っています。ブラーマ・サムヒターの中で、「インドラゴパと呼ばれる微生物に始まり、天国のような惑星の王であるインドラまで、皆がカルマ、仕事の反応に縛られている」と述べられています。私たちは皆、良いものであれ悪いものであれ、自分の活動の反応を苦しんだり、あるいは楽しんだりしなければなりません。これらの反応を苦しんだり楽しんだりしなければならない限り、私たちはこれらの物質的な体に縛られています。

自然の配剤によって、生命体には自分の苦しみ、あるいは楽しみのための物質的な体が与えられます。異なる目的のために異なる種類の体が得られます。虎の体は、殺すことと生肉を食べることのために作られています。同様に、豚は糞を食べるように作られています。そして、人間として、私たちの歯は野菜と果物を食べるように作られています。これらの体のすべては、生命体によって過去の生においてなされた仕事に応じて作られています。私たちの次の体は、私たちが今行っている仕事に応じて準備されています。しかし、先に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分の活動の超越的な性質を知っている者は、活動の反応から自由になる、と示されます。私たちの活動は、私たちが再びこの物質世界において呪縛されることのないようにするものであるべきです。これは、もしも私たちが、「クリシュナを研究することと、主の活動の超越的な性質を学ぶこと、そして主がこの物質世界と霊的な世界においていかに振舞われるかを理解すること」によってクリシュナ意識になるなら、可能とされ得ます(this can be made possible)。(訳注:一文が長いので、理解の補助のために括弧を入れています)

クリシュナがこの地上においでになるとき、主は私たちのようではありません。主は完全に超越的です。私たちは自分の活動の結果を望みますが、クリシュナは何の結果も望まず、また、主の活動には何の反応もありません。また、主には結果を求める活動(ナ・メ・カルマパーレ・スプリハー)のための何の欲求もありません。取引に入るとき、私たちは利益を欲します。そしてその利益で私たちは自分の人生を楽しめるものにするための物を買いたいと望みます。制約された魂が何かをしようとするときはいつでも、その背後に楽しみへの欲求があります。しかし、クリシュナは望むべき何も持ちません。主は至高の人格神であり、そして主はすべてのもので完全に満たされています。クリシュナがこの地上にいらしたとき、主は多くの女友達と1万6千人以上の妻たちを持っていました。そして、一部の人々は主は非常に官能的だったと考えます。しかし、これ(訳注:主が官能的だったということ)は事実ではありませんでした。

私たちは、クリシュナとの関係の意味を理解しなければなりません。この物質世界において、私たちは父、母、妻、あるいは夫として、多くの関係を持っています。何であれ私たちがここで見出す関係は、私たちが至高主と持っている関係の歪んだ反映に他なりません。何であれ私たちがこの物質世界の中において見出すものは、完全真理から生じていますが、ここではそれは、時間の中で歪んで反映されています。何であれ私たちがクリシュナと持っている関係は続きます。もしも私たちが友情において関係を持っているなら、その友情は永遠で、幾世も(from life to life)続きます。物質世界では、友情は2~3年存在し、そして壊れます。したがってそれは「歪んだ」、「一時的な」、あるいは「本物でない」、とよばれます。もしも私たちがクリシュナと友情を結ぶなら、それは決して壊れません(校正:,→ .)。もしも私たちがクリシュナを自分の主人とするなら、私たちは決して騙されません。もしも私たちがクリシュナを自分の息子として愛するなら、主は決して死にません。もしも私たちが主を自分の恋人として愛するなら、主はすべてのうちで最良となり、別離はありません。クリシュナは至高主であるため、主は無限であり、無限の数の献身者をお持ちです。一部の者は主を恋人あるいは夫として愛そうとしており、そしてそのためクリシュナはこの役割を受け入れます。どのような方法で私たちがクリシュナに近付くのであれ、バガヴァッド・ギーターにおいておっしゃるように、主は私たちを受け入れられます。 Bhagavad-gītā (4.11)

ye yathā māṁ prapadyante
 tāṁs tathaiva bhajāmy aham
mama vartmānuvartante
 manuṣyāḥ pārtha sarvaśaḥ

「彼らすべてに―――彼らが私に服従するとき―――私は相応に報います。すべての者がすべての側面において私の道を辿ります、おお、プリターの息子よ。」

ゴピー、すなわちクリシュナの牛飼いの女友達は、過去の生において、クリシュナを自分の夫として得るために大変な苦行を行いました。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「クリシュナと遊んでいた少年たちは、クリシュナを遊び相手として得るために、自分の過去において大変な苦行と禁欲を行った」とおっしゃいます。このように、クリシュナの遊び友達、仲間たちと妻たちは、普通の生命体ではありません。私たちはクリシュナ意識について何も知らないので、主の活動を取るに足らないものとして受け取ります。しかし、実際はそれらは荘厳です。私たちの欲望の完全な完成(all perfection)がそこにあります。何であれ私たちが本質的に持っている欲望は、私たちがクリシュナ意識にあるときに完全に満たされます。

クリシュナは、ご自分と遊ぶ友人を必要としませんでした。また、主はただ一人の妻も欲しませんでした。私たちは、満たしたい何らかの欲望を持っているために、妻をめとります。しかし、クリシュナはご自分だけで完全です(プールナム)。貧しい人は銀行に千ドル持つことを望むかもしれませんが、何百万(ドル)も持っている豊かな人は、そのような望みは持ちません。もしもクリシュナが至高の人格神であるなら、なぜ主は欲望を持つべきでしょうか?そうではなく、主は他の者たちの欲望を満たします。人が乞い、神が与えます。(訳注:Man proposes, God disposes.諺。「人事を尽くして天命を待つ」、「計画は人に在り、成敗は天に在り」。To proposeは、申し入れる、提案する、などの意味。)もしもクリシュナが何かの欲望を持っていたなら、主は不完全です。なぜなら、主は何かを欠いていることになるからです。したがって主は、ご自分は何の満たすべき欲望もない、とおっしゃいます。ヨゲシュバラ、すなわちすべてのヨギーたちの主人として、何であれ主が意志なさるものは直ちに実現します(to realize)。欲望の余地はありません(There is no question of desire)。主は、ただご自分の献身者の欲望を満たすために、夫、あるいは恋人、あるいは友人になります。もしも私たちがクリシュナを友人、主人、息子あるいは恋人として受け入れるなら、私たちは決して失望しないでしょう(to be frustrated)。すべての生命体はクリシュナと特定の関係を持っています。しかし、現在はこの関係は覆われています。私たちがクリシュナ意識において発達するにつれて、それは明かされるでしょう。

至高主は完全であって何もすることがありませんが、主は例を示すために働かれます。主は物質世界におけるご自分の活動に縛られず、そしてこれを知る者もまた、反応的な活動から自由になります。

evaṁ jñātvā kṛtaṁ karma
 pūrvair api mumukṣubhiḥ
kuru karmaiva tasmāt tvaṁ
 pūrvaiḥ pūrvataraṁ kṛtam

「古代におけるすべての解放された魂は、この理解をもって活動し、そしてそのため解放を得ました。したがって、古代人(ancients)(がした)ように、あなたは自分の義務をこの神聖なる意識において行うべきです。」 (Bhagavad-gītā 4.15)

クリシュナ意識の過程は、霊的な人生において成功を得た偉大なアーチャーリャたちの足跡を私たちが辿るということを必要とします。もしも人が、偉大なアーチャーリャたち、賢人たち、献身者たち、そして自分の人生においてカルマ・ヨガを行った啓蒙された王たちによって示された例に従うことによって活動するなら、彼もまた自由になるでしょう。

クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦争に携わることによって自分の活動の中に呪縛されることを非常に恐れていました。したがってクリシュナは彼に、もしも彼がご自分のために戦ったなら、呪縛の可能性はない、と保証なさいました

kiṁ karma kim akarmeti
 kavayo ’py atra mohitāḥ
tat te karma pravakṣyāmi
 yaj jñātvā mokṣyase ’śubhāt

「知性的な者でさえ、何が活動であって何が非活動(inaction)であるかを区別することにおいて幻惑されます。今、私はあなたに、何が活動であるかを説明します。それを知れば、あなたはすべての罪から解放されるでしょう(shall)。」(Bhagavad-gītā 4.16)

人々は実際に、何が仕事(カルマ)で何が仕事でない(アカルマ)かについて混乱しています。ここでクリシュナは、「偉大な学者たち(カヴァヤー)でさえ、仕事の性質について幻惑されている」と示されます。どの活動が本物でどれがそうでないか、どれが真正でどれがそうでないか、どれが禁じられていてどれがそうでないか、を知る必要があります。もしも私たちが仕事の原則を理解するなら、私たちは物質的な呪縛から自由になることができます。したがって、どうやって仕事を行うかを知る必要があります。私たちが物質の体を去るとき、もはやもう一つ(の体)を取ることを強制されず、自由に霊的な天空に入れる(be free to enter into)ようにするためです。正しい仕事の原則は、11章の最後の節においてシュリー・クリシュナによって明確に述べられています。

mat-karma-kṛn mat-paramo
 mad-bhaktaḥ saṅga-varjitaḥ
nirvairaḥ sarva-bhūteṣu
 yaḥ sa mām eti pāṇḍava

「我が親愛なるアルジュナよ。過去の活動の汚染から、そして精神的な推量から自由になって、私への純粋な献身奉仕に携わっている者、すべての生命体に対して友好的である者は、確かに私のところに来ます。」

この一節は、バガヴァッド・ギーターの真髄を理解するのに十分です。人は「私の仕事(訳注:My work、クリシュナのために働くこと)」に携わらねばなりません。そして、この仕事とは何でしょうか?それは、クリシュナがアルジュナにご自分に服従するようにおっしゃる、バガヴァッド・ギーターの中の最後の教えにおいて示されます。

アルジュナの例によって、私たちは、自分はクリシュナによって認められた仕事だけをすべきである、ということを学ぶべきです。これが人間の人生の使命ですが、私たちはそれを知りません。自分の無知のため、私たちは人生の身体的あるいは物質的な概念に関わる非常に多くの仕事に携わります。クリシュナはアルジュナに戦うことを望まれ、そしてアルジュナは戦いたくなかったにも関わらず戦いました。クリシュナがそれを望まれたからです。私たちはこの例に倣うことを学ばねばなりません。

もちろん、クリシュナはアルジュナに彼の仕事が何であるのかを言うためにそこにいらっしゃいましたが、私たちについてはどうでしょうか?シュリー・クリシュナはアルジュナに個人的に、これこれこういうふうに活動するように、と指示していらっしゃいましたが、単にクリシュナが私たちの前に個人的にいらっしゃらないからといって、私たちは指示がないのだと考えるべきではありません。実に、指示は存在します。バガヴァッド・ギーターの最後の章において、私たちが行うべき正しい仕事が与えられています。

ya idaṁ paramaṁ guhyaṁ
 mad-bhakteṣv abhidhāsyati
bhaktiṁ mayi parāṁ kṛtvā
 mām evaiṣyaty asaṁśayaḥ

na ca tasmān manuṣyeṣu
 kaścin me priya-kṛttamaḥ
bhavitā na ca me tasmād
 anyaḥ priyataro bhuvi

「献身者に至高の秘密を説明する者にとって、献身奉仕は保証されています。そして最後に彼は私のもとに戻ります。この世の中に、私にとって彼より愛しい従者はいません。また、もっと愛しい者が未来において現れることもありません(nor will there ever be one more dear.)。」 (Bhagavad-gītā 18.68–69)

したがって、バガヴァッド・ギーターの方法(method)を布教し、人々をクリシュナ意識にすることは、私たちの義務です。クリシュナ意識が欠けているので、人々は実際に苦しんでいます。世界全体の利益のために、私たちは皆、クリシュナの科学を広めることに携わるべきです。主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナ意識を教えるという、この使命をもっておいでになり、そして主は、「身分に関わらず、もしも人がクリシュナ意識を教えるなら、彼は霊的指導者と考えられるべきです」とおっしゃいました。バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、どちらも、どうやってクリシュナ意識になるかという情報に満ちています。主チャイタンニャ・マハープラブはこれらの2冊の本を選び、世界中のあちこちの人々(people in all corners of the world)が、このクリシュナの科学をすべての町と村で広めることをお頼みになりました。主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身であり、そして私たちはこれを、私たちの正しい仕事に関するクリシュナの指示として受け取るべきです。しかし、私たちは、個人的な解釈や動機なくして、ありのままにバガヴァッド・ギーターを提示するように注意すべきです。一部の人々はバガヴァッド・ギーターの解釈を提示します。しかし、私たちは(訳注:バガヴァッド・ギーターの、あるいはクリシュナの)言葉をシュリー・クリシュナによって話されたように提示すべきです。

クリシュナのために働く者は、物質世界の中の他の誰ものように働いているように見えるかもしれませんが、これはそうではありません。アルジュナはちょうど普通の軍人のように戦ったかもしれませんが、彼はクリシュナ意識において戦ったので、自分の活動の呪縛から自由でした。このように、物質的であるように見えたにも関わらず、彼の仕事は全く物質的ではありませんでした。それが何であるかに関わらず―――クリシュナによって認められたいかなる活動も、反応を持ちません。戦うことはあまり良い(nice)ことではないかもしれません。しかし時として、クルクシェトラの戦いの場合のように、それは絶対に必要です。他方で、世界の意見においては非常に利他的あるいは人道的であるかもしれない仕事を私たちはするかもしれませんが、それでも私たちは物質的な活動に縛られます。ですから、重要なのは活動そのものではなく、活動がなされるときの意識です。

karmaṇo hy api boddhavyaṁ
 boddhavyaṁ ca vikarmaṇaḥ
akarmaṇaś ca boddhavyaṁ
 gahanā karmaṇo gatiḥ

「活動の複雑さは理解するのが非常に困難です。したがって、活動とは何か、禁じられた活動とは何か、そして非活動とは何かを、人は正しく知るべきです。」

カルマの道は非常に複雑です。したがって、私たちはカルマ、アカルマ、そしてヴィカルマの間の違いを理解すべきです。もしも私たちが単にクリシュナ意識に携わるなら、すべては明らかになります。そうでないなら、私たちは呪縛されないようにするために、自分が何をすべきかということ、そして自分が何をすべきでないかということの間の区別をつけなくてはなりません。普通の人生において、人生の普通の過程において) 、私たちは知らずに何らかの法律を破り、その結果に苦しまねばなりません。同様に、自然の法律は非常に厳しくて厳格なので、それらは何らの言い訳も受け入れません。火が燃えるのは自然の法律であり、たとえ子供がそれを触っても、彼は火傷します。彼の無知と無邪気さにも関わらずです。このため私たちは、自然の厳格な法律が私たちを苦しみに縛り付けるような反応をしないように(lest)、自分の活動の方針を非常に注意深く選ばねばなりません。したがって、何の仕事をし、何の仕事を避けるかを理解することが必要です。

カルマという言葉は、定められた義務を指します。ヴィカルマという言葉は、人の定められた義務に反する活動を指します。そして、アカルマという言葉は、全く何の反応もない活動を指します。アカルマ的な活動を遂行するにあたって、何らかの反応があるように見えるかもしれませんが、実際にはそれはありません。私たちがクリシュナの指示の下で働くとき、これは実際にそうです―――反応がありません。もしも私たちが誰かを殺すことを自ら行うなら(if we take it upon ourselves to kill someone)、私たちは国家政府によって死刑にされます(we are subject to)。そのとき私たちの活動はヴィカルマと呼ばれます。なぜなら、それらは定められた活動に反するからです。しかし、もしも政府が私たちを軍隊に徴兵し、そして私たちが戦いに携わって誰かを殺すなら、私たちは反応に苦しみません。そしてこれはアカルマと呼ばれます。一つの場合には私たちは自分の気まぐれに応じて活動しており、もう一つの場合には私たちは政府の指示の下で活動しています。同様に、私たちがクリシュナの指示の下で活動するとき、私たちが行った活動はアカルマと呼ばれます。なぜなら、そのような種類の活動は反応を持たないからです。

karmaṇy akarma yaḥ paśyed
 akarmaṇi ca karma yaḥ
sa buddhimān manuṣyeṣu
 sa yuktaḥ kṛtsna-karma-kṛt

「活動の中に非活動を、そして非活動の中に活動を見る者は、人間の中の知性的な者です。そして彼は、あらゆる活動に携わっているにも関わらず、超越的な立場にいます。」 (Bhagavad-gītā 4.18)

活動にも関わらずカルマ的な反応がないということを実際に見ることのできる者、アカルマの性質を理解する者は、実際に物事をありのままに見ます。アカルマという言葉は、カルマの反応を避けようとしている者を指します。自分の活動をクリシュナ意識に繋げることによって、人はあらゆる種類の活動をするかもしれませんが、それにも関わらず彼は自由です。クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦いにいそしみ、そしてドゥリョダーナの側にいた者たちもまた、戦いにいそしみました。私たちは、なぜアルジュナは反応から自由で、他方で、ドゥリョダーナはそうでないのか、ということを理解しなければなりません。外的には、私たちは両者とも戦いにいそしんでいるのを見ることができます。しかし私たちは、「アルジュナはクリシュナの命令の下で戦っているため、彼は反応によって縛られない」ということを理解すべきです。このように、誰かがクリシュナ意識において働いているのを見るとき、私たちは彼の仕事は何の反応も持たない、ということを理解すべきです。そのような仕事を見てそれを理解することができる者は、非常に知性的(サ・ブッディーマーン)であると考えられるべきです。その手法(technique)は、人が何をしているかを見ることにはあまりなく、なぜ彼がそれをしているかを理解することにあります。

実際は、アルジュナは戦場において非常に喜ばしくない(unpleasant)活動に携わっていました。しかし、クリシュナ意識だったので、彼は何の反応にも苦しみませんでした。私たちは、自分が非常に良い仕事だと考えるかもしれない何らかの活動を行っているかもしれません。しかし、もしも私たちがそれをクリシュナ意識において行わないなら、私たちは反応に苦しまねばなりません。物質的な観点からは、戦わないというアルジュナの最初の決断は良いものでした。しかし、霊的な観点からは、それはそうではありませんでした。徳のある(pious、敬虔な)仕事をするとき、私たちは特定の結果を得ます。私たちは、とても良い家庭に、(つまり)ブラーマナの、あるいは裕福な人の家庭に生まれるかもしれず、非常に豊かになったり、学識があったりするようになるかもしれず、あるいは非常に美しくなるかもしれません。他方で、もしも私たちが非敬虔な(impious、卑俗な)仕事をするなら、私たちは身分の低い家庭、あるいは動物の家庭に生まれなければならないかもしれず、あるいは文盲(illiterate、無学)や愚鈍(foolish)になったり、あるいは非常に醜くなったりしなければならないかもしれません。たとえ非常に徳のある仕事に携わって良い生を受けても、私たちはそれでも活動と反応の厳格な法律の影響下にあります。私たちの主要な目的は、この物質世界の法律を逃れることであるべきです。もしもこれを理解しないなら、私たちは貴族的な家庭、富、あるいは良い教育、または美しい体に魅了されるようになるかもしれません。私たちは、「自分は物質的な人生のためのこれらすべての設備を持っているにも関わらず、誕生、老齢、病気と死から自由ではない」ということを理解するようになるべきです。このことに関して私たちに注意を促すために、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて警告なさいます。 Bhagavad-gītā (8.16):

ābrahma-bhuvanāl lokāḥ
 punar āvartino ’rjuna
mām upetya tu kaunteya
 punar janma na vidyate

「物質世界の中の最高の惑星から最低のそれに至るまで、すべては繰り返す誕生と死が存在する悲惨な場所です。」

ブラーマロカ、物質的な宇宙の中の最高の惑星においてさえも、誕生と死の繰り返しが存在します。これから自由になるためには、私たちはクリシュナの惑星に行かねばなりません。裕福な人や美しい人であることは非常に素敵かもしれませんが、どれくらい長く私たちはそうしていられるでしょうか?それは私たちの永遠の人生ではありません。私たちは50年、60年、あるいは最長で100年の間、学識があって豊かで、そして美しくいられるかもしれません。しかし、本当の人生は50年や100年ではなく、千年でもなく、百万年でさえありません。私たちは永遠であり、そして私たちは自分の永遠の人生を得なければなりません。私たちがそれを得ていないというのが、私たちの問題全体です。

その問題は、私たちがクリシュナ意識であるとき、解決され得ます。もしも私たちがクリシュナ意識においてこの物質的な体を去るなら、私たちはもはや物質世界に戻る必要はありません。要点は、この物質的な存在を完全に避けることです。物質世界における自分の状況を改善する、ということではありません刑務所において人は第一級の囚人になるために自分の状態を改善したいと思うかもしれず、そして政府は彼に第一級の評価を与えるかもしれませんが、正気の者は誰も囚人になることによって満足するようになることはありません。彼は完全に刑務所から出ることを望むべきです。物質世界において、私たちの一部の者は一級、(そして他の者は)二級、あるいは三級の囚人ですが、どの場合でも私たちは皆、囚人です。本当の知識は、単に修士号、あるいは博士号を得ることにあるのではなく、存在のこれらの基本的な問題を理解することにあります。

yasya sarve samārambhāḥ
 kāma-saṅkalpa-varjitāḥ
jñānāgni-dagdha-karmāṇaṁ
 tam āhuḥ paṇḍitaṁ budhaḥ

「そのすべての行いが感覚の満足への欲求を含まない者は、完全な知識の中にあるとして理解されます。彼は賢人たちによって、『自分の結果を求める活動が完璧な知識の火によって燃え尽くされた者』と言われます。」 (Bhagavad-gītā 4.19)

パンディタムという言葉は学識があることを意味し、ブダーは「精通している」を意味します。10章の中で、私たちは「ブダー・バーヴァサマンヴィター」という節においてもブダーという言葉を見出します。(Bg.10.8)バガヴァッド・ギーターによれば、単に大学から多くの教育を受けたからといって、人は学識のある人とは限りません。バガヴァッド・ギーターは、すべてのものを等しい水準において見ることができる者は学識がある人だ、と言います。

vidyā-vinaya-sampanne
 brāhmaṇe gavi hastini
śuni caiva śva-pāke ca
 paṇḍitāḥ sama-darśinaḥ

「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は等しい見方をもって、学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、そして犬食い(賎民)を見ます。」

インドでは、ヴェーダの文明によれば、学識のあるブラーマナは人間の社会において最高の者と考えられます。学識があって柔和なパンディタは、そのようなブラーマナを犬、あるいは犬を食べる賎民と同じ水準において見ます。言い換えると、彼は最高と最低の間に区別を見ません。これは、学識のあるブラーマナであることは犬であることよりも優れたものではない、ということでしょうか?いいえ、それはそうではありません。しかし、パンディタは彼らを同じとして見ます。なぜなら、彼は皮膚を見ず、霊を見るからです。すべての生命体の中に同じ霊魂を見る術(art、すべ)を学んだ者は、パンディタと考えられます。なぜなら、実際はすべての生命体は霊的な火花(校正. ,)、完全な霊的な全体の欠かすべからざる小片だからです。霊的な火花はすべてにおいて同じですが、それは異なる衣服によって覆われています。立派な(honored、名誉ある)人は、非常にみすぼらしい服を着て来るかもしれませんが、これは彼が軽んじられる(dishonor、名誉を汚す)べきだということを意味するのではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、これらの物質的な体は霊魂によってまとわれる衣服になぞらえられます。

vāsāṁsi jīrṇāni yathā vihāya
 navāni gṛhṇāti naro parāṇi
tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇāny
 anyāni saṁyāti navāni dehī

「人が古いものを捨てて新しい衣服をまとうように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」

何かの生命体を見るときはいつでも、私たちは「ここに霊魂がいる」と考えるべきです。そのような生命の霊的な見方を理解することのできる者は誰でもパンディタです。チャーナキャ・パンディットは、このようにパンディタのための教育あるいは資格のための基準を与えます。「学識のある人は、自分の妻を除いて、すべての女性を自分の母として見ます。彼はすべての物質的な所有物を路上のゴミとして見て、そして彼は他者の苦しみを自分の中に見ます。」主ブッダは、「私たちは動物でさえ、言葉あるいは行いによって傷つけるべきではない」と教えられました。これがパンディタのための資格であり、これは人生の基準であるべきです。したがって、「人は彼の学位によってではなく、自分の人生の見方およびその見方に応じた自分の活動に応じて、教育があると考えられるべきだ」と理解されるべきです。これがバガヴァッド・ギーターからの、パンディタという言葉の理解です。同様に、ブダーという言葉は特に、聖典の研究に造詣の深い者を指します。そのような認識と聖典の学習の結果は、バガヴァッド・ギーターにおいてこのように描写されています。 Bhagavad-gītā (10.8):

ahaṁ sarvasya prabhavo
 mattaḥ sarvaṁ pravartate
iti matvā bhajante māṁ
 budhā bhāva-samanvitāḥ

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものが私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、そして心から(with all their hearts)私を崇拝します。」

造詣の深い者、すなわちブダーは、クリシュナがすべての放射の源であると理解した者です。何であれ私たちがたまたま見るものは、クリシュナの放射に他なりません。何百万年も何百万年もの間、太陽光は太陽から放射しています。そしてそれでも太陽はそのままです。同様に、すべての物質的および霊的なエネルギーは、クリシュナから来ています。これを知ることの結果として、人はクリシュナの献身者になります。

このように、自分はクリシュナ意識のいて働かねばならないと知っている者、もはやこの物質世界を楽しみたいと望まない者は、実際に学識があります。誰もが、欲望(カーマ)が原因で物質世界で働いています。しかし、賢い人はこの欲望の指図から自由です(カーマ・サンカルパ・ヴァルジター)。どうしてこれが可能なのでしょうか?ジニャーナーグニ・ダグダー・カルマーナム。知識の火は罪深い活動のすべての反応を焼き尽くします。それは浄化するものの中で最も強力です。私たちの人生は、私たちがすべての知識の王であるクリシュナ意識というこの超越的な知識、ラージャ・ヴィデャーを得ようと努力する限りにおいて、意味と方向性を持ちます。人間の意識の他にも、犬、猫、毛虫、木、鳥、獣や他のすべての種類の生物に意識があります。しかし、私たちはそのような意識で生きるべき存在ではありません。シュリマッド・バーガヴァタムには、私たちは非常に多くの誕生を経た後で初めて人間の体を得た、と書いてあります。今、私たちはそれを誤用すべきではありません。この人間の人生をクリシュナ意識を深めることに利用して、幸せになってください。

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