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第15章

シュリマッド・バーガヴァタムの中のアートマーラーマの節の解説

主チャイタンニャは次に、アートマーラーマとして知られる非常に有名な節を解説なさいました。それはシュリマッド・バーガヴァタムに次のように現れています。 (Śrīmad-Bhāgavatam 1.7.10):

ātmārāmāś ca munayo
  nirgranthā apy urukrame
kurvanty ahaitukīṁ bhaktim
  ittham-bhūta-guṇo hariḥ

この節は、解放された魂であり完全に自己満足している者は、やがて主の献身者になる、ということを示しています。この教え(injunction、通常は禁止命令を指す)は、特に非人格主義者のためのものです。非人格主義者たちは至高の人格神について何の情報も持たないからです。彼らは非人格的なブラーマンで満足し続けようとしますが、クリシュナはとても魅力的でとても強いので、主は彼らの心を惹きつけます。これがこの節の解説です。

この節は以前にサールヴァボーマ・バーッターチャーリャとして知られる偉大なヴェーダ学者(vedantist)に説明されていました。主チャイタンニャから教えを授かった後、サナータナ・ゴスヴァーミーはこの出来事に触れ、主に再びアートマーラーマの節を説明してくださるように祈りました。チャイタンニャ・チャリタームリタの著者であるカヴィラージャ・ゴスヴァーミーも、アートマーラーマの節の主による解説を喜び、自分の祈りの中で主チャイタンニャを讃えています。主チャイタンニャの足元にひれ伏して、サナータナ・ゴスヴァーミーは主に、主がかつてそれをサールヴァボーマ・バーッターチャーリャに説明したように、その節を説明してくださるように頼みました。

Sanātana Gosvāmī fell flat at the feet of Lord Caitanya and requested Him to explain the verse as He had formerly explained it to Sārvabhauma Bhaṭṭācārya. Sanātana expressed his eagerness to hear the same explanation in order that he might be enlightened. サナータナによってこのように頼まれて、主はお答えになりました。「なぜサールヴァボーマ・バーッターチャーリャが私の説明をそれほど喜んだのか、私には分かりません。私について言えば、私は自分が彼に何を言ったかさえ覚えていません。しかし、あなたが私にこれを頼んでいるので、私はあなたと協力して(with the help of your association:あなたとの関わりを助けとして)、何であれ自分が覚えていることを説明しようとしてみます。」このように、聞き手と話し手は非常に親密に繋がっています。話し手は聞き手の存在によって啓蒙されます(to enlighten)。話し手、すなわち師は、理解のある聞き手の前で超越的な事柄について非常によく話すことができます。したがって主チャイタンニャは、自分はどうやってそのサンスクリットの節を説明したらいいか分からないが、サナータナが一緒にいるので、説明しようと試みてみる、とおっしゃいました。

それから主は続けて、アートマーラーマの節には11の項目がある、と指摘なさいました。
1、アートマーラーマー(訳注:長音)
2、チャ
3、ムナヤー
4、ニルグランターハ
5、アピ
6、ウルクラメ
7、クルヴァンティ
8、アハイトゥキム
9、バークティム
10、イッタームブータ・グナハ
11、ハリヒ

それから主は、これらの項目のそれぞれを説明し始めました。アートマーラーマという言葉に関して言えば、主は、アートマーという言葉は次のようなことを指すのに使われる、と説明なさいました。
1、至高の完全真理
2、体
3、心
4、努力
5、信念
6、知性
7、自然

アーラーマという言葉は「楽しむ者」を意味します。したがって、これらの7つの事柄に関する知識を培うことに喜びを感じる者は誰でも、アートマーラーマとして知られます。主はそれから、異なる種類のアートマーラーマ、すなわち超越主義者たちについて説明しました。ムナヤー、あるいはムニという言葉に関して言えば、偉大な思索家である者はムニと呼ばれます。時として、ムニという言葉は、非常に荘重である人に対しても当てはめられます。偉大な賢人、偉大な禁欲者、偉大な神秘主義者、および造詣の深い学者もまたムニと呼ばれます。

次の言葉、ニルグランターは、幻想の呪縛からの自由を指します。ニルグランターはまた、「霊的な禁止命令(教え)と何の関係もない者」も意味します。グランターは明かされた聖典を指し、ニルは「無関係」、「積み重ねる(constructing、建設する)」、および「禁止する」を指す接頭語です。霊的な自己認識のための多くの教えがありますが、そのような霊的な禁止命令と何の関係もない者は、ニルグランターとしても知られます。愚かであり、身分の低い家庭に生まれ、不正を働く(misbehaved、行儀の悪いことをする)者、そして明かされた聖典や禁止命令に何の入場権もない多くの者がいます。(訳注:この場合の「禁止命令」も広く「教え」を指すものと思われます。「何の入場権もない」は、それらを知る機会が与えられていない、という意味であると思います。)そしてそのため彼らはニルグランターと呼ばれます。グランターは富を集めるという目的のためにも使われるので、ニルグランターは、すべての富を失っており、富を集めようとしている貧しい者も指します。(訳注:先の「積み重ねる」という意味はこれに関わる。)

ウルクラマという言葉は、大いに力強い人を指すのに使われます。クラマという言葉は歩を進めるという行いを指すのに使われ、ウルクラマという言葉ははるか遠くまで歩を進めることのできる者を指します。最大の一歩は主ヴァーマナデヴァによってなされました。主は全宇宙を二歩でまたがれました。そのためウルクラマは至高主ヴァーマナデヴァを指します。主ヴァーマナデヴァのこの非凡な特性は、シュリマッド・バーガヴァタム(2.7.40)において次のように説明されています。 

viṣṇor nu vīrya-gaṇanāṁ katamo ’rhatīha
  yaḥ pārthivāny api kavir vimame rajāṁsi
caskambha yaḥ sva-raṁhasāskhalatā tri-pṛṣṭhaṁ
  yasmāt tri-sāmya-sadanād uru-kampayānam

「誰も主ヴィシュヌの計り知れない力を推測することはできません。たとえ誰かがこの物質世界の中の原子の組み合わせの数を数えることができたとしても、その人はそれでも至高主の様々なエネルギーを数えることはできません。ヴァーマナデヴァとして、主は非常に強力でいらしたので、単に歩を進めることによって主はブラーマロカから下はパーターラロカまで宇宙全体をまたがれました。」

主の計り知れないエネルギーは創造全体を通して広がっています。主は偏在であり、ご自分のエネルギーによって主はすべての惑星系を維持なさいます。それでもご自分の喜びの力を通して主はゴロカとして知られるご自分の個人的なお住まいに留まり続けられます。ご自分の富を拡張することによって、主はすべてのヴァイクンターの惑星にナーラーヤナとして存在なさいます。ご自分の物質的なエネルギーを拡張することによって、主は中に無数の惑星を含む無数の宇宙を創造なさいます。このため、誰も至高主のすばらしい活動を推測することはできません。そしてそのため、至高主はウルクラマ、すなわちすばらしい俳優して知られます。ヴィシュヴァプラカーシャ辞書の中で、クラマという言葉は「エネルギーの熟達した顕示」、さらに「非常にすばやく歩を進める」として定義されています。

クルヴァンティという言葉は、「他者のために働く」ということを意味するために使われます。人の活動が自分の個人的な感覚の満足のためになされるときに使われる、これと似た別の言葉があります。しかし、クルヴァンティという言葉は、活動が至高存在の満足のためになされるときに使われます。このため、この節においてはこの言葉は主へ超越的な奉仕をすることだけを示すことができます。

ヘトゥという言葉は、理由あるいは原因を示すのに使われます。一般的に人々は3つの理由のために超越的な活動にいそしみます。ある者は物質的な幸せを望み、ある者は神秘的な完成を望み、またある者は物質的な呪縛からの解放を望みます。物質的な楽しみに関して言えば、非常に多くの種類があるので、誰もそれらを列挙することができません。神秘的な力の完成に関して言えば、18個あります。そして物質的な呪縛からの解放の種類に関して言えば、5つあります。これらすべての種類の楽しみ(訳注:上記の3種類をすべて含む)がその欠如によって際立っている状態は、アハイトゥキーと呼ばれます。(訳注:何かが無いことによってそれ自体が際立っている状態、というのは、例えば「月のない夜に、月がないことによって月が際立っている」というようなものだと思います。)アハイトゥキーの資質が特記されているのは、主へのアハイトゥキーの奉仕によって人は恩寵を得ることができるからです。

バークティという言葉は、10の異なる方法で使われ得ます。これらの10個の中に、サーダーナ・バークティ、すなわち職業的な(occupational)献身奉仕があります。(訳注:義務としての、という意味?)他の9つはプレマ・バークティ、すなわち至高神への愛と呼ばれます。中立的な立場に位置している者は、至高神への愛に至るまでの完成を得ます。同様に、主人と従者の関係に位置している者は、愛着の段階に至るまで至高神への愛を得ます。友情において関わっている者は、友愛の地点まで神への愛を得ます。主の親として主を愛している者は、超越的な感情の地点まで上げられます。しかし、至高存在と恋愛関係において関わっている者だけが最高の恍惚感を経験することができます。このように、バークティという言葉には様々な意味があります。

主は次に、イッタームブータグナの様々な意味を説明なさいました。イッターム・ブータは、その前ではブラーマーナンダとして知られる超越的な喜びが麦わらのようになる、完全に超越的な喜びを指します。ハリ・バークティ・スドーダヤ(14.36)において、ある献身者が言います。

tvat-sākṣāt-karaṇāhlāda-
  viśuddhābdhi-sthitasya me
sukhāni goṣpadāyante
  brāhmāṇy api jagad-guro

「我が主よ。おお、至高存在よ。単にあなたを理解することによって、あるいはあなたを知ることによって私たちが得る喜びはとても大きいので、ブラーマーナンダの喜びは取るに足らないものになります。」言い換えると、クリシュナをありのままにーーーすべての者を魅了する、すべての喜びの宝庫、そしてすべての超越的な資質を備えたすべての喜びを与える味わいの宝庫としてーーー理解することによって得られる喜びは、人を魅了して主の献身者にします。そのような魅力の美徳によって、人は結果を求める活動と解放のためのすべての努力を放棄することができ、ヨガの神秘的な力において成功を得たいという強い望みさえ放棄することができます。クリシュナの魅力は非常に強力なので、人は自己認識の(ための)他のすべての方法への敬意を失うことができ、単に至高の人格神に服従します。

主はまた、そのすべての異なる意味においてグナという言葉を説明なさいました。グナは、クリシュナの無限の超越的な性質を、おもに主のサク・スィッド・アーナンダの形を指します。主の超越的な喜びに満ちた知識と永遠性において、主は完全に完璧であり、そして主の完璧さは、主がご自分の献身者(の払う)注意(attention、好意、思いやり、世話など)によって統御されるときに増します。神はとても親切で慈悲深いので、献身者の献身奉仕と引き換えに、主はご自分自身をお与えになることができます。主の超越的な性質はそれほどであるので、主の美しさの完成、主ご自身と主の献身者の間の愛への主の完全な報い(reciprocation、お返し、やり取り)、そして主の超越的な性質の味わいは、様々に異なる種類の超越主義者たちと解放された魂を魅了します。例えば、主は単に主に捧げられた花から発する香りによって、サナカ・クマーラの心を魅了しました。シュカデヴァ・ゴスヴァーミーの心は、主クリシュナの超越的な娯楽によって魅了されました。ルクミニーの注意は、主の身体的な特徴と超越的な性質によって惹きつけられました。そして、幸運の女神の心は主の笛の演奏と他の超越的な特徴によって魅了されました。主クリシュナは、ご自分の子供らしい活動によって、すべての若い娘たちと年配の女性たちの心を魅了します。主はまた、ご自分の友好的な活動によって、ご自分の友人たちの心を魅了します。ヴリンダーヴァンにお現れになったとき、主は鳥、獣、木や草(plants)さえ魅了しました。実に、すべての者がクリシュナに愛と情愛をもって(in love and affection)魅了されるようになりました。

ハリという言葉には異なる意味があり、その中で二つが主要なものです。ハリは、主が献身者の人生からすべての縁起の悪いものを取り除くということと、主が超越的な至高神への愛を(ほうびとして)授けることをもって献身者の心を魅了する、ということを意味します。クリシュナは非常に魅力的なので、何らかのあり方で主を思い出していることのできる者は誰であれ、4つの種類の物質的な悲惨さから自由になります。主はご自分の献身者に特別な注意を払われ、献身奉仕の発達における障害物である献身者の様々な罪深い活動を消し去られます。これは、無明の影響を完敗させること、と呼ばれます。単に主について聞くことによって、人は主への愛を育みます。それが主の贈り物です。一方では主は縁起の悪いものを取り払われ、そして他方では最も縁起の良いものを(ほうびとして)授けられます。それがハリの意味です。至高神への愛において発達するとき、人の体、心、そして他のすべてのものは主の超越的な性質によって魅了されます。クリシュナの慈悲深い活動と超越的な性質の力はそれほどのものであるのです。主は非常に魅力的なので、超越的な愛着から献身者は霊的な生活の4つの原則ーーー宗教性、経済的な発展、感覚の満足の規制、および解放ーーーのすべてを放棄します。

アピおよびチャという言葉は副詞であり、ほぼどのような目的にも使われ得ます。チャ、すなわち「および(and)」という言葉は構成(construction、この場合は「構文、文章」?)全体に7つの異なる読解を与え得ます。

主はこうしてアートマーラーマの節における11の言葉の意味を確立なさり、そしてそれから主はそれぞれの項目の意味を次のように説明し始めました。ブラーマンという言葉は、すべての側面において最も偉大であるものを指します。主はすべての豊かさにおいて最も偉大です。誰も富、力、名声、美しさ、知識および放棄において主に優ることはできません。このため、ブラーマンという言葉は至高の人格神クリシュナを指します。ヴィシュヌ・プラーナ(1.12.57)において、ブラーマンという言葉はすべてのものの中でも最も偉大なものを指すために与えられています。(訳注:使われています)至高主は最も偉大であり、主が最も偉大なものとして拡張することには限りがありません。人はブラーマンの偉大さを知覚するかもしれませんが、それでもこの偉大さはそれほどに拡張する(to grow)ので、誰も主が実際どれほど偉大かを推測することはできません。

至高の人格神は3つの側面において認識されますが、それらはすべて全く同じものです。完全真理、至高の人格神クリシュナは永遠です。シュリマッド・バーガヴァタム(2.9.33)において、主はこの宇宙世界の顕現の前に存在し、主はそれが持続している間存在し、そして主はそれが滅亡した後も存在し続ける、と述べられています。したがって主はすべての偉大なものの魂です。主は偏在であり、すべてを見ておられ、そして主はすべてのものの至高の形です。

ヴェーダ文献には、人が完全真理のその至高の完成を、理解して手に入れることが出来るようになるための、3つの異なる種類の超越的な方法が述べられています。それらは、知識の方法、神秘的なヨガの方法、そして献身奉仕の方法と呼ばれます。これらの3つの方法に従うものは、3つの異なる側面において完全真理を認識します。知識の方法に従う者は主を非人格のブラーマンとして認識します。ヨガの方法に従う者は主を局所的な超魂として認識します。そして献身奉仕の方法に従う者は主を至高の人格神シュリー・クリシュナとして認識します。言い換えると、ブラーマンという言葉は他の何でもなくクリシュナ(だけ)を指しますが、それでも従われる方法に応じてシュは3つの異なる側面において認識されます。

献身奉仕に関して言えば、二つの部分があります。始めには、ヴィディー・バークティ、すなわち規律的な原則を伴う献身奉仕があります。より高い水準においては、ラーガ・バークティ、すなわち純粋な愛における献身奉仕があります。

至高の人格神は完全真理ですが、主はご自分の様々なエネルギーの拡張によっても顕現なさいます。献身奉仕の規律的な原則に従う者は、究極的には霊的な世界にあるヴァイクンターの惑星に至りますが、献身奉仕において愛の原則に従う者は、至高の住まい、すなわちクリシュナロカ、あるいはゴロカ・ヴリンダーヴァンとして知られる、霊的な世界における最高位の惑星に至ります。

超越主義者もまた3つの部類に分けられます。アカーマという言葉は、何らの物質的な欲望もない者を指します。モクシャ・カーマは、物質的な悲惨さからの解放を求める者を指します。そしてサルヴァ・カーマは、楽しもうという物質的な欲望を持つ者を指します。最も知性的な超越主義者は、多くの望みを持っているかもしれないとはいえ、他のすべての方法を捨てて主への献身奉仕にいそしみます。人がかすかな献身奉仕を加えること無くして最高の完成を得ることができるのは、いかなる種類の超越的な活動によってでもーーー結果を求める活動によってでも、知識を培うことによってても、神秘的なヨガの修行をすることによってでもーーーありません。(訳注:「いかなる種類の超越的な活動をもってしても、ほんの少しでもいいから献身奉仕が入っていないなら、最高の完成を得ることはない」という意味だと思います。)献身奉仕を除いては、他のすべての超越的な方法は、ちょうどヤギの首にある乳首(のように見えるもの)のようなものです。ヤギの首にある乳首を絞ることはできるかもしれませんが、それらが乳を出すことはありません。もしも自分の方法から実際の完成を得たいのであれば、人はクリシュナへの献身奉仕を習慣付けなければなりません。バガヴァッド・ギーターには次のように述べられています。

In the Bhagavad-gītā (7.16) Lord Kṛṣṇa states:

catur-vidhā bhajante māṁ
  janāḥ sukṛtino ’rjuna
ārto jijñāsur arthārthī
  jñānī ca bharatarṣabha

「おお、バーラタのうちで最良の者(アルジュナ)よ。4種類の敬虔な人々が私に奉仕をします。苦しんでいる者、富を求める者、探求的である者、至高存在に関する知識を探している者です。」(BG 7.16) これらの4種類の人々が徳のある行いを積むとき、彼らは主への献身奉仕に至ります。これらの4つのうち、苦しんでいる者および富を求める者は、欲求を伴う献身者と呼ばれます。一方、他の二つ、すなわち探求的である者および知恵を捜し求める者は、解放を求める者です。彼らはクリシュナを崇拝するので、彼らは皆、非常に幸運であると考えられます。やがて、もしも彼らがすべての欲望を捨てて至高主の純粋な献身者になれば、彼らは最も幸運であると考えられ得ます。そのような幸運な初心者は、主クリシュナの純粋な献身者との関わりにおいてのみ発達することができます。
純粋な献身者と関わるとき、人は自らも純粋な献身者になります。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.10.11)において確認されています。

sat-saṅgān mukta-duḥsaṅgo
  hātuṁ notsahate budhaḥ
kīrtyamānaṁ yaśo yasya
  sakṛd ākarṇya rocanam

「実際に知性的である者は、純粋な献身者との関わりによって、主クリシュナと主の活動について聞くことができます。」これらの活動は非常に魅力的なので、それについて聞くとき、人は自分の主との関わりを放棄しません。(訳注:「~は非常に魅力的なので、いったんそれを聞いた者は主との関わりを手離さないようになる」という意味だと思います。)

しかし、純粋な献身者との関わりにとって、他のすべての関わりはカイダヴァ、すなわちインチキです。これはシュリマッド・バーガヴァタムの第1巻において確認されており、そこでは超越的な認識を邪魔するすべてのインチキな方法は捨てられるべきだと述べられています。シュリマッド・バーガヴァタムによって、人は現実をありのままに理解することができます。そしてそのような理解は人が3種類の物質的な悲惨さを超越するのを助けます。シュリマッド・バーガヴァタムは偉大な賢人ヴャーサデヴァによって編纂されました。そしてそれは彼の成熟した経験から生じた作品です。シュリマッド・バーガヴァタムを理解することによって、そして献身奉仕を行うことによって、人は直ちに自分の心の中の至高主を捕らえる(to capture、心を掴む、という意味もある)ことができます。

主チャイタンニャはそれから、プロッジータという言葉は「解放への欲求」を意味するのであると説明なさいました。ある偉大な解説者は、解放への欲求は神を認識する道における最も邪魔になる障害物である、と説明しました。どうにかして人がクリシュナのもとに来て、主について聞き始めると、クリシュナはとても親切なので、主はその人にご自分の蓮の御足を中心として授けられます。そのような中心点を持つことによって、献身者あるいは超越主義者はすべてを忘れ、主への献身奉仕に携わります。人が献身奉仕において、あるいは完全なクリシュナ意識において主のもとへ来れば、報酬は至高存在ご自身です。いったん至高存在のために働くと、人はもはや何ものも欲しがりません。苦しんでいる者と物質的な所有を望む者も同様です。献身奉仕の方法、献身奉仕そのもの、純粋な献身者との関わり、そして主のいわれなき慈悲は、どれも非常にすばらしく働くので、たとえ苦しんでいても、物質的な所有を望んでいても、探求的であっても、あるいは実際に知識を培っている賢い者であっても、人はすべての活動を放棄してクリシュナに浸ることができるようになります。

要するに、クリシュナがアートマーラーマの節のすべての言葉の背後の意味なのです。ここに至るまで、主チャイタンニャはアートマーラーマの節の導入部についてだけ語られました。次に主は、その本当の位置づけを説明なさいます。

知識を培うことの中には、2種類の超越主義者たちがいます。それらの一方は非人格のブラーマンを崇拝し、そして他方は解放を望みます。一元論者はブラーマンの非人格な性質を崇拝するので、したがって彼らはブラーマンの崇拝者と呼ばれます。これらのブラーマンの崇拝者たちは、さらに3つの部類に分けられます。初心者、ブラーマン認識に浸っている者、そして実際に自分をブラーマンとして認識した者です。もしも献身奉仕が加えられるなら、そうすればブラーマンを知る者は解放されます。そうでなければ、解放の可能性はありません。

クリシュナ意識において完全に献身奉仕にいそしんでいる者は誰であれ、既にブラーマンを認識している(realized in Brahman)として理解されます。献身奉仕は非常に強いので、人はブラーマン崇拝の水準からでさえクリシュナに魅了されます。主は献身者に霊的な体の完成を褒美として授けられ、そして彼は永遠にクリシュナへの超越的な奉仕にいそしみます。心から献身奉仕にいそしむのは、献身者がクリシュナの超越的な性質を理解して、それによって魅了されるようになるときです。例えば、4人のクマーラたちとシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは最初から解放されていましたが、それでも彼らは後に(in their later life、晩年に、人生の後のほうで)クリシュナの娯楽に魅了され、献身者になりました。サナカ・クマーラはクリシュナに捧げられた花の香りによって魅了され、他のクマーラたちは主の超越的な性質によって魅了され、そうして主への献身奉仕に携わりました。シュリマッド・バーガヴァタムの11巻において言及されている9人の神秘主義者たちは、ブラーマー、主シヴァおよびナーラダからクリシュナの超越的な性質について聞いたことの徳の力によって、生まれたときから超越主義者であったと理解されます。

時として、人は単に主の超越的な体の美しい姿を見ることだけによって、クリシュナと主の超越的な性質に魅了されるようになります。その場合には、人は解放への欲求を放棄し、主への献身奉仕にいそしみます。献身者はいわゆる「知識」を培うことに無駄に費やした時間を後悔し、主の純粋な献身者になります。

物質的な体を持った、2種類の解放された魂があります。献身奉仕によって解放された魂と、知識を培うことによって解放された魂です。クリシュナの超越的な性質によって魅了された、献身奉仕において解放された魂は、ますます上げられます。他方、無味乾燥な推量にいそしみ、献身の念無くして単に知識を培う者は、その多くの無礼(offenses)によって堕落します。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)において確認されています。そこには次のように述べられています。

ye ’nye ’ravindākṣa vimukta-māninas
  tvayy asta-bhāvād aviśuddha-buddhayaḥ
āruhya kṛcchreṇa paraṁ padaṁ tataḥ
  patanty adho ’nādṛta-yuṣmad-aṅghrayaḥ

「おお、主よ。自らを解放されていると考えるけれど献身の念の無い者の知性は純粋ではありません。厳しい苦行と禁欲の力によって彼らは解放の最高の地点にまで上がるとはいえ、彼らは必ずまたこの物質的な存在に堕落します。彼らはあなたの蓮の御足の庇護を受けないからです。」これはバガヴァッド・ギーターにおいても確認されています。

brahma-bhūtaḥ prasannātmā
  na śocati na kāṅkṣati
samaḥ sarveṣu bhūteṣu
  mad-bhaktiṁ labhate parām

「超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを持ちたいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」(BG18.54) このように、実際にブラーマン認識に位置している者は、嘆いたり欲したりする理由を持ちません。彼はすべての者に対して平等であり、そのため献身奉仕の資格があります。これはビルヴァマンガラ・タークラによっても受け入れられています。彼は晩年、次のように嘆きました。(訳注:念のため、これは反語的な表現であり、本当に嘆いたわけではない。)「私は至高存在と一つになるために一元論者として位置していました。しかし、どういうわけか私はいたずらな少年を知り、彼の永遠の従者となりました。」言い換えると、献身奉仕を遂行することによって自己認識に至る者は超越的な体を得て、そしてクリシュナの超越的な性質に魅了され、純粋な献身奉仕に完全にいそしみます。

クリシュナに魅了されていない者は誰であれ、まだ幻想エネルギー(マーヤー)の魔力の下にあると理解されます。しかし、献身奉仕の方法によって解放されようと試みている者は、実際はマーヤーの魔力から解放されています。シュリマッド・バーガヴァタムの11巻には、単に献身奉仕にいそしむことによって、この人生において解放された献身者の多くの例が記録されています。

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