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第18章

プラカーシャーナンダとの会話

マーヤーヴァーディーのサンニャースィーの原則によれば、歌うこと、踊ること、そして楽器を演奏することは厳しく禁じられています。なぜなら、それらは罪深い行いと考えられているからです。マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは、単にヴェダーンタの学習(study、学習、研究)に携わるべきだとされています。したがって、ベナレスのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが主チャイタンニャが歌うことと踊ることと楽器を演奏することと、そしていつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることに耽っているのを見たとき、彼らは、主は教育がなく、感傷から自分の追従者たちを誤って導いている、と結論しました。シャンカラーチャーリャの命令は、サンニャースィーはいつもヴェダーンタの研究に携わっているべきであり、単に一着の服だけで満足すべきである、というものでした。主チャイタンニャは正式にヴェダーンタを学習することもせず、歌うことと踊ることを止めもしなかったので、主はベナレスのすべてのサンニャースィーと彼らの家庭人の追従者たちによって批判されました。

主チャイタンニャがご自分の生徒と弟子からこの批判の知らせを受け取ったとき、主は単に微笑んで、マトゥーラーとヴリンダーヴァンに向けて出発しました。主がマトゥーラーからジャガンナーター・プリーへ行く途中に再びベナレスに戻ったとき、主は、店員だったのでシュードラと考えられていたチャンドラシェクハラの家に滞在なさいました。これ(訳注:家の主人がシュードラであること)にも関わらず、主チャイタンニャ・マハープラブは彼の家に居を構えました。主チャイタンニャは、ブラーマナとシュードラを区別なさいませんでした。主は献身的な者を誰でも受け入れました。習慣的に、サンニャースィーはブラーマナの家に泊まり、食事をすることになっていますが、主チャイタンニャ・マハープラブは独立した至高の人格神でいらっしゃるので、独自の判断をなさり、チャンドラシェクハラの家に泊まることを決心なさいました。

当時、自分たちのブラーマナとしての家系を誤用して、ブラーマナたちは、ブラーマナの家庭に生まれなかった者は誰でもシュードラと考えられる、とする法律を作りました。そのため、クシャトリヤとヴァイデャでさえもシュードラと考えられました。ヴァイデャはブラーマナの父とシュードラの妻の子孫であるとされていたので、彼らは時としてシュードラと呼ばれました。そのため、チャンドラシェクハラ・アーチャーリャは、ヴァイデャの家庭に生まれたにも関わらず、ベナレスではシュードラと呼ばれていました。ベナレスにいらした間はずっと、主チャイタンニャはチャンドラシェクハラの家に留まり、タパナミシュラの家で食事をなさいました。

サナータナ・ゴスヴァーミーがベナレスで主チャイタンニャに会ったとき、彼は2ヶ月の継続的な教えの間に、献身奉仕の過程と原則を学びました。主チャイタンニャのサナータナ・ゴスヴァーミーへの教えは、この本の最初の部分に描写されています。これらの教えを受けた後、サナータナ・ゴスヴァーミーは献身奉仕の原則とシュリマッド・バーガヴァタムを広めることを認定されました。タパナミシュラとチャンドラシェクハラの両者が主チャイタンニャ・マハープラブへの強い批判に関してひどく(主に対して)気の毒に思っていたのはこの頃であり、彼らは一緒にやってきて、主にマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちに会うように懇願しました(to pray、祈る)

「私たちは、あなたに対するマーヤーヴァーディーのサンニャースィーからの好意的でない批判を聞くことで屈辱を感じさせられています」と彼らは主チャイタンニャに告げました。「実に、それは私たちにとって耐えられないものとなっています。」彼らは主に、これらの批判が止まるように何かしてほしい、と頼みました。彼らがこの事項について議論していたとき、一人のブラーマナが主チャイタンニャのところに来て、主を自分の家に招きました。チャイタンニャ・マハープラブ以外のすべてのサンニャースィーが招かれていたので、そのブラーマナは主を招きに来たのでした。主はマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちとは関わらないことをしっていたので、ブラーマナはチャイタンニャ・マハープラブの足元にひれ伏して主に懇願しました。「私はあなたが招待をお受けにならないと知っていますが、私はそれでもあなたに、来て私の家で他のサンニャースィーたちと共にプラサーダを召し上がることを懇願します。もしもあなたがこの招待を受け入れてくださるなら、私はそれを特別な恩恵と考えます。」

主はこの機会を利用し、マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちと会うためにブラーマナの招待を受け入れました。実は、これは主ご自身によってなされた配剤でした。主を招待したブラーマナは、主がどんな招待も受け入れないと知っていたにも関わらず、それでも主を招くことに非常に熱心でした。

次の日、主チャイタンニャはそのブラーマナの家に行き、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちがそこに座っているのを見ました。主は習慣に倣ってすべてのサンニャースィーたちに敬意を捧げ、それからご自分の足を洗いにいらっしゃいました。洗ったあと、主は他のサンニャースィーたちから少し離れた、足を洗う桶の横に座りました。主がそこに座っていた間に、サンニャースィーたちは主の体から放射しているまばゆい光輝を見ました。このまばゆい光輝に魅了されて、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは立ち上がって主に敬意を示しました。彼らの中に、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーという名前のサンニャースィーがいました。彼は非人格主義者のサンニャースィーの中の長であり、彼は大いなる謙遜の念をもって主チャイタンニャに話し掛け(to address、名を呼ぶ)、主に、来て自分たちと共に座るように頼みました。

「我が親愛なる方よ(My dear Sir,)、なぜあなたはその汚い場所に座っておいでなのですか?」と彼は尋ねました。「来て私たちと一緒に座ってください。」

「おお、私はサンニャースィーの(中の)劣った学派に属しています」と主チャイタンニャは答えました。「したがって、私はあなた方と共に座るべきではないと考えます。この低いところにいさせてください。」

プラカーシャーナンダは、そのような学識のある人からそのようなことを聞いて驚きました。そして、彼は実際に主の手をとり、主に、どうか来て自分と一緒に座ってくれるように、と頼みました。主チャイタンニャがとうとう彼らと共に座ったとき、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーは言いました。「私は、あなたの名前はシュリー・クリシュナ・チャイタンニャだと思います。そして、あなたはシャンカラーチャーリャ・サムプラダーヤに属するケシャヴァ・バーラティーからサンニャーサを受けられたので、あなたは私たちのマーヤーヴァーディー学派に属する、と私は理解しています。」

シャンカラ学派によれば、サンニャースィーには10個の異なる名前があります。それらのうち、3つの名前―――ティールター、アーシュラマ、およびサラスヴァティー―――が、最も啓蒙されて教養があると考えられるサンニャースィーに与えられます。主チャイタンニャはヴァイシュナヴァなので、主はもともと謙虚で柔和(meek、腹を立てず、じっと我慢するような性質)です。そして主は、サラスヴァティー・サムプラダーヤに属するプラカーシャーナンダに、より良い座席を与えたいと望まれました。シャンカラの原則によれば、バーラーティック学派のブラーマチャーリーはチャイタンニャと呼ばれます。しかし、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブは、サンニャーサとなったにも関わらず、ご自分のブラーマチャーリーの名前を保ち、バーラティーの称号を使いませんでした。

「ところで、(Well, Sir)」と、プラカーシャナンダ・サラスヴァティーは続けました。「あなたは私たちのシャンカラ学派に属し、そしてあなたはベナレスにお住まいです―――では、なぜあなたは私たちと交流なさらないのですか?何が理由ですか?う一つ―――あなたはサンニャースィーで、単にヴェダーンタの学習にいそしむべきだとされています。しかし私たちは、あなたがその代わりにいつも聖名を唱えることと踊ることと音楽を奏でることにいそしんでいらっしゃるのを見ます。何が理由ですか?これらは感情的で感傷的な人々の活動ですが、あなたは資格のあるサンニャースィーです。なぜヴェダーンタの学習をなさらないのですか?あなたの光輝からは、私たちには、あなたはちょうど至高のナーラーヤナ、至高の人格神のように見えます。しかし、あなたの振る舞いからは、あなたはそうでないように見えます。ですから私たちは、なぜあなたがそのように振舞われるのか知りたいと思っています。」

「我が親愛なる方よ。私の霊的指導者は、私を大変な愚か者とお考えになりました」と主チャイタンニャは答えました。「ですから彼は、私は大変な愚か者なので、ヴェダーンタを学ぶ能力はない、とおっしゃって、言うなれば(more or less)私を罰せられたのです。そして、その代わり彼は私に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを与えられました。私の霊的指導者は私に、「ただこのハレ・クリシュナ・マントラを唱え続けなさい。それはあなたを全く完璧にします」とおっしゃいました。」

実際は、主チャイタンニャは愚か者でもなければヴェダーンタの原則に関して無知でもありません。主の目的は、現代の社会に対して、「苦行と禁欲の歴史を持たない愚か者は、単に何らかの娯楽としての目的のためにヴェダーンタを学ぼうとすべきではない」と示すことでした。ご自分のシクシャースタカの中で、主チャイタンニャは、人は謙虚な心の状態であるべきであり、自分を路上の草よりも低いと考えるべきであり、木よりも忍耐強くあるべきであり、そしていかなる名誉の感覚も持たないでいるべきであり、他者にあらゆる種類の敬意を捧げる用意ができているべきである、とおっしゃいました。そのような心の状態において、人はヴェダーンタ哲学や神の聖なる御名を絶え間なく唱えることができます。主はまた、「超越的な科学の真剣な学徒は、自分の霊的指導者の言葉に従うべきである」ということも教えたいと望まれました。(主の)霊的指導者の判断によれば、主チャイタンニャは愚か者であるように見えました。したがって彼は、主はヴェダーンタの学習に耽るべきではなく、ハレ・クリシュナを唱え続けるべきである、とおっしゃいました。主チャイタンニャは、この命令に厳密に従いました。言い換えると、主はマーヤーヴァーディーたちに、「真正なる霊的指導者の言葉は厳密に従われなければならない」と強く認識させました。それらに従うことによって、人はすべての面で完璧になります。

ヴェダーンタは、ヴェーダの知識の最後の言葉はクリシュナの理解である、と指し示しています。

(サンスクリット引用)

「すべてのヴェーダによって私は知られるべきものです(I am to be known)。実に、私はヴェダーンタの編纂者であり、私はヴェーダを知る者です。」(BG15.15)人が実際にヴェダーンタを理解するようになるとき、彼はクリシュナと、自分のクリシュナとの関係とを、知るようになります。クリシュナを理解する者はすべてを理解します。クリシュナを知る者はいつもクリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしんでいます。これは主ご自身によってバガヴァッド・ギーターの中で確認されています。

(サンスクリット引用)
 

ahaṁ sarvasya prabhavo
  mattaḥ sarvaṁ pravartate
iti matvā bhajante māṁ
  budhā bhāva-samanvitāḥ

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から発します。これを完全に知っている知恵ある者は、私への献身奉仕にいそしみ、全身全霊で(with all their hearts)私を崇拝します。」(BG10.8)

すべての生命体は、主人と従者という関係において永遠にクリシュナと関係があります。いったんその奉仕が欠落すると―――あるいは、言い換えれば、人がクリシュナ意識に位置していないとき―――ヴェダーンタの学習が不十分であると理解されいます。人がクリシュナを理解しなかったり、主への超越的な愛情ある奉仕にいそしまなかったりするとき、彼はヴェダーンタの学習と至高の人格神の理解に反対(adverse to、敵対、逆行)であると理解されます。主チャイタンニャによって示されたヴェダーンタ学習の道は、すべての者によって辿られるべきです。いわゆる「教育」によって驕り高ぶっていて謙虚さを持たない者は、真正なる霊的指導者の保護を求めません。彼は、自分は霊的指導者を必要とせず、自分自身の努力によって最高の完成を達成することができる、と考えます。そのような人々には、ヴェダーンタ・スートラを学ぶ資格はありません。物質エネルギーの魔力の下にある者は師弟継承の教えに従わず、自分の独自の何かを作りだそうとします。そしてそのため、ヴェダーンタ学習の領域から足を踏み出します(to step outside)。真正なる霊的指導者は、いつもそのような独立した精神的な推量者を非難しなければなりません。もしも真正なる霊的指導者が直接的に弟子の愚かさを指摘するなら、それはそうではないとして理解されるべきではありません(it should not be taken otherwise)。

神の科学に関して全く無知な者は、学識があるとは考えられ得ません。大なり小なり、クリシュナ意識にない者は誰でも愚かさの影響を受けます。時として私たちは、霊的指導者としての教育をほとんど受けていない者を受け入れることによって自分の愚かさをさらします。その蓮の御足がすべてのヴェーダによって崇拝される至高の人格神を理解することは、私たちの義務です。主を理解せず、ヴェダーンタの誤った理解を誇りに思っている者は、実際は愚か者です。学術的な(academic)知識に対する俗世的な試みは、単に別の種類の愚かさです。人が宇宙の顕現を物質自然の三つの相の表象(representation)であるとして理解できない限り、彼は酩酊の闇の中にいて、この物質世界の二重性の中に囚われていると考えられねばなりません。ヴェダーンタの完璧な知識の中にある者は、宇宙の顕現全体の維持者であり扶養者である至高主の従者になります。人が有限なるものへの奉仕を超越しない限り、彼はヴェダーンタの知識を持つことができません。

人が結果を求める活動の限定された管轄(jurisdiction、権限、支配権)の中にあったり、あるいは精神的な推量に関わっている限り、彼はおそらくヴェダーンタ・スートラの理論上の知識を学んだり教えたりする資格はあるかもしれませんが、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という至高で永遠で超越的な(完全に解放された)振動を理解することができません。超越的なハレ・クリシュナの振動を唱えることにおいて完成を得た者は、ヴェダーンタ・スートラの哲学を別に(separately)学ぶ必要がありません。真正なる霊的指導者であるチャイタンニャ・マハープラブの教えによれば、超越的な振動を至高存在と異なるものではないとして理解しない者と、マーヤーヴァーディー哲学者やヴェダーンタ・スートラの専門家(expert、熟達者)になろうとする者は皆、愚か者です。自分の独自の努力(知識の上方向の過程)によってヴェダーンタ・スートラを学ぶことは、愚かさのもう一つのしるしです。しかし、超越的な振動を唱えることへの好みを得た者は、実際にヴェダーンタの結論を得ます。このことに関して、シュリマッド・バーガヴァタムの中に非常にためになる二つの節があります。最初の節の説明は、「たとえ低いカーストの者が超越的な音を唱えることにいそしんだとしても、彼はすべての種類の放棄、禁欲および犠牲を行い、すべてのブラーマ・スートラを学んだのだと理解される」というものです。このように(Thus)人は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることができるようになり得ます(訳注:can be able to、一般的な用法ではありませんが、「できるようになれる、そうなれる可能性がある」という意味合いであり、文法の間違いではありません)。二番目の節の説明は、「「ハ・リ」という二つの音節を唱える者は、すべてのヴェーダ―――リグ・ヴェーダ、アタールヴァ・ヴェーダ、ヤジュール・ヴェーダ、そしてサーマ・ヴェーダ―――を学んだのであると考えられねばならない」というものです。

他方で、ヴェダーンタは献身者のためのものではないと考える、多くのいわゆる「献身者」がいます。そのような人々は、ヴェダーンタが純粋な献身者の唯一の足場であるという事実を知りません。4つのヴァイシュナヴァ・サムプラダーヤのすべての偉大なアーチャーリャたちは、ヴェダーンタ・スートラに関して注釈書を作りました。しかし、プラークリタ・サハジャーとして知られるいわゆる「献身者」たちは、ヴェダーンタ・スートラの学習を注意深く避けます。プラークリタ・サハジャーは誤って、純粋な献身者とヴァイシュナヴァ・アーチャーリャを、精神的な推量者、あるいは結果を求める活動を行う者と考えます。その結果、彼ら自身がマーヤーヴァーディーになり、至高主への奉仕から離れます。

ヴェダーンタ・スートラを学術的な知識によって理解することは、決して人が超越的な振動の価値を理解するのを可能にしません。学術的な知識にとらわれている者は、「私」、「私のもの」、そして「私の」の理解という事実に関して混乱している、制約された魂です。その結果、彼らは自分の心を外的なエネルギーから切り離すことができません。人が実際に超越的な知識を得るとき、彼はこの二重性から自由になり、至高主への超越的な愛情ある奉仕に携わります。主への奉仕は、人が物質的な活動に非執着になれる唯一の方法です。真正なる霊的指導者によって正しく導かれ(to initiate、秘伝を授ける、入門させる)、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることにいそしんでいる者は、徐々に「私」と「私のもの」という概念から自由になり、5つの超越的な関係のうちの一つにおいて主への超越的な愛情ある奉仕に執着するようになります。そのような超越的な奉仕は、濃密な、あるいは希薄な体にとっては、考慮の対象(subject matter)ではありません。「至高存在と主の御名の間には何の違いもない」と理解できるときにだけ、人はクリシュナ意識に位置することができます。そのようなときには、人はもはや文法的な調整(grammatical adjustment)をする必要はありません(訳注:これはおそらく、「言葉の表面的な解釈をひねくり回して独自の理論で神を知ろうとする必要はなくなる」、ということではないかと思います。)むしろ人は、主に請願することにもっと興味を持つようになります。「ハレ・クリシュナ―――おお、我が主よ。おお、主のエネルギーよ。どうぞ私をあなたへの奉仕に携わらせてください!」

主チャイタンニャは、このすべてをプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに説明し、彼に、自分はこのすべてを自分の霊的指導者から聞いたのだ、と言いました。主はさらに、ヴェダーンタ・スートラの著者であるヴャーサデヴァによってシュリマッド・バーガヴァタムの中で述べられているように、「”シュリマッド・バーガヴァタムがヴェダーンタ・スートラの実際の注釈書である”と自分の霊的指導者が自分におっしゃった」とプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーにお告げになりました。(訳注:構文がややこしいので注意してください。SBが~の注釈書である、と主に言ったのは主チャイタンニャの霊的指導者です。そして主チャイタンニャは「自分は彼にそう言われたんだ」とプラカーシャーナンダに言いました。そして、その同じことがヴャーサデヴァによってSBの中でも述べられています。)

生徒は、彼が聖なる御名と至高主の正体(identity、本性、身元など)を理解するときに、完璧だと考えられます。人が悟りを開いた(realized、真理を認識した)霊的指導者の庇護の下にない限り、至高存在に関する彼の理解は単に愚かです。しかし、人は奉仕と献身によって超越的な主を完全に理解することができます。主チャイタンニャが無礼をすることなく(offencelessly)ハレ・クリシュナ・マントラを唱えたとき、主は、そのマントラは直ちに制約された魂を物質的な汚染から解放することができる、と宣言なさいました。このカリの時代においては、このマハ・マントラを唱えることの代替策はありません。すべてのヴェーダ文献の真髄は、クリシュナのこの聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱えることである、と述べられています。主チャイタンニャはまた、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに次のようにおっしゃいました。「このヴェーダの知識の本質的な(essential、非常に重要な)事実について私を納得させるために、私の霊的指導者はブリハン・ナーラディーヤ・プラーナから一節(38.126)を教えられました。この争いと欺瞞の時代にあって、解放のための唯一の方法は主の聖なる御名を唱えることです。他に方法はありません。他に方法はありません。他に方法はありません。」

4つの時代のうちの3つ(つまりサッテャ・ユガ、トレター・ユガ、およびドゥヴァーパラ・ユガ)において、人々は師弟継承の道を通って超越性を理解することができるという光栄を得ていました。しかし、今の時代では、人々は師弟継承に何の興味も持ちません。その代わり、彼らは理論と議論の多くの道(path)を作り出しました。至高の超越性を理解するこの個々の試み(上方向の方法と呼ばれる)は、ヴェーダによって認められていません。完全真理は完全な水準から下りて来なければなりません。主は上方向の方法によって理解されるべきものではありません。主の聖なる名前―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――は超越的な振動です。なぜなら、それは超越的な水準、クリシュナの至高のお住まいから来るからです。クリシュナと主の御名の間には何の違いもないので、クリシュナの聖なる御名はクリシュナご自身と同じくらい純粋で完璧で解放されています。学術的な学者たちは、神の聖なる御名の超越的な性質の理解に、論理とその他の議論という方向によっては入ることができません。「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」の超越的な性質を理解するための唯一の道は、これらの御名を信仰(faith、信念)と信奉(adherence、固執、遵守)をもって唱えることです。そのような唱名は、人を濃密および希薄な体から生じる区分された状態から解放します。

論理と議論と意見の不一致のこの時代においては、ハレ・クリシュナを唱えることが自己認識のための唯一の方法です。この超越的な振動だけが制約された魂を解放することができるので、それはヴェダーンタ・スートラの真髄であると考えられます。物質的な概念によれば、人の名前、形、性質、感情および活動と、その人自身の間には、二重性があります。しかし、超越的な振動に関して言えば、そのような制限はありません。それは霊的な世界から下りてくるからです。霊的な世界では、人の名前とその人の性質の間に違いはありません。もちろん、物質的な世界では、違いがあります。マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、これを理解することができないので、彼らは超越的な振動を発声することができません。

それから主チャイタンニャはプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、自分は自分の霊的指導者から命令を受けたtので、常に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えているのだ、とおっしゃいました。「この唱名の結果として」と主はおっしゃいました。「私は時として非常に意思が弱くなり(impatient、忍耐力のない、気短な)、踊ったり笑ったりすることや、あるいは泣いたり歌ったりすることから自分自身を抑制することができません。実に、私はちょうど狂った人のようになります。私が最初に、「自分はこの「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂ったのか」と思ったとき、私は自分の霊的指導者に近付き、彼に「自分は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂った」と告げました。そうして私は彼に、私の本当の立場は何なのか、と尋ねました。」

ナーラダ・パンチャラートラにおいて、こう述べられています。

eṣo vedāḥ ṣaḍ-aṅgāni
  chandāṁsi vividhāḥ surāḥ
sarvam aṣṭākṣarāntaḥsthaṁ
  yac cānyad api vāṅ-mayam
sarva-vedānta-sārārthaḥ
  saṁsārārṇava-tāraṇaḥ

「すべてのヴェーダの儀式、マントラ、そして理解は、8つの言葉に集約されます―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ」。同様に、カリサンタラナ・ウパニシャッドには次のように述べられています。

hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa
  kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare
hare rāma hare rāma
  rāma rāma hare hare

iti ṣoḍaśakaṁ nāmnāṁ
  kali-kalmaṣa-nāśanam
nātaḥ parataropāyaḥ
  sarva-vedeṣu dṛśyate

「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という16個の言葉は、特にカリの汚染を中和するためにあります。自分自身をカリの汚染から守るためには、これらの16個の言葉を唱えるより他に方法はありません。」

主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、ご自分の霊的指導者がご自分を理解してくださったとき、彼はこうおっしゃった、と告げました。「人を霊的な狂気へと運ぶのは、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という聖なる御名の超越的な性質です。これらの聖なる御名を誠実に唱える者は誰でも、まもなく神への愛という水準への上昇を得て、神に狂ったように夢中になります。神への愛から生じるこの狂気は、人間にとって最初の完成の段階です。」

一般に、人間は宗教、経済的な発展、感覚の満足、そして解放に興味がありますが、神への愛はそれらすべてを越えています。真正なる霊的指導者が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱え、超越的な音の振動が弟子の耳に入り、そしてもしも(弟子が)自分の霊的指導者の足跡を辿って同じような敬意をもって聖なる御名を唱えるなら、彼は実際に超越的な名前を崇拝するようになります。超越的な名前が献身者によって唱えられるとき、名前そのもの(Himself)がご自分の(His)栄光を献身者の心の中に広めます。献身者が完全に聖なる御名の超越的な振動を唱える資格を持つとき、彼は霊的指導者となって世界のすべての人々を解放するのに十分に適しています。聖なる御名を唱えることは非常に強力なので、それは徐々に世界中のすべてのものの上に優位性を確立します。それを唱える献身者は、恍惚感の中で超越的に位置するようになり、時として自分の恍惚感の中で笑い、泣き、踊ります。時として、非知性的な者がこのマハー・マントラを唱える道に妨害物を置きますが、至高神への愛の水準に位置する者は、すべての者のために(訳注:for all concerned、関係者一同のために)聖なる御名を大声で唱えます。結果として、すべての人が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱える秘儀を伝えられる(to initiate)ようになります。クリシュナの聖なる御名を唱えることと聞くことによって、人はクリシュナの形と性質を覚えておく(to remember)ことができます。

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