第20章
ヴェダーンタ学習の目的
主クリシュナ、すなわちヴィシュヌはこの物質世界のものではない、と結論づけられます。主は霊的な世界に属します。主を物質的な半神であると考える者は、大いなる侮辱者であり、冒涜者です。主ヴィシュヌは物質的な感覚による知覚の影響下にはなく(訳注:~によっては知覚し得ず)、精神的な推量による認識もされ得ません。物質的な世界ではいつも体と魂の間には違いがありますが、至高主の体と魂の間には違いがありません。
物質的な物は生命体によって楽しまれます。なぜなら、生命体は優性であり、一方で物質自然は劣性の性質のものだからです。このように、生命体という優性な性質は物質という劣性な性質を楽しむことができます。主ヴィシュヌは決して物質によって作用されない(touched)ので、主は生命体がするような方法で物質自然を楽しむことはありません。(He is not subject to enjoy material nature the way the living entities do.生命体がするような方法で楽しまねばならないということはない、というような意味。この場合の「楽しむ」は、「利用する、支配する」という意味合いになります。)生命体は自分たちの「精神的な推量」という習慣を楽しむことによって(訳注:喜んで~することによって)ヴィシュヌに関する(of)知識を得ることはできません。微小な生命体はヴィシュヌを楽しむものではなく、ヴィシュヌによって楽しまれます。最もひどい侮辱者だけが、ヴィシュヌは楽しまれる、と考えます。最大の冒涜は、ヴィシュヌと生命体が同じ水準にあると考えることです。
至高の完全真理、至高の人格神は、燃え盛る火になぞらえられます。そして無数の生命体はその火から放射している火花になぞらえられます。至高主と生命体はどちらも質的には火ですが、それでも区別はあります。至高主ヴィシュヌは無限大であり、他方で、火花に過ぎない生命体は微小です。微小な生命体はもともとの無限大の霊から放射しています。彼らの微小な霊としての本質的な立場には、物質の痕跡はありません。
生命体は、この物質創造を超越しているナーラーヤナ、ヴィシュヌと同じほど偉大ではありません。シャンカラーチャーリャでさえ、ナーラーヤナを「物質創造を超越している」として受け入れます。ヴィシュヌも生命体もどちらも物質創造のもの(of material creation)ではないので、誰かは「なぜそもそも霊の小さな粒が作られたのですか?」と尋ねるかもしれません。答えは、至高の完全真理はご自分の完璧性において、同時に無限大で微小であるときに完全です。もしも主が単に無限大であって微小でないなら、主は完璧ではありません。無限大の部分がヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の人格神であり、そして微小な部分が生命体です。
至高の人格神の無限の欲求が原因で霊的な世界の中に存在があり、そして生命体の微小な欲求が原因で物質世界に存在があります。微小な生命体が物質的な楽しみのための自分たちの微小な欲求に携わっている(engaged、「一生懸命になっている」)とき、彼らはジーヴァ・シャクティと呼ばれます。しかし、彼らが無限大の存在と繋がっているとき、彼らは「解放された魂」と呼ばれます。したがって、なぜ神が微小な部分を創ったのか、と尋ねる必要はありません。彼らは単に至高存在の補足的な側面です。疑いもなく、無限大の存在にとっては、至高の魂の切り離せない、欠かすべからざる小片である微小な部分を持つのは、絶対必要です。(訳注:parts and parcelという表現は、直訳すれば「部分と部分」となり、同じ意味の異なる言葉を繰り返しているだけです。しかし、組み合わさった慣用表現としては「絶対に欠かせない小さな一部分」という意味になります。生命体の描写に多用されます。)生命体は至高存在の微小な欠かすべからざる小片なので、無限大の存在と微小な存在の間には気持ち(feeling)の交換があります。もしも微小な生命体がなかったら、至高主は非活性であったでしょう。そして、霊的な人生には多様性がなかったでしょう。もしも国民がいなかったら、王には意味はありません。そして、もしも生命体がいなかったら、至高神には意味がありません。もしも支配する対象が誰もいなかったら、「支配者(lord)」という言葉にどうして意味があり得るでしょうか?結論は、生命体は至高主のエネルギーの拡張体であると考えられ、そして至高主、至高の人格神、クリシュナはエネルギー的な存在(訳注:the energetic、これは以前にも出てきましたが、「エネルギーの源」という理解でいいかと思います。適切な訳語を思いつきません。)である、というものです。
バガヴァッド・ギーターとヴィシュヌ・プラーナを含むすべてのヴェーダ文献において、エネルギーとエネルギー的なものの間の区別をつけるための多くの証拠が与えられています。バガヴァッド・ギーター(BG7.4)において、「土、水、火、空気、およびエーテルが物質世界の5つの基本的な濃密な要素であり、そして心と知性と偽りの自己が3つの希薄な要素である」と明白に述べられています。すべての物質自然は、これらの8つの要素に分けられます。それらは合わさって主の劣性の自然(nature、性質)あるいはエネルギーを構成します。この劣性の自然のもう一つの名前はマーヤー、すなわち幻想です。これらの8つの劣性の要素を超えたところにパラー・プラクリティと呼ばれる優性のエネルギーがあります。そのパラー・プラクリティが、物質世界全体を通して大変な数で見られる生命体です。彼(生命体)はバガヴァッド・ギーター(BG7.5)の中でジヴァ・ブータームとして示されています。説明は、「至高主は完全真理、エネルギー的な存在であり、そのため主はご自分のエネルギーをお持ちである」ということです。主のエネルギーが正しく顕現していないとき、すなわちそれが何らかの影によって覆われているとき、それはマーヤー・シャクティと呼ばれます。物質的な宇宙の顕現は、その覆われたマーヤー・シャクティの産物です。
生命体は、事実として、この覆われた劣性なエネルギーを超えています。彼らは、自分の純粋な霊的な存在と純粋な正体(identity)、そして純粋な精神的な活動を持っています。それらすべてはこの物質的な宇宙の顕現を超えています。生命体の心と知性と正体はこの物質世界の枠を超えたものではありますが、彼(生命体)が自分の「物質を支配したい」という欲求からこの物質世界に来るとき、彼のもともとの心、知性、そして体は、物質自然によって覆われるようになります。彼から再びこれらの物質的、すなわち劣性なエネルギーという覆いが取り除かれるとき、彼は「解放された」と呼ばれます。解放されたとき、彼は偽りの自己を持たず、彼の本当の自我が再び存在するようになります。愚かな精神的な推量者たちは、解放の後は人の独自性(identity)は失われる、と考えますが、それはそうではありません。生命体は永遠に神の欠かすべからざる小片なので、解放されたとき彼は自分のもともとの永遠な「欠かすべからざる小片」という正体(identity)を回復します。アハム・ブラーマースミ(「私はこの体ではない」)という認識は、生命体が自分の独自性を失うことを意味するのではありません。現時点では、人は自分を物質であると考えるかもしれませんが、解放された状態においては、彼は「自分は物質ではなく霊魂、無限大な存在の部分である」と理解するでしょう。
クリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしむことは、解放された段階のしるしです。ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)の中に、明らかに述べられています。
viṣṇu-śaktiḥ parā prokta
kṣetra-jñākhyā tathā parā
avidyā-karma-saṁjñānyā
tṛtīyā śaktir iṣyate
「至高主のエネルギーは3つに分けられます。パラー、クシェトラジニャおよびアヴィデャーです。」パラー・エネルギーは、実際は至高主ご自身のエネルギーです。クシェトラジニャ・エネルギーは生命体です。そしてアヴィデャー・エネルギーは物質世界、すなわちマーヤーです。この物質エネルギーの魔力の下で、人が自分の本当の立場と自分の至高主との関係を忘れるので、それはアヴィデャー、すなわち無明のエネルギーと呼ばれます。結論は、生命体は至高主のエネルギーの一つを代表しており、そして至高存在の微小な欠かすべからざる小片として、それらはジーヴァと呼ばれます。もしも―――両方ともブラーマン、すなわち霊であるため―――ジーヴァが人工的に無限大の至高存在と同じ水準に置かれたら、幻惑が確かに結果として生じるでしょう。(訳注:「もしも両者を同列に並べるなら、人は間違いなく幻惑されるでしょう」)
一般に、マーヤーヴァーディーは生命体の呪縛の原因を説明することができないので、マーヤーヴァーディー哲学者は学識のあるヴァイシュナヴァの前で当惑させられます。彼らは単に「それは無明が原因です」と言います。しかし彼らは、「もしも生命体が至高であるなら、なぜ無明によって覆われたのか」ということを説明できません。実際の理由は、「質的には至高存在と一つであるにも関わらず、生命体は微小であり、無限大ではないから」というものです。もしも彼らが無限大であったなら、彼らが無明によって覆われる可能性はなかったでしょう。生命体は微小であるので、彼は劣性のエネルギーによって覆われます。マーヤーヴァーディーたちの愚かさと無知は、彼らが「どうやって(how it is、一体どうして)無限存在が無明によって覆われたか」を説明しようとするとき、あばかれます。無限存在を「無明の魔力の影響を受けるもの」と決め付けようとする(to attempt to qualify ~ as ~)のは無礼です。
シャンカラは至高主を自分のマーヤーヴァーディー哲学によって覆い被せようとしていましたが、彼は単に至高主の命令に従っていました。彼の教えはその時代に必要なもの(timely necessity)でしたが、永遠の事実ではない、と理解されるべきです。ヴェダーンタ・スートラにおいて、エネルギーとエネルギー的なものの間の違いは初めから受け入れられています。そのヴェダーンタ・スートラにおいて、最初の格言(aphorism、金言、警句など)(ジャンマーディ・アシャ)は、「至高の完全真理がすべての放射物の源(訳注:the origin or source、同義の言葉の繰り返し)である」と明らかに説明します。このように、放射物は至高存在のエネルギーであり、一方で至高存在ご自身はエネルギー的な存在です。シャンカラは、「もしもエネルギーの変容が受け入れられるなら、至高の完全真理は不変であり続けることはできない」と偽りの議論をしました(訳注:falsely argued、シャンカラは故意に誤った議論をしているため、「偽り」としています)。しかし、これは本当ではありません。無限のエネルギーがいつも作られているという事実にも関わらず、至高の完全真理はいつも同じであり続けます。主は無限のエネルギーの放射によって影響されません。したがってシャンカラチャーリャは、自分の幻想の理論を不正確に確立しました。
ラーマーヌジャーチャーリャは、この点を非常に良く議論しました。「もしもあなたが「この物質世界の創造の前には一つの完全真理しかなかった」と議論するなら、それならどうして、生命体が主から放射したというのが可能なのですか?もしも主がたった一人だったなら、どうやって主は微小な生命体を作り出したり、あるいは生み出したり(produced or generated)することができたのですか?」この問いへの答えとして、ヴェーダは「すべては完全真理から生じ、すべては完全真理によって維持され、そして滅亡の後ですべては完全真理の中に入る」と述べています。この言明から、「生命体は解放されたときに至高の存在の中に入り、自分のもともとの本質的な立場を変えない」というのは明らかです。
私たちはいつも、「至高主はご自分の創造的な機能を持ち、微小な生命体もまた自分の創造的な機能を持っている」ということを覚えておかねばなりません。彼ら(生命体)が解放されて物質的な体が滅びたあとで至高存在の中に入るとき、彼らの創造的な機能が失われる、というのではありません。その反対に、生命体の創造的な機能は、解放された状態において正しく顕現します。もしも生命体の活動が彼が物質的に制約されているときでさえ顕現するなら、それならどうして、彼の活動が彼が解放を得たときに止まるということが可能でしょうか?生命体が解放の状態に入るというのは、鳥が木に入ること、あるいは動物が森に入ること、あるいは飛行機が空に入ることに比べられるかもしれません。どの場合でも、独自性(identity)は失われません。
ヴェダーンタ・スートラの最初の格言を説明しているとき、シャンカラは非常に格式張らない方法で、「ブラーマン、すなわち至高の完全真理は非人格的である」と説明しようとしました。彼はまた、「副産物」の教義を「変化」の教義に巧みにすり替えようとしました。至高の完全真理には変化はありません。それは単に、副産物は主の計り知れない活動の力から結果として生じる、ということです。言い換えると、相対的な真理が至高の真理から作られます。天然のままの木材から椅子が作られるとき、「副産物が作られる」と言います。至高の完全真理、ブラーマンは変化し得ず、そして私たちが副産物―――生命体、あるいはこの宇宙の顕現―――を見つけるとき、それは至高存在の変容、すなわち副産物です。それは牛乳がヨーグルトに変化させられるようなものです。このようにして、もしも私たちが宇宙の顕現の中の生命体を研究するなら、彼らはもともとの完全真理と異ならないように見えるでしょう。しかし、ヴェーダ文献から私たちは、「完全真理は様々なエネルギーを持ち、生命体と宇宙の顕現は主のエネルギーの表れ(demonstration)に過ぎない」と理解します。エネルギーは、エネルギー的な存在から離れたものではありません。したがって、生命体と宇宙の顕現は、切り離せない真理、完全真理の一部分です。完全真理と相対的な真理に関するそのような結論は、すべての正気の者によって受け入れられるべきです。
至高の完全真理はご自分の計り知れない力をお持ちであり、それからこの宇宙は顕現しました。言い換えると、至高の完全真理が材料であり、そして生命体と宇宙の顕現は副産物です。タイッティリーヤ・ウパニシャッドの中に、はっきりと述べられています。ヤト・ヴァー・イマーニ・ブーターニ・ジャーヤンテ。「完全真理がすべての材料のもともとの宝庫であり、そしてこの物質世界とその生命体は、それらの材料から作られます。」
この副産物の教義を理解できない非知性的な人々は、どうやって宇宙の顕現と生命体が完全真理と同時に一つであって異なるのか、理解することができません。これを理解しないので、人は恐怖から、「この宇宙の顕現と生命体は偽りである」と結論します。シャンカラーチャーリャは、縄が蛇と間違われる例を挙げます。そして時として、牡蠣の殻を金と間違えるという例も挙げられます。しかし、確かに、そのような議論は騙すための方法です。マーンドゥーキャ・ウパニシャッドの中で言及されているように、蛇の代わりに縄、金の代わりに牡蠣、という例は、異なる用途(application)を持っており、次のように理解され得ます。その本質的な立場において、生命体は純粋な霊です。人間が自分を物質の体と同一視するとき、彼は「縄を蛇と間違えた」、あるいは「牡蠣の殻を金と間違えた」と言われるかもしれません。変容の教義は、あるものが別のものと間違えられるときに受け入れられます。実際は、体は生命体ではありませんが、変容の教義は体を生命体として受け入れます。すべての制約された魂は、疑いもなく、この変容の教義によって汚染されています。
生命体の制約された状態は、彼の病んだ状態です。もともと、生命体及びこの宇宙の顕現のもともとの原因は、変容の状態(state)の外に存在します。しかし、誤った考えと議論は、人が至高主の計り知れないエネルギーを忘れるとき、彼を圧倒することができます。物質世界の中でさえ、多くの例があります。太陽は記憶にないほどの昔から無限のエネルギーを作り続けており、そして非常に多くの副産物が太陽から結果として生じます。それでも、太陽そのものの熱と温度に変化はありません。物質的なものであるにも関わらず、もしも太陽がそのもともとの温度を維持しつつ、それでもそれほど多くの副産物を作り出すなら、至高の完全真理にとって、ご自分の計り知れないエネルギーによって非常に多くの副産物を作り出しつつも変化せずにい続けることは難しいでしょうか?このように、至高の完全真理に関しては、変容ということはあり得ません。
ヴェーダ文献の中に、単に触れることによって鉄を金に変える「タッチストーン」と呼ばれる物質的な物に関する情報があります。タッチストーンは無限の量の金を作り出すことができますが、それでも同じでありつづけます。無明の相においてのみ、人は「この宇宙の顕現と生命体は偽り、すなわち幻想である」というマーヤーヴァーディーの結論を受け入れることができます。正気の者は誰も、すべてにおいて完全である至高の完全真理に無明と幻想を押し付けることはしません。主の中に、変化、無明、あるいは幻想の可能性はありません。至高のブラーマンは超越的であり、すべての物質的な概念と完全に異なっています。至高の完全真理の中には、すべての可能な、計り知れないエネルギー(every possible inconceivable energy)が存在しています。シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、「至高の完全人格神は計り知れないエネルギーに満ちており、他の誰もそのようなエネルギーを持っていない」と述べられています。
至高存在の計り知れないエネルギーを誤解することによって、人は誤って、「至高の完全真理は非人格的である」と結論するかもしれません。そのような幻惑された結論は、病の重篤な状態にあるときに、生命体によって経験されます。シュリマッド・バーガヴァタムの中でも、「至高のアートマー、主は計り知れない無数の力を持っている」という内容の言明があります(Bhag.3.33.3)。ブラーマ・スートラにも、「至高の霊は多くの多様で計り知れないエネルギーを持っている」と述べられています。人は、完全真理の中に無明が存在している可能性が幾らかでもあると考えるべきでもありません。無明と知識はこの二重性の世界における概念ですが、完全存在の中には二重性はありません。完全存在が無明によって覆われていると考えるのは単なる愚かさです。もしも完全真理が無明によって覆われるということがあり得るというのであれば(訳注:can possibly be covered、強調表現)、どうしてそれが完全存在であると言われ得るでしょうか?
完全存在の計り知れなさを理解することは、二重性の問題への唯一の解決方法です。これは、二重性が完全存在の計り知れないエネルギーから生じるからです。ご自分の計り知れないエネルギーによって、至高の完全真理は変化せずにいることができ、それでも、そのすべての生命体を含むこの宇宙の顕現を作り出します。ちょうど、タッチストーンが無限の量の金を作ることができ、それでも変化せずにいるようなものです。完全真理はそのような計り知れないエネルギーを持っているので、無明という物質的な性質は主に付属することができません。完全真理の中に存在する本当の多様性は、主の計り知れないエネルギーの産物です。実に、「この宇宙の顕現は主の計り知れないエネルギーの副産物に他ならない」と結論づけて問題ありません(can be safely concluded)。いったん私たちが至高主の計り知れないエネルギーを受け入れれば、私たちは「二重性は全く存在しない」ということを知るでしょう。至高主のエネルギーの拡張体は、至高主と同じくらい真実です。至高のエネルギーの顕現に関して言えば、変容ということはあり得ません。同じ例が挙げられ得ます。無限の量の金を作るにも関わらず、タッチストーンは同じであり続けます。したがって私たちは、何人かの賢人たちが「至高存在はこの宇宙の顕現の材料あるいは原因である」と言うのを聞きます。
実際は、縄と蛇の例は完全に不適格(irregular)ではありません。私たちが縄と蛇として受け入れるとき、私たちは以前に蛇を経験した(訳注:見たり触ったりした)ことがあると理解されることになります(it is to be understood)。そうでなければ、どうして縄が蛇と間違えられ得るでしょうか?このように、蛇という概念は、それ自体は虚偽や非現実ではありません。虚偽や非現実であるのは、誤った同一視(identity)です。私たちが誤って縄を蛇と考えるとき、それは私たちの無明です。しかし、蛇という考え(idea)そのものは、それ自体、無明ではありません。私たちが蜃気楼を砂漠の中の水と考えるとき、水が偽りの概念であるということはあり得ません。水は事実ですが、砂漠に水があると考えるのは誤りです。
このように、シャンカラーチャーリャが主張するように、「この宇宙の顕現は偽りである」ということはあり得ません。実際は、ここには何らの偽りのものもありません。マーヤーヴァーディーたちは、自分たちの無知のため、「この世界は偽りである」と言います。「この宇宙の顕現は至高主の計り知れないエネルギーの副産物である」というのがヴァイシュナヴァ哲学の結論です。
ヴェーダの中の主要な言葉、「プラナヴァ・オームカーラ」は、至高主の音による表れ(representation)です。したがって、オームカーラは至高の音と考えられるべきです。しかし、シャンカラーチャーリャは誤って、「タット・トゥヴァム・アスィが至高の振動である」と教えました。オームカーラが至高主の全てのエネルギーの宝庫です。シャンカラが「タット・トゥヴァム・アスィが至高の振動である」と主張するのは誤りです。なぜなら、タット・トゥヴァム・アスィは二次的な音に過ぎないからです。タット・トゥヴァム・アスィは部分的な表れだけを指します。バガヴァッド・ギーターにおいて主は、多くの箇所で、オームカーラに重要性を与えています(訳注:~の重要性を指摘しています)。(BG8.13、9.17、17.24)同様に、オームカーラはアタールヴァ・ヴェーダとマーンドゥーキャ・ウパニシャッドにおいても重要性を指摘されています。自著「バーガヴァット・サンダルバー」において、シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーは、「オームカーラは至高主の最も内密な音による表れである」とおっしゃいます。至高主の音による表れ、すなわち名前は、至高主ご自身と同じくらい良いのです。オームカーラの、あるいはハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレの音を振動されることによって、人はこの物質世界の汚染から解放されることができます。超越的な音のそのような振動は、制約された魂を解放することができるので、それらはターラ、すなわち「解放するもの」として知られます。
「至高主の音の振動は、至高主と同一である」というのは事実です。これはナーラダ・パンチャラートラにおいて確認されています。
vyaktaṁ hi bhagavān eva
sākṣān-nārāyaṇaḥ svayam
aṣṭākṣara-svarūpeṇa
mukheṣu parivartate
「超越的な音の振動が制約された魂によって発声される(to practice)とき、至高主は彼の舌の上に存在します。マーンドゥーキャ・ウパニシャッドの中では、「オームカーラが唱えられるとき、何であれ物質的に見えるものは完璧に霊的(なもの)として見られる」と述べられています。霊的な世界において、あるいは霊的な視域(vision)においては、オームカーラ以外のものはない、あるいは一つの代替、オームしかありません。不幸にして、シャンカラはこの主要な言葉オームカーラを放棄し、気まぐれにタット・トゥヴァム・アスィをヴェーダの至高の振動として受け入れました。そのような二次的な言葉を受け入れ、主要な振動を脇に置くことで、彼は自分の独自の間接的な解釈を選び、聖典の直接的な解釈を放棄しました。
シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、格式張らない方法で間接的な解釈を作り上げ、直接的な解釈を放棄することによって、プルシャ・ヴェダーンタ・スートラの中に描写されたクリシュナ意識を覆い隠しました。私たちがヴェダーンタ・スートラのすべての言明を自明であるとして受け取らない限り、ヴェダーンタ・スートラを学ぶ意味はありません。自分の独自の気まぐれに従ってヴェダーンタ・スートラの節を解釈するのは、自明なヴェーダへの最大の危害(訳注:disservice、恩を仇で返すようなひどいこと)です。
オームカーラ・プラナヴァに関して言えば、それは至高の人格神の音による化身(sound incarnation)と考えられています。そのため、オームカーラは永遠で、無限で、超越的で、至高で、そして不滅です。主(オームカーラ)は始まり、間(あいだ)、終わりであり、そして主は始まりのない存在でもあります。人がオームカーラをそのようなものとして理解するとき、彼は不死になります。このように、人はオームカーラをすべての人の心臓に位置する至高存在の表れとして知るべきです。オームカーラとヴィシュヌを同一であってあまねく存在するとして理解する者は、決してこの世界において嘆かず、そしてシュードラであり続けることもありません。
主(オームカーラ)は物質の形を持ちませんが、主は無限に拡張され、そして主は無限の形を持っています。オームカーラを理解することによって、人は物質世界の二重性から自由になって完璧な知識を得ることができます。したがって、オームカーラは至高主の最も縁起の良い表れです。
それがマーンドゥーキャ・ウパニシャッドによって与えられている描写です。人は、ウパニシャッドの描写を愚かに解釈して、「至高の人格神はご自分の独自の形でこの物質世界にご自分を現す(to appear Himself)ことが「お出来にならない」ので、ご自分の音による化身(オームカーラ)を代わりにお送りになる」と言うべきではありません。そのような誤った解釈が原因で、オームカーラは物質的な何かであると考えられるようになり、そしてその結果、オームカーラは誤解され、単に主の発表(exhibition、展示、発揮)あるいは象徴であるとして讃えられるようになります。実際は、オームカーラは至高主の他のどの化身とも同じくらい良いのです。
主は無数の化身をお持ちであり、そしてオームカーラはその一つです。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこう述べられます。「振動の中では、私はオームの音節です。」(BG9.17)これは、オームカーラがクリシュナと異ならないことを意味します。しかし、非人格主義者たちは至高の人格神クリシュナよりもオームカーラの方をもっと重視します。しかし事実は、至高主のどの表れも主と異なるものではない、というものです。そのような化身あるいは表れは、霊的に至高主と同じくらい良いのです。したがって、オームカーラはすべてのヴェーダの究極の表れです。実に、ヴェーダのマントラあるいは聖歌は、超越的な価値を持っています。なぜなら、それらはオームという音節が初めについているからです。ヴァイシュナヴァはオームカーラを次のように解釈します。「O」という文字によって、至高の人格神クリシュナが示されます。「U」という文字によって、クリシュナの永遠の妃シュリーマティー・ラーダーラーニーが示されます。そして「M」という文字によって、至高主の永遠の従者、生命体が示されます。シャンカラはオームカーラにそのような重要性を与えていません。しかし、重要性は、ヴェーダ、ラーマーヤナ、プラーナ、そしてマハーバーラタの中で、始めから終わりまで与えられています。このように至高主、至高の人格神の栄光は宣言されます。