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第23章

なぜヴェダーンタ・スートラを学ぶか?

知識とは聖典から集められる情報であり、そして科学はその知識の実際的な認識です。知識は、それが真正なる霊的指導者を通して聖典から集められるとき、科学的です。しかし、それが推量によって解釈されるとき、それは精神的な作り物です。真正なる霊的指導者を通して聖典の情報を科学的に理解することによって、人は自分の独自の認識によって至高の人格神の実際の在り方(situation)を学びます(to learn)。至高の人格神の超越的な形は物質的な顕現とは異なっており、そしてそれは物質の反応を超えています。至高神の霊的な形を科学的に理解しない限り、人は非人格主義者になります。太陽光は、それ自体は照明(illumination)ですが、その照明は太陽とは異なります。それでも太陽と太陽光は異なって位置しているのではありません(not differently situated)。太陽無くして太陽光はなく、太陽光無くして太陽という言葉に意味はないからです。

人が物質エネルギーの影響から自由にならない限り、彼は至高主と主の異なるエネルギーを理解することはできません。また、物質エネルギーの魔力によって虜にされている者が至高主の霊的な形を理解することもできません。至高の人格神の超越的な形の認識がない限り、神への愛ということはありえません。人が至高主の超越的な形を認識できない限り、彼は実際に神への愛を得ることができず、そして神への愛なくして人間の人生に完成はありません。ちょうど、自然の5つの濃密な要素---つまり、土、水、火、空気、そしてエーテル---が、この世界においてすべての生命体の内と外の両方に(within and without)あるように、至高主はこの存在の内と外(inside and outside)の両方におられ、主の献身者である者はこれを認識することができます。

純粋な献身者は、「自分たちは至高の人格神に奉仕をするためにあること、そして存在するすべてのものは人が至高存在に奉仕をするための手段であり得る」ということを知っています。献身者は至高存在によって自分の心の中から祝福されているので、彼はどこを見てもそこに至高主を見ることができます。実に、彼は他の何ものも見ません。シュリマッド・バーガヴァタム(11.2.55)の中で、献身者と至高主の関係は次のように確認されています。

viṣṛjati hṛdayaṁ na yasya sākṣād
  dharir avaśābhihito ’py aghaugha-nāśaḥ
praṇaya-raśanayā dhṛtāṅghri-padmaḥ
  sa bhavati bhāgavata-pradhāna uktaḥ

「もしも人の心が愛の縄で至高主の蓮の御足に結ばれているなら、主は彼のもとを去られません。実に、たとえ彼の記憶(訳注:remembrance、(主を)思い出していること)が完璧でなくても、彼は第一級の献身者と考えられます(he is to be considered)。」シュリマッド・バーガヴァタムのダシャ・スカンダー(10.30.4)の中に、このことの例が描写されています。ゴピーたちがクリシュナとのラーサの踊りに加わるために集まったとき、クリシュナは彼らのもとを去られました。結果として、ゴピーたちはクリシュナの聖なる御名を唱え始めました。そして、狂気に圧倒されて、森の花や蔓草(つるくさ)にクリシュナについて尋ね始めました。クリシュナはちょうど空のようなものです。主はどこにでも位置しておいでです。

シュリマッド・バーガヴァタムを学ぶことによって、私たちは至高主との私たちの永遠の関係に関する情報を得ることができ、主に至るための方法(procedure、手続き、順序)を理解することができ、そして至高神への愛という究極の認識を受け取ることができます。

プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーにどうやって人が献身奉仕によって至高の人格神に至ることができるかを説明するとき、主チャイタンニャはシュリマッド・バーガヴァタムから一節(11.14.21)を引用なさいました。その中で主(訳注:クリシュナ)は、ご自分は信念(faith)と愛をもって為された献身奉仕を通してのみ認識され得る、とおっしゃいます。実に、献身者の心を浄化し、そして、確固たる信念をもって(established in faith)彼がそれによって至高主に奉仕をする究極の認識へと彼を上げるのは、献身奉仕だけです。(訳注:「献身者の心を浄化するのは献身奉仕だけです。また、確固たる信念を持った献身者が究極の認識のもとで至高主への奉仕ができるようにするのも、献身奉仕だけです。」)たとえ人がチャンダーラ(犬食い)(訳注:シュードラよりさらに低い被差別階級)などの身分の低い家庭に生まれても、人は至高神への愛という至高の段階の認識を通して超越的なしるし(symptoms)に満たされることができます。これらの超越的なしるしは、シュリマッド・バーガヴァタム(11.3.31)に描写されています。

smarantaḥ smārayantaś ca
  mitho ’ghaugha-haraṁ harim
bhaktyā sañjātayā bhaktyā
  bibhraty utpulakāṁ tanum

「ご自分の献身者の心をあらゆる罪深い反応から清めることのできる至高主に関する主題を献身者が議論するとき、彼らは恍惚感に圧倒され、自分たちの献身奉仕により(due to、~が理由で)、様々なしるしを表します。」バーガヴァタムはさらにこう記します。「自分たちの主への自発的な執着により、主の聖なる御名を唱えるとき、何らの社会的なしきたりも気にせず、彼らは時として泣き、時として歌い、踊るなどします。」(Bhag.11.2.40)

私たちは、「シュリマッド・バーガヴァタムはブラーマ・スートラの本当の説明であり、そしてそれはヴャーサデヴァ本人によって編纂された」と理解すべきです。ガルダ・プラーナにはこう述べられています。

artho ’yaṁ brahma-sūtrāṇāṁ
bhāratārtha-vinirṇayaḥ
gāyatrī-bhāṣya-rūpo ’sau
vedārtha-paribṛṁhitaḥ

grantho ’ṣṭādaśa-sāhasraḥ
śrīmad-bhāgavatābhidhaḥ

「シュリマッド・バーガヴァタムはブラーマ・スートラの正式に認められた説明であり、それはマハーバーラタのさらなる説明です。それはガーヤトリー・マントラの拡張であり、すべてのヴェーダの知識の真髄です。1万8千の節を含むこのシュリマッド・バーガヴァタムは、すべてのヴェーダ文献の説明として知られます。」シュリマッド・バーガヴァタムの第一番の巻(訳注:the very First Canto、強調表現)の中で、ナイミシャーニャの賢人たちがスータ・ゴスヴァーミーに、どうやって人はヴェーダ文献の真髄を知ることができるか、と尋ねました。その答えとして、スータ・ゴスヴァーミーは、すべてのヴェーダの歴史、そして他のヴェーダ文献の真髄としてシュリマッド・バーガヴァタムを提示しました。シュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(12.13.15)で、「シュリマッド・バーガヴァタムはすべてのヴェダーンタの知識の真髄であり、シュリマッド・バーガヴァタムの知識を味わう者は他のどの文献を学ぶことへの好みも持たない」と明らかに述べられています。シュリマッド・バーガヴァタムの一番初めのところで、ガーヤトリー・マントラの意味と解説も描写されています。「私は至高の真理に敬意を捧げます。」これは、シュリマッド・バーガヴァタムの中で宇宙の顕現の創造と維持と破壊の源として描写されている至高の真理に触れている、最初の導入的な節です。至高の人格神、ヴャースデヴァへの敬意(オーム・ナモ・バーガヴァテ・ヴァースデヴァーヤ)は、ヴァスデヴァとデヴァキーの聖なる息子である主シュリー・クリシュナを直接指しています。この事実は、シュリマッド・バーガヴァタムの後のほうでもっと明白に提示されています。ヴャーサデヴァは、シュリー・クリシュナは至高の人格神であり、他のすべての者は主の直接的、あるいは間接的な完全部分、またはそれらの部分の部分である、と断言します。シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーは、のちに、さらにもっと明白にこの主題を自著クリシュナ・サンダルバーの中で展開し、そして、もともとの生命体であるブラーマーは、ご自分の論文であるブラーマ・サムヒターの中でシュリー・クリシュナをしっかりと説明しました。サーマ・ヴェダもまた、主クリシュナがデヴァキーの聖なる息子であるという事実を立証します。

ご自分の祈りの中で、シュリマッド・バーガヴァタムの著者は最初に、「シュリー・クリシュナが太古の主であり、もしも何らかの超越的な命名が至高の人格神に受け入れられ得るのであれば(is to be accepted)、それはクリシュナ、すべてを魅了するもの(all-attractive)であるべきだ」と提案します。バガヴァッド・ギーターの中で、主は多くの節で、ご自分がもともとの至高の人格神であると断言しておられ、そしてこれは、ナーラダ、ヴャーサ、そして他の多くの偉大な賢人たちを引き合いに出したアルジュナによっても確認されました。パドマ・プラーナにおいても、「主の無数のお名前の中で、クリシュナという名前が筆頭のものである」と述べられています。ヴャースデヴァという名前は至高の人格神の完全部分を指すにも関わらず、そして主のすべての異なる形はヴャーサデヴァと同一であるにも関わらず、この文の中でヴャーサデヴァは第一にヴァスデヴァとデヴァキーの聖なる息子を指します。シュリー・クリシュナはいつも、放棄階級の中の最も完璧な者であるパラマハムサたちによって瞑想されます。これがどうしてそうであるかは、シュリマッド・バーガヴァタムのうしろのほうの章で説明されています。

チャイタンニャ・マハープラブはシュリマッド・バーガヴァタムを完璧な(spotless、欠陥のない)プラーナとして描写します。なぜなら、それは至高の人格神シュリー・っクリシュナの娯楽の超越的な物語を含むからです。シュリマッド・バーガヴァタムの歴史もまた、非常に栄光に満ちています。それは、ご自分の霊的指導者シュリー・ナーラダ・ムニの教えのもとで超越的な知識に関する自分の豊かな経験に基づいたヴャーサデヴァによって編纂されました。(原文:It was compiled by Vyasadeva, who drew from his mature experience of transcendental knowledge under the instruction of Sri Narada Muni, his spiritual master. ここで動詞のto drawは様々な意味を持つ自動詞の形をとっていますが、実際には間違って目的語conclusionが抜け落ちた他動詞であると思います。その場合は「それは~によって編纂されました。~は~の指導のもとで~に関する自分の豊かな(mature 、成熟した)経験に基づいて結論を導き出しました」となります。)ヴャーサデヴァは、すべてのヴェーダ文献を編纂しました---4つのヴェーダ、ヴェダーンタ・スートラ、あるいはブラーマ・スートラ、プラーナ、そしてマハーバーラタです。それでも彼はシュリマッド・バーガヴァタムを書くまで満足していませんでした。彼の不満足は彼の霊的指導者によって気づかれ(訳注:「彼の霊的指導者は彼が満足していないことに気づき」)、そしてその結果、ナーラダは彼に主シュリー・クリシュナの超越的な活動について書くように助言しました。シュリー・クリシュナの超越的な活動は、著作全体の本質(substance)を含むと考えられているシュリマッド・バーガヴァタムの第10巻の中で特に描写されています。人は直ちに第10巻に手を伸ばす(to approach)べきではなく、最初に提示された主題の知識を育むことによって徐々にそれに近付くべきです。

一般に、哲学的な心(mind)はすべての創造の源を知る(to learn)ことに関して探求的です。哲学的な人が夜の空を見上げるとき、彼は自然に、星について疑問を持ちます。それらがどのように位置づけられているか、そこに誰が住んでいるか、などです。これらすべての問いは、人間にとって大変自然です。なぜなら、人間は動物よりもはるかに(greater)発達した意識を持っているからです。そのような問いの答えとして、シュリマッド・バーガヴァタムの著者は、「主がすべての創造の源である」と言います。主は創造者であるだけでなく、維持者であり、破壊者でもあります。顕現された宇宙の創造はある特定のときに主の意思によって創造され、しばらくの間維持され、そして最後に主の意思によって破壊されます。このように、主はすべての活動の背後の至高の意思です。

もちろん、創造主を信じない様々な部類の無神論者がいますが、それは単に彼らの貧弱な知識基盤によるものです。現代の科学者たちはロケットを作り、そして何らかの方法によって(訳注:by some arrangement or other)、彼らははるか遠くにいる科学者の統御のもとでしばらくの間飛ぶために、外宇宙に投げ込まれます。すべての宇宙(訳注:複数)とその中の無数の惑星はそのようなロケットに似ており、そしてそれらは皆、至高の人格神によって統御されています。

ヴェーダ文献の中に、「完全真理、至高の人格神はすべての生きた人格の中の筆頭である」と述べられています。最初の被造物ブラーマーから一番小さなアリにいたるまで、すべての生命体は個々の生命体です。ブラーマーの上にさえ、個々の能力(capacities)を備えた他の多くの生命体がいます。至高の人格神ご自身もまた生命体であり、他の生命体と同じように個人です。しかし、至高主は至高の生命体であり、主は最も偉大な心を持ち、非常に多様な、至高(訳注:supermost、一般的な用語ではない)で計り知れないエネルギーをお持ちです。もしも人の心がロケットや宇宙船を作り出すことができるなら、人のよりも高位の心がより優れたものを作ることができるというのは想像できます。合理的な人はこの議論を受け入れますが、頑固で意地っ張りな人々はそうしません。

シュリーラ・ヴャーサデヴァは直ちに至高の心をパラメシュヴァラ、至高の統御者として受け入れます。バガヴァッド・ギーターおよびシュリーラ・ヴャーサデヴァによって書かれた他のすべての聖典の中に述べられているように、そのパラメシュヴァラはシュリー・クリシュナご自身です。
これはシュリマッド・バーガヴァタムの中で特に確証されています。バガヴァッド・ギーターの中でも、主ご自身が、ご自分に優るパラタットヴァ(スムム・ボヌム)はない、とおっしゃいます。したがって、著者(訳注:ヴャーサデヴァ)は直ちに、その超越的な活動が第10巻の中で描写されているパラタットヴァ、シュリー・クリシュナを崇拝します。

不徳な人々は、直ちに第10巻へ、特に主のラーサの踊りを描写する第5章へ行きます。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムのこの部分は、その偉大な文献の中で最も内密な部分です。人が主に関する超越的な知識において徹底して確立しない限り、彼は必ず、ラーサの踊りにおける主の崇拝に値する超越的な娯楽と、主のゴピーたちとの恋愛(love affairs)を誤解します。この主題は非常に霊的であり、専門的(technical)です。そして、徐々にパラムハムサの段階に至った解放された人格だけが、崇拝に値するラーサの踊りを超越的に味わうことができます。

そのため、シュリーラ・ヴャーサデヴァは読者に、実際に主の娯楽の真髄を味わう前に徐々に霊的な認識において発達する機会を与えます。こうしてヴャーサデヴァは意図的にガーヤトリー・マントラ、ディーマヒを念じます。このガーヤトリー・マントラは、特に、霊的に発達した人々のためのものです。人がガーヤトリー・マントラを唱えることにおいて成功を得るとき、彼は主の超越的な場所(position)に入ることができます。しかし、まず、ガーヤトリー・マントラをうまく(successfully)唱えるためには、人はブラーマナの性質を得て、そして完全に徳の相に位置するようにならねばなりません。その地点から、人は超越的に、主、主の御名、主の名声、主の性質などを認識し始めることができます。

シュリマッド・バーガヴァタムは、主の内的な力によって顕現する主のスヴァルーパ(形)を物語る(dealing with、~に関する)叙述(narration)です。この力は、私たちの経験の中の宇宙世界を顕現させた外的な力とは区別されます。シュリーラ・ヴャースデヴァは、シュリマッド・バーガヴァタムの第1章の一番最初の節の中で、内的な力と外的な力の明確な区別をつけます。その節の中で彼はこう言います。「内的な力は事実なる現実であり、他方で、物質的な存在という形をとった、外的な、顕現されたエネルギーは一時的で幻想的であり、砂漠の蜃気楼以上に本物なものではない。」水は蜃気楼の中に存在するように見えるかもしれませんが、本当の水はどこか他のところにあります。同様に、顕現された宇宙の創造は現実であるように見えますが、それは単に霊的な世界に存在する本当の現実の反映です。霊的な世界の中には蜃気楼はありません。完全真理はそこにあります。それはここにはありません。ここでは、すべてが相対的な真理です。一つの真理は別の真理に依存しているように見えます。この宇宙の創造は、物質自然の3つの相の相互作用から結果として生じます。一時的な顕現は、制約された魂の惑わされた心に現実であるかのような幻想(illusion of reality)を提示するように作られています。こうして、ブラーマー、インドラ、チャンドラなどの高位の半神たちを含む非常に多くの生命の種があるように見えます。事実は、物質世界には現実はありませんが、本当の現実が霊的な世界に存在するため、現実があるように見えます。霊的な世界では、至高の人格神が超越的なものに囲まれて(with His transcendental paraphernalia)住んでいらっしゃいます。

複雑な建築工事の代表のエンジニアは、建築工事そのものには個人的に参加しません。しかし、建築工事のすべてを隅々まで(訳注:nooks and corners、どちらも隅を指す。慣用句表現)知っているのは彼だけです。なぜなら、すべては彼の指揮の(instruction、指導)下でのみ実行されるからです。言い換えると、彼は建築工事に関するすべてを直接的および間接的に知っています。同様に、この宇宙の創造の至高のエンジニアである至高の人格神は、活動は他の誰かによってなされているように見えるにも関わらず、宇宙の創造のすべての隅々で何が起こっているかをご存知です。実際には、物質的な創造の中では誰も独立していません。至高主の手はどこにでもあります。すべての物質的な要素ならびにすべての霊的な火花は、主からの放射に他なりません。この物質世界の中のあらゆる創造されたものは、物質的および霊的という二つのエネルギーの相互作用によって作られています。これらのエネルギーは、完全真理、至高の人格神に属しています。

化学者は、実験室で水素と酸素を混ぜて水を作ることができますが、現実には生命体は至高主の指揮の下でのみ働くことができます。実に、化学者によって使われるすべての材料は主によって供給されます。主はすべてを直接的および間接的にご存知であり、主はすべてのものの細かい細部に気づいておられます。主はまた、完全に独立しておいでです。主は金鉱に例えられ、宇宙の創造は金の指輪やネックレスなどの、その(訳注:金鉱の)金から作られた作られた装飾品に例えられます。金の指輪とネックレスは、金鉱の中の金と質的には同一ですが、量的には金鉱の中の金とイヤリングやネックレスの中の金は異なります。主チャイタンニャの完全真理の哲学は、「至高主はご自分の創造と、同時に一つであって異なる」という事実が中心となっています。完全真理と完全に等しいものは何もありませんが、同時に何ものもそれから独立したものではありません。

この特定の宇宙のエンジニアであるブラーマーから始まって、取るに足らない蟻まで、すべては何かを創造しています。しかし、そのどれも至高主から独立していません。物質主義者は、誤って「自分自身(his own good self)以外に創造者はいない」と考え、そしてこれはマーヤー、すなわち幻想と呼ばれます。自分の貧弱な知識基盤が原因で、物質主義者は自分の不完全な感覚の範囲を超えて見ることができません。そのため彼は、「物体は意識的な背景とは無関係に(independent of)その独自の形を自動的にとる」と考えます。これはシュリマッド・バーガヴァタムの最初の節の中でシュリーラ・ヴャーサデヴァによって論破されています。前述のように、ヴャーサデヴァは解放された魂であり、そして彼は霊的な完成を得たあとで、この権威ある本を編纂しました。完全な全体、すなわち完全真理はすべてのものの源であるので、何ものも主から独立したものではありません。すべてのものは完全真理の体の中に存在しています。体のいかなる一部の行為と反応も、体全体(embodied whole)にとって気づかれる事実になります。同様に、創造が完全真理の体の中に住んでいるなら、それなら何も、直接的あるいは間接的に完全存在に知られないことはありません。

シュルティ・マントラの中で、完全全体すなわちブラーマンはすべてのものの究極の源である、と述べられています。すべてのものは主から放射し、すべてのものは主によって維持され、そして最後にすべてのものは再び主の中に入ります。それが自然の法則です。これはスムリティ・マントラの中でも確認されています。そこでは、「ブラーマーの時代の初めにすべてのものが放射する源は完全真理、すなわちブラーマンであり、そしてその時代の終わりにすべてのものが入る貯蔵庫は、その同じ完全真理である」と述べられています。物質的な科学者たちはでたらめに(haphazardly、いきあたりばったりに、やみくもに)、この惑星系の究極の源は太陽であるのが当然のように考えますが、しかし彼らは太陽の源を説明することができません。ヴェーダ文献の中で究極の源が説明されています。ブラーマーはこの宇宙の創造者ですが、彼はそのような想像のための示唆(inspiration、霊感)を受け取るために瞑想しなければならなかったので、彼は究極の創造者ではありません。シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節に述べられているように、ブラーマーは至高の人格神によってヴェーダの知識を教えられました。シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節の中で、「至高主が二次的な創造者ブラーマーに示唆して、彼が自分の創造的な機能を実行できるようにした」と述べられています。このように、至高主は監督するエンジニアです。すべての創造的な代理人の背後の本当の心は至高の完全人格神、シュリー・クリシュナです。シュリマッド・バーガヴァタムの中で、シュリー・クリシュナは自ら、創造エネルギー(プラクリティ)、物体の総計を監督するのは自分だけである、と認めておられます。こうしてシュリー・ヴャーサデヴァは、ブラーマーも太陽も崇拝せず、しかしブラーマーと太陽の両方を彼らの創造的な活動において導く至高主を崇拝します。

シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節に表れるアビージニャとスヴァラートというサンスクリットの単語は重要です。これらの二つの単語は、主を他のすべての生命体から区別します。至高の生命体(being)、至高の完全人格神以外のどの生命体も、アビージニャあるいはスヴァラートではありません。つまり、彼らのうち誰も完全に気づいていたり(cognizant)完全に独立していたりしません(訳注:「完全に気づいている」は「全知」を意味する)。誰もが自分より優れた者(superior)から知識について学ばねばなりません。この物質世界の中の最初の生命体であるブラーマーさえ、至高主の上に瞑想し、創造するために主から助けを得なければなりません。もしもブラーマーや太陽が自分より優れた者から知識を得ることなくして何も創造することができないなら、それなら、非常に多くのものに完全に依存している物質的な科学者の状況はどんなものでしょうか?ジャガディシャ、チャンドラ・ボーズ、アイザック・ニュートン、アルバート・アインシュタインなどの現代の科学者たちは、自分たちのそれぞれの創造的なエネルギーが非常に自慢であるかもしれませんが、(彼ら)すべては非常に多くのものにおいて至高主に依存しています。
結局、これらの紳士たちの非常に知性的な脳は、確かに、いかなる人間の産物でもありません。脳は他の代理人によって作られます。もしもアインシュタインやニュートンのそれのような脳が人間によって作られ得るのであったなら、それなら人類は彼らの死を賛美する代わりに(訳注:「惜しい人を亡くした」と追悼すること)、多くのそのような脳を作ったでしょう。もしもそのような科学者たちがそのような脳さえ作ることができないなら、主の権威を無視する(to defy、侮る、反抗する)愚かな無神論者たちについては何をか言わんや、です。(what to speak of ~?)

自分自身をほめそやし、自分は神になったのだと信じるマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちでさえ、アビージニャやスヴァラート、完全に気づいていたり完全に独立したりしているのではありません。マーヤーヴァーディーの一元論者は、主と一つになるという知識を得るために禁欲と苦行の厳しい過程を経ますが、究極的に彼らは、大きな修道院と寺院を建てるために必要な諸般のもの(paraphernalia)を彼らに供給する、誰か金持ちの信者に依存するようになります。ラーヴァナとヒラニャカシプのような無神論者は、主の権威を無視(to flout、馬鹿にする)できる(ようになる)前に厳しい苦行を行わなければなりませんでしたが、究極的に彼らは非常に非力(helpless)だったので、主が彼らの前に残酷な死として現れたとき、自分たちを救うことができませんでした。これは、大胆にも主の権威を無視しようとする現代の無神論者にもあてはまります。そのような無神論者は、過去においてラーヴァナやヒラニャカシプなどの大変な(great)無神論者に与えられたのと同じ報いを与えられます。歴史は繰り返し、過去に起こっていたことは必要性のあるときに何度でも繰り返し起こります。主の権威がないがしろにされるときはいつでも、自然の法則によって下される罰が必ず(always、いつも)そこにあります。

至高主、至高の人格神が完全に完璧であることは、すべてのシュルティ・マントラにおいて確認されています。シュルティ・マントラの中で、「完全に完璧な主が物体をちらっとご覧になり、そしてそうやってすべての生命体を創造なさった」と述べられています。生命体は主の欠かすべからざる小片であり、そして主は広大な物質自然を霊的な火花の種で孕ませます。こうして創造的なエネルギーは非常に多くのすばらしい創造のために動き出します。ある無神論者が「神は、非常に多くの繊細な部品を持つ緻密な時計の製造業者よりも熟練者なのではない」と議論したとき、私たちは「神は時計職人よりも偉大な機械工だ。なぜなら、主は単に一つの機械を男性と女性の形に作り、男性と女性の形は神からのさらなる世話(attention)なくして無数の似た機械を作り続けるからである」と答えねばなりませんでした。もしも人間が、人が物体に何らのさらなる世話を与えることなくして他の機械を作る能力のある一揃いの機械を作ることができたなら、そうすれば人間は神の知性に匹敵すると言われ得るでしょう。もちろん、これは可能ではありません。人間の不完全な機械の一つ一つは、機械工によって個々に扱われねばなりません。誰も知性において神と同等であることはできないので、神のもう一つの名前は「誰も主と同等であったり主より偉大であったりすることはできない」ということを指すアサモールダーです。誰もが知性において自分と等しい者と自分より優れた者を持っており、誰も「自分はどちらも持たない」と主張することはできません。しかし、主はこの限りではありません。シュルティ・マントラは、「物質宇宙の創造の前に主は存在しており、主は誰もの主人であった」と示しています。ブラーマーにヴェーダの知識を教えたのは主でした。その至高の人格神は、すべての側面で(in all respects)従われなければなりません。物質的な呪縛から解放されたい者は誰でも主に服従せねばならず、これはバガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。

至高の人格神の蓮の御足に服従しない限り、たとえ彼がたまたま偉大な心(訳注:の持ち主)であったとしても、人が惑わされるのは確かです。偉大な心がヴァースデヴァの蓮の御足に服従し、バガヴァッド・ギーター(7.19)において確認されているようにヴァースデヴァがすべての原因の原因であると完全に知るとき初めて、彼らはマハートマー、すなわち本当に広い心になることができます。しかし、そのような広い心のマハートマーは滅多に見られません。しかし、彼らだけが至高主を至高の完全人格神、すべての創造の太古の原因として理解することができます。主はパラマ、究極の真理です。なぜなら、他のすべての真理は主に依存しているからです。主がすべての知識の源であるため、主は全知です。主には、相対的な知者(knower)にあるような幻惑はありません。

一部のマーヤーヴァーディーの学者たちは、「シュリマッド・バーガヴァタムはシュリーラ・ヴャースデヴァによって編纂されたのではない」と論じ、別の者たちは「この本はヴォパデヴァという名前の者によって書かれた現代の創作である」と言います。この無意味な議論を論破するために、シュリーラ・シュリーダーサ・スヴァーミーは、シュリマッド・バーガヴァタムに言及する多くの最古のプラーナが存在する、と指摘します。シュリマッド・バーガヴァタムの最初のシュロカ、すなわち節はガーヤトリー・マントラで始まり、マーチャ・プラーナ(最古のプラーナ)にこれに関する言及があります。シュリマッド・バーガヴァタムの中のガーヤトリー・マントラの内容への言及と共に、このプラーナにおいては次のように述べられています。「霊的な教えの多くの記述を含み、ガーヤトリー・マントラで始まり、そしてまた、ヴリトラースラの歴史を含むものは、シュリマッド・バーガヴァタムとして知られる。この偉大な著作を満月の日に捧げ物にする者は誰でも(whoever makes a gift of this great work)人生の最高の完成を得て至高神のもとへ帰る。」他のプラーナにもシュリマッド・バーガヴァタムへの言及があります。それは、「その著作(訳注:SB)は12巻と18,000のシュロカから成る」とさえ示しています。パドマ・プラーナにも、ゴータマとマハーラージャ・アムバリーシャの間の会話の中で、シュリマッド・バーガヴァタムに関する言及があります。マハーラージャ・アムバリーシャは、もしも彼が物質的な呪縛からの解放を少しでも望むならばシュリマッド・バーガヴァタムを定期的に読むように助言されました。これらの状況の下で、シュリマッド・バーガヴァタムの権威には疑いがありません。過去500年の間、多くの学者たちがシュリマッド・バーガヴァタムに詳細な注釈をつけ、独自の学識を見せました。真剣な学徒は、バーガヴァタムの超越的な教えをもっとよく(happily)味わうためにそれらに目を通すのが良いでしょう。

シュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラは、すべての俗的な酩酊のない、もともとの純粋な性心理(アーディ・ラサ)を専門に扱います。物質世界全体が性生活の基本原理がもとで回ります。現代の人間の文明では、性がすべての活動の中心点です。実に、どちらを向いても私たちは性生活が突出しているのを見ます。したがって、性生活は非現実ではありません。その本当の現実は霊的な世界において経験されます。物質的な性は、もともとのものの歪んだ反映に他なりません。もともとのものは完全真理の中に見出されます。これは、完全真理が人格的であるという事実を立証します。なぜなら完全真理は、非人格的であって純粋な性生活の感覚を持つことはできないからです。非人格的な一元論の哲学は、忌まわしい俗的な性に間接的な刺激を与えます。なぜなら、それは究極的な真理の非人格性を過度に強調するからです。結果は、知識の欠けた人々が、性の本当の霊的な形の情報を持たないので、歪んだ物質的な性生活を何よりも大切なもの(all in all)として受け入れた、というものです。物質的な人生の病んだ状態における性と、霊的な存在における性の間には、区別があります。シュリマッド・バーガヴァタムは、偏見のない読者を徐々に、物質的な活動の3つの相、結果を求める活動および推量的な哲学を超えた、そして、ヴェーダの中に示された職務的な神(functional deities)の崇拝を超えた、超越性の最高の完成の水準に上げます。シュリマッド・バーガヴァタムは、至高の人格神クリシュナへの献身奉仕の具現であり、そのため他のヴェーダ文献よりも優れた地位に位置しています。

宗教は4つの主な主題を含んでいます。
1、徳のある活動(pious、信心深い、宗教的な)
2、経済的な発展
3、感覚の満足
4、物質的な呪縛からの解放
宗教的な人生は、野蛮という非宗教的な人生から区別されます。実に、人間の人生は実際は宗教と共に始まる、と言われ得るかもしれません。動物の人生の4つの原則---食べること、眠ること、身を守ること、そして性交すること---は、動物と人間の両方に共通しています。しかし、宗教は人間の特別の関心事です。宗教がなければ、人間の人生は動物の人生より優れたものではないので、本当の人間の社会には、自己認識を目的とし、人の神との永遠の関係に言及する何らかの形の宗教があります。

人間の文明のより低い段階においては、いつも物質自然を支配する試みにおいて、人々の間に競争があります。言い換えると、感覚を満足させる試みにおいて継続的な競合があります。こうして、感覚を満足させるという意識に突き動かされ、人々は宗教的な儀式を行います。こうして、何らかの物質的な利益を得ることを目的として、信心深い活動と宗教的な儀式が行われます。そして、もしもそのような物質的な利益が他の方法で得られるならば、このいわゆる宗教はないがしろにされます。これは現代の人間の文明において見られ得ます。人々の経済的な欲求が他の方法で満たされているように見えるため、今は誰も宗教に興味がありません。教会やモスクや寺院は事実上空っぽです。なぜなら、人々は工場や店や映画館のほうにもっと興味があるからです。こうして彼らは自分たちの先祖によって建てられた宗教的な場所をほったらかしました。これは、宗教は一般に経済的な発展のために行われるということの証拠であり、そして経済的な発展は感覚の満足のために必要とされます。人が感覚の満足を得る試みにおいて挫折するとき、彼は至高の全体と一つになるために解放の原因(cause、源)に頼ります。これらすべての活動は、感覚の満足という同じ目的を視野において生じます。

ヴェーダの中で、上記の4つの主要な主題は、感覚の満足のための過度な競争がないように、規律的な方法で定められています。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムは物質世界のすべての感覚を満足させるための活動を超越しています。それは、感覚の満足における競争を超えた主の献身者によって理解され得る、純粋な超越的な文献です。物質世界では、感覚を満足させるための試みにおいて、動物、人、地域、そして国の間でさえも激しい競争がありますが、主の献身者はこれらすべてを超えてます。献身者は物質主義者と競う必要はありません。なぜなら、彼らはすべてが永遠で、満たされて、そして喜びに満ちている至高神のところへ、家へ、帰る途上にあるからです。そのような超越主義者は完全に妬みを持たず、したがって心が純粋です。物質世界の中のすべての者は妬み深いので、競争があります。主の献身者は、すべての物質的な妬みから自由であるだけでなく、神が中心にある競争のない社会を築くための試みにおいて、すべての人に親切です。

競争のない社会という社会主義者の考えは人工的です。なぜなら、社会主義者の国家においてさえ、権力のための競争があるからです。感覚の満足という原則が物質主義的な人生の基本的な原則であるというのは事実であり、これはヴェーダを読むことからも、あるいは単に一般的な人間の活動を観察することからも認識され得ます。ヴェーダは、人々がより高位の惑星に上がることができるようにするために、(そのような)結果を求める活動を勧め、また、様々な半神たちの惑星に行くという目的のために、彼らを崇拝することも勧めます。究極的にヴェーダは、人が主と一つになるために、完全真理に至って主の非人格的な特質を認識できるようにするための活動を勧めます。しかし、完全真理の非人格的な側面は決定的なもの(the last word)ではありません。非人格的な特質を超えているのがパラマートマー、すなわち超魂であり、そしてそれを超えているのが至高の人格です。シュリマッド・バーガヴァタムは、非人格的な側面を越えた、完全真理の人格的な性質について情報を与えます。これらの性質に関する論点は、非人格的な哲学的な推量より優れています。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェーダのジニャーナ・カーンダの部分よりも高い地位を与えられています。シュリマッド・バーガヴァタムはまた、カルマ・カーンダの部分とウパーサナー・カーンダの部分よりも優れています。なぜなら、それは至高の人格神シュリー・クリシュナ、ヴァスデヴァの聖なる息子の崇拝を勧めるからです。ヴェーダのカルマ・カーンダの部分は、より良い感覚の満足のために天国のような惑星に至るための競争を含みます。そして、この競争はジニャーナ・カーンダとウパーサナー・カーンダの部分においても見られます。シュリマッド・バーガヴァタムはこれらすべてを超えています。なぜなら、それはすべての部類の本質あるいは根源である至高の真理のみを目的としているからです。

言い換えると、私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、その本当の意味と見方において、本質ならびに相対性を知ることができます。本質は完全真理、至高の人格神であり、そして相対性は主から放射するエネルギーの様々な形です。生命体もまた、主のエネルギーと相対的であるため(related to)、本質とそれほど異なるものはありません。同時に、エネルギーは本質とは異なっています。物質的な意味では、この概念は自己矛盾していますが、シュリマッド・バーガヴァタムは「同時に一つであり異なっている」というこの側面を詳しく扱います。この哲学はジャンマーディ・アシャ・スートラで始まるヴェダーンタ・スートラにも見られます。

完全真理の中に見られる「同時に一つであって異なる」という知識は、すべてのものの幸せのために与えられています。精神的な推量者は、主のエネルギーを完全であると立証することによって人々を誤って導きますが、「同時に一つであって異なる」という真理が理解されるとき、一元論と二元論の不完全な概念は満足させるのを止めます(訳注:もはや人々を満足させなくなります)。主の創造と主が同時に一つであって異なるということを理解することによって、人は直ちに三重の悲惨さ---体と心によって、他の生命体によって、そして自然の行為によって引き起こされる悲惨さ---からの自由を得ることができます。

シュリマッド・バーガヴァタムは、生命体の完全人格(the Absolute Person)への服従で始まります。この服従は、献身者の完全存在との一体性の、そして同時に彼の従属(servitorship)という永遠の立場の、はっきりした意識と自覚(awareness)をもってなされます。物質的な概念では、人は自分自身を自分が見る(to survey)ものすべての主であると考えます。結果として、彼はいつも人生の三重の悲惨さに悩まされます。人が超越的な奉仕における自分の本当の立場を知るようになると直ちに、彼はすぐにこれらすべての悲惨さから自由になります。従者(servitor)の立場は、人生の物質的な概念においては無駄にされます。物質自然を支配しようとする試みにおいて、生命体は自分の奉仕を相対的な物質エネルギーに捧げることを強いられます。この奉仕が霊的な自己認識(identity)という純粋な意識において主に移されるとき(訳注:to be transferred、奉仕の対象が物質から主という別のものに変わること)、生命体は直ちに物質的な愛情という障害物から自由になります。

以上のことよりももっと重要なのは(over and above this)、シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァが霊的な認識において成熟に達したときに彼によって書かれた、ヴェダーンタ・スートラの個人的な(personal、自ら書いた、直接の)注釈であるということです。彼はナーラダの慈悲の助けによってそれを書くことができました。ヴャーサデヴァもナーラーヤナ、至高の人格神の化身です。したがって、彼の権威に疑問の余地はありません。彼はすべてのヴェーダ文献の著者であるにも関わらず、特にシュリマッド・バーガヴァタムを学ぶことを勧めます。他のプラーナには半神たちを崇拝するための様々な方法が述べられていますが、シュリマッド・バーガヴァタムにおいては至高の人格神だけが言及されています。至高主は体全体であり、半神たちはその体の異なる部分です。そのため、もしも人が至高神を崇拝するなら、彼は半神たちを崇拝する必要はありません。なぜなら、至高主はすべての半神たちの心の中にいらっしゃるからです。主チャイタンニャ・マハープラブは、シュリマッド・バーガヴァタムを欠陥のないプラーナであるとして勧めることによって、他のすべてのプラーナから区別しました。

超越的な教え(message)を受け取るための方法は、受動的に聞くという方法です。挑戦的な態度は、人が超越的な教えを受け取ったり認識したりするのを助けることができません。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムの2番目の節の中で、シュシュルーシュという単語が使われています。この単語は、人は超越的な教えを聞くことに熱心であるべきだ、ということを示しています。関心を持って聞きたいという思いは、超越的な知識を吸収する(to assimilate、学んで理解する)ための主な資格です。不幸にして、多くの人々はシュリマッド・バーガヴァタムの教えを辛抱強く聞くことに関心がありません。

過程(process、方法、手順)は単純ですが、実行(application、応用、適用)は困難です。不運な人々は、普通の社会的および政治的な話題を聞く時間はありますが、シュリマッド・バーガヴァタムについて聞く集まりに参加するように招かれるとき、彼らは参加を渋ります。時として人々は、自分が聞く準備ができていないシュリマッド・バーガヴァタムの一部を聞くことにふけります。バーガヴァタムの職業的な読み聞かせ人(professional readers)は、至高主の娯楽に関する内密な部分を読むことにふけります。これらの部分は、性的な文献であるかのように聞こえます(to appear to read like~)。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムは初めから聞かれるようにできており、バーガヴァタムの教えを吸収する資格のある者は一番初めに述べられています(Bhag.1.1.2)シュリマッド・バーガヴァタムを聞く資格のある聴衆は、多くの徳のある行いの後に生まれます(generated)。知性的な人は、偉大な賢人ヴャーサデヴァの保証を信じることができ、至高の人格神を直接認識するためにシュリマッド・バーガヴァタムの教えを辛抱強く聞きます。人は認識の(ための)異なるヴェーダの段階を通って苦労する必要はありません。なぜなら、単に辛抱強くシュリマッド・バーガヴァタムの教えを聞くことに同意することによって、人はパラムハムサの地位に上げられるからです。ナイミシャーラニャの賢人たちは、スータ・ゴスヴァーミーに、自分たちはシュリマッド・バーガヴァタムを理解することを切望している、と言いました。彼らはスータ・ゴスヴァーミーからクリシュナ、至高の人格神について聞いていて、そして彼らは決してこれらの議論によって満足してはいませんでした。クリシュナに非常に執着している人々は、決して主について聞くことをやめたいと思いません。

したがって主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに次のように助言しました。「いつもシュリマッド・バーガヴァタムを読み、一節一節すべてを理解しようとしなさい。そうすればあなたは実際にブラーマ・スートラを理解するでしょう。あなたは、自分はヴェダーンタ・スートラを学ぶことを切望している、と言います。しかし、あなたはシュリマッド・バーガヴァタムを理解することなくしてヴェダーンタ・スートラを理解することはできません。」主はまた、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、いつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えるように助言しました。「そして、そうすることによってあなたは非常に簡単に解放されるでしょう。解放の後で、あなたは至高主への愛という人生の最高の目的に至る資格を得るでしょう。」

主はそれから、シュリマッド・バーガヴァタム、バガヴァッド・ギーター、そしてヌリスィムハ・ターパニーなどの権威ある聖典から多くの節を朗唱なさいました。特に主(校正:he – He)はバガヴァッド・ギーターから次の節を引用しました。「超越的に位置している者は直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です(equally disposed to~)。その状態で彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(BG18・54)

brahma-bhūtaḥ prasannātmā
  na śocati na kāṅkṣati
samaḥ sarveṣu bhūteṣu
  mad-bhaktiṁ labhate parām

人がこのブラーマ・ブータの水準に至るとき、彼はすべての生命体を平等に見て、至高主の純粋な献身者になります。ヌリスィムハ・ターパニー(2.5.16)の中に、「人が実際に解放されるとき、彼は至高主の超越的な娯楽を理解することができ、そしてそのため主への献身奉仕にいそしむことができる」と述べられています。主チャイタンニャは、シュリマッド・バーガヴァタムの2巻からの一節(2.1.9)も引用しました。その中でシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「自分は解放された水準に上げられ、マーヤーの呪縛(clutches、爪でしっかりと掴むこと)から自由であるけれど、それでもクリシュナの超越的な娯楽に魅了されている」と認めました。そのため彼は自分の偉大な父ヴャーサデヴァからシュリマッド・バーガヴァタムを学びました。

主チャイタンニャは、シュリマッド・バーガヴァタムからクマーラたちに関する別の節(3.15.43)も引用しました。クマーラたちが主の寺院に入ったとき、彼らは白檀(ビャクダン)をどろどろに溶かしたもの(sandalwood pulp)と共に主の蓮の御足に捧げられた花とトゥラスィーの葉の香りに魅了されました。単にこれらの捧げ物の香りをかぐことによって、クマーラたちの心は、彼らが既に解放された魂であったにも関わらず、至高主への奉仕へと向きました。バーガヴァタムの他のところ(1.7.10)で、「たとえ人が解放された魂であって実際に物質的な汚染から自由であるにしても、彼はそれでも、理由もなく(without cause)、至高主への奉仕に魅了されるようになる」と述べられています。このように神は非常に魅力的であり、そして主はそれほど魅力的なので、主はクリシュナと呼ばれます。(訳注:Krishna = all attractive)

このようにして主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーと、シュリマッド・バーガヴァタムからのアートマーラーマの節を議論しました。主チャイタンニャの崇敬者(admirer)、マハーラーシトリーヤ・ブラーマナは、主はこの節を61の異なる方法で説明なさった、と語りました(to relate)。そこに集まっていた誰もがアートマーラーマ・シュロカの異なる説明(version)を再び聞くことを熱望していたので、主チャイタンニャは再びそのシュロカをサナータナ・ゴスヴァーミーに説明したのと同じように説明しました。アートマーラーマ・シュロカの説明を聞いた誰もが驚嘆しました。実に、誰もが主チャイタンニャをシュリー・クリシュナご自身に他ならないと考えました。

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