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第31章

至高の完成

どのような地位を持っているのであれ、もしも人がクリシュナの科学、クリシュナ意識を熟知しているなら、彼は真正なる霊的指導者、入門させる者、あるいは(クリシュナの)科学の教師になることができます。言い換えると、もしも人がクリシュナの科学、クリシュナ意識の十分な知識を持っているなら、彼は真正なる霊的指導者になることができます。その立場は、社会における特定の地位あるいは生まれに依存しません。これが主チャイタンニャ・マハープラブの結論であり、それはヴェーダの命令に適っています。この結論の力において、かつてヴィシュヴァムバーラとして知られていた主チャイタンニャは、サンニャースィーであった霊的指導者、イーシュヴァラ・プリーを受け入れました。同様に、主ニテャナンダ・プラブとシュリー・アドヴァイター・アーチャーリャもまた、もう一人のサンニャースィー、マーダーヴェンドラ・プリーを自分たちの霊的指導者として受け入れました。(校正:~ also accepted another sannyasi as their spiritual master, Madhavendra Puri - ~ also accepted another sannyasi, Madhavendra Puri, as their spiritual master、語順の間違い)。このマーダーヴェンドラ・プリーは、ラクシュミーパティ・ティールターとしても知られています。同様に、もう一人の偉大なアーチャーリャ、シュリー・ラスィカーナンダは、シュリー・シャーマーナンダを、彼(シャーマーマンダ)はブラーマナの家庭の生まれではなかったにも関わらず、自分の霊的指導者として受け入れました。また(So also)、ガンガーナーラーヤナ・チャクラヴァルティーは、ナロッタマ・ダーサ・タークラを霊的指導者として受け入れました。古代には、多くの人々の霊的指導者になった、ダールマという名の猟師さえいました。マハーバーラタとシュリマッド・バーガヴァタム(7.11.32)に、「人は---ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、あるいはシュードラであれ---その生まれではなく個人的な資質によって受け入れられるべきである」と述べる明らかな教えがあります。人の地位は、生まれではなく個人的な資質によって確立されるべきです。例えば、もしも人がブラーマナの家庭に生まれたけれど彼の個人的な資質がシュードラのそれであるなら、彼はシュードラとして受け入れられるべきです。同様に、もしも人がシュードラの家庭に生まれたけれどブラーマナの資質を持つなら、彼はブラーマナとして受け入れられるべきです。すべてのシャーストラの命令、そして偉大な賢人たちと権威者たちの見方が、真正なる霊的指導者は必ずしもブラーマナではない、と確立します。唯一の資質は、彼がクリシュナの科学、クリシュナ意識を熟知していることです。それだけが人に霊的指導者となるための完全な資格を与えます。これがラーマーナンダ・ラーヤとの議論におけるシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの結論です。

ハリ・バークティ・ヴィラーサの中で、「もしもある真正なる霊的指導者がブラーマナの家庭に生まれ、そして同じく資格のあるもう一人の霊的指導者がシュードラの家庭に生まれたなら、人はブラーマナの家庭に生まれたほうを受け入れるべきである」と述べられています。この言明は社会的な妥協策としての役目を果たしますが、それは霊的な理解とは何の関係もありません。この命令は、社会的な地位を霊的な地位よりももっと重要だと考える者だけにあてはまります。それは霊的に真剣な者のためのものではありません。真剣な人は、「地位に関係なく---誰であれクリシュナの科学を熟知している者が霊的指導者として受け入れられなければならない」というチャイタンニャ・マハープラブの教えを受け入れます。パドマ・プラーナには、「高度に発達した(highly elevated)、霊的に発達した(spiritually advanced)主の献身者は、いつも第一級の献身者であり、したがって霊的指導者であるが、ブラーマナの家庭に生まれた、高度に発達した人は、主の献身者でない限り、霊的指導者ではあり得ない」と述べる多くの命令があります。ブラーマナの家庭に生まれた者は、ヴェーダの聖典のすべての儀式に精通しているかもしれませんが、もしも彼が純粋な献身者でないなら、彼は霊的指導者ではあり得ません。すべてのシャーストラの中で、真正なる霊的指導者の主要な資質は、彼がクリシュナ意識の科学を熟知しているということです。

したがって主チャイタンニャはラーマーナンダ・ラーヤに、躊躇せず、主チャイタンニャのサンニャースィーとしての立場を考慮せず、ご自分に教え続けるように頼みました。こうして主チャイタンニャは、ラーダーとクリシュナの娯楽について語り続けるように彼に促しました。

「あなたが私にラーダーとクリシュナの娯楽について話すように頼まれるので」と、ラーマーナンダ・ラーヤは謙虚に認めました。「私はあなたの命令に従います。私は何であれあなたの好む方法で話します。」このように、ラーマーナンダ・ラーヤは、操り人形使いである主チャイタンニャの前で、謙虚に操り人形として服従しました。彼はただ、チャイタンニャ・マハープラブの意志に応じて踊りたいと望みました。彼は「あなたはその楽器の奏者です」と言って、自分の舌を弦楽器と比べました。このように、主チャイタンニャが演奏するままに、ラーマーナンダ・ラーヤが音を振動させます。

彼は、「主チャイタンニャは至高の人格神、すべての化身の源であり、すべての原因の原因である」と言いました。無数のヴァイクンターの惑星、至高主の無数の化身と拡張体、そして無数の宇宙もあり、至高主クリシュナはこれらすべての存在の唯一の源です。主の超越的な体は、永遠性、喜び、そして知識からなり、そして主は、マハーラージャ・ナンダの息子、そしてゴロカ・ヴリンダーヴァンの住人として知られます。主は6つの富---すべての富、力、名声、美、知識と放棄---に満ちています。ブラーマ・サムヒター(5.1)の中で、「クリシュナは至高主、すべての主の主であり、主の超越的な体はサック・チッド・アーナンダ(訳注:永遠性、喜び、そして知識)である」と確認されています。誰もクリシュナの源ではありませんが、クリシュナはすべての者の源です。主はすべての原因の原因であり、ヴリンダーヴァンの住人です。主はちょうどキューピッドのように非常に魅力的でもあります。人は主をカーマ・ガーヤトリー・マントラによって崇拝することができます

ブラーマ・サムヒターの中で、ヴリンダーヴァンの超越的な地はいつも霊的である、と描写されています。その霊的な地には、ゴピーとして知られる幸運の女神たちが住んでいます。これら(訳注:幸運の女神たち)は皆クリシュナの最愛の人であり、クリシュナはそれらすべてのゴピーたちの唯一の恋人です。その地の木々はカルパ・ヴリクシャ、望みを叶える木であり、人は何であれ望むものをそれらから得ることができます。地面(the land)はタッチストーンで、そして水は蜜でできています。その地では、すべての言葉(speech)は歌で、すべての歩みは踊りで、人にいつも連れ添うのは(one's constant companion)横笛です。すべてのものは、ちょうどこの物質世界の太陽のように自ら輝きます。人間の形の人生は、このヴリンダーヴァンという超越的な地を理解するためにあり、幸運である者は、ヴリンダーヴァンとその住人たちに関する知識を培うべきです。その至高の地には、地を乳で溢れさせるスラビー牛がいます。誤用される時間は一瞬もないので、過去、現在、あるいは未来はありません。クリシュナの至高のお住まいであるこのヴリンダーヴァンの拡張体はこの地上にもあり、優れた(superior)献身者たちはそれを至高のお住まいとして崇拝します。しかし、誰も、霊的な知識、クリシュナ意識において高く上げられる(訳注:高度に発達する)ことなく、ヴリンダーヴァンの真価を知る(to appreciate)ことはできません。普通の経験によれば、ヴリンダーヴァンはちょうど普通の村のように見えますが、高く上げられた献身者の目の中では、それはもともとのヴリンダーヴァンと同じくらい良いのです。偉大な、聖人のようなアーチャーリャが歌いました。「いつ私の心は全ての汚染から清まり、ヴリンダーヴァンをありのままに見られるのでしょうか?そしていつ私はゴスヴァーミーたちによって残された文献を理解し、ラーダーとクリシュナの超越的な娯楽を知ることができるのでしょうか?」

ヴリンダーヴァンにおけるクリシュナとゴピーたちの恋愛もまた超越的です。それらはこの物質世界の普通の好色な情事(lusty affairs)のように見えますが、非常に大きな違いがあります。物質的な世界では、色情(lust、切望、色情)の一時的な目覚めがあるかもしれませんが、それはいわゆる満足のあとで消えます。霊的な世界では、ゴピーたちとクリシュナの間の愛は常に増しています。それが超越的な愛と物質的な色情の違いです。この体から生じる色情、いわゆる愛は、体そのものと同じくらい一時的です。しかし、霊的な世界の中の永遠の魂から生じる愛は霊的な水準にあり、その愛もまた永遠です。したがって、クリシュナは常に若々しい(green)キューピッドと呼ばれます。

主クリシュナはガーヤトリー・マントラによって崇拝され、主を崇拝するための特定のマントラはカーマ・ガーヤトリーと呼ばれます。ヴェーダ文献は「人を精神的なでっち上げから引き上げることのできるその振動は、ガーヤトリーと呼ばれる」と説明します。カーマ・ガーヤトリー・マントラは、次のような24と2分の1個の音節からなります。このカーマ・ガーヤトリーは、弟子がハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることにおいて発達したときに霊的指導者から受け取られます。言い換えると、このカーマ・ガーヤトリー・マントラとサムスカーラ、すなわち完璧なブラーマナへの改革は、霊的指導者が自分の弟子が霊的な知識において発達したのを見るときに、彼によって授けられます。(訳注および校正:reformation of a perfect brahmana – reformation to a perfect brahmana、前後の脈絡から、これはおそらく「完璧なブラーマナの改革」ではなく「完璧なブラーマナへの改革」とするのが正しいと思います。つまり、これを授けることによって出来の良い弟子が改革・改善され、完璧になる、という趣旨であると思われます。)それでも、カーマ・ガーヤトリーは特定の状況の下では発声されません。どの場合でも、ハレ・クリシュナを唱えることは人を最高の霊的な水準に上げるのに十分です。

ブラーマ・サムヒターの中で、クリシュナの横笛の素敵な(nice)描写が与えられています。「クリシュナがご自分の笛で演奏し始めたとき、音の振動はヴェーダのマントラ、「オーム」として(校正:as the Vedic mantra om – as the Vedic mantra 'om')ブラーマーの耳に入りました。」このオームは3つの文字---A、U、およびMから成り、それは私たちの至高主との関係、霊的な水準において愛の最高の完成と愛の実際の立場を得るための私たちの活動を描写します。クリシュナの横笛の音の振動がブラーマーの口を通して表現されるとき、それはガーヤトリーになります。こうして、クリシュナの横笛の音の振動によって影響されることによって、至高の被造物であってこの物質世界の最初の生命体であるブラーマーは、ブラーマナとして認められました(to initiate、手引きをする、入門させる、秘伝を伝える)。ブラーマーがクリシュナの横笛によってブラーマナとして認められたということは、シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによって確認されています。ブラーマーがクリシュナの横笛を通してガーヤトリー・マントラによって啓蒙されたとき、彼はすべてのヴェーダの知識を得ました。クリシュナによって彼に授けられた恩恵に感謝して(to acknowledge)、彼はすべての生命体のもともとの霊的指導者になりました。

ガーヤトリー・マントラに加えられたクリームという言葉は、ブラーマ・サムヒターの中で、至高神への愛の超越的な種、あるいはカーマ・ガーヤトリーの種として説明されています。対象は、常に若々しいキューピッドであるクリシュナであり、クリーム・マントラを発声することによってクリシュナが崇拝されます。ゴパーラ・ターパニー・ウパニシャッドの中でも、「クリシュナがキューピッドとして語られるとき、人は主をこの物質世界のキューピッドと考えるべきではない」と述べられています。既に説明されたように、ヴリンダーヴァンはクリシュナの霊的なお住まいであり、キューピッドという言葉もまた、霊的で超越的です。人は物質的なキューピッドとクリシュナを同じ水準にあると受け取るべきではありません。物質的なキューピッドは外的な肉と体の魅力を表しますが、霊的なキューピッドは、超魂が個々の魂を魅了するときの魅力です。実際は、色情と性交は霊的な人生の中に存在しますが、霊魂が物質的な要素でできた体に入れられているとき(embodied in material elements)、その霊的な欲求は物質的な体を通して表現され、したがって歪んで反映されます。人が実際にクリシュナ意識の科学を熟知するようになるとき、彼は、自分の性交への物質的な欲望は忌まわしく、他方で霊的な性交は望ましい、と理解することができます。

霊的な性交には2種類あります。自己の本来的な立場に適ったものと、対象に適ったものです(訳注:one in accordance with the constitutional position of the self and the other in accordance with the object、これは意味がよく分かりません) 。人がこの人生の真理を理解し、しかし完全に物質的な汚染から清められていないとき、彼は霊的な人生を理解するかもしれませんが、事実として超越的なお住まい、ヴリンダーヴァンに位置してはいません。しかし、人が物質的な体の性的な欲求から自由になるとき、彼は実際にヴリンダーヴァンという至高のお住まいに至ることができます。人がそのように位置しているとき、彼はカーマ・ガーヤトリーとカーマ・ビージャ・マントラを発声することができます。

それからラーマーナンダ・ラーヤは、「クリシュナは男性にも女性にも、動くものにも動かないものにも、どちらにも---実に、すべての生命体にとって魅力的である」と説明しました。この理由により、主は超越的なキューピッドと呼ばれます。それからラーマーナンダ・ラーヤはシュリマッド・バーガヴァタムから「主が微笑みを浮かべてご自分の横笛を吹きながらヴラジャの高貴な娘たちの前に現れたとき、主はちょうどキューピッドのように見えた」と述べる一節(10.32.2)を引用しました。

至高主と様々に異なる適性および関係を持つ、様々に異なる種類の献身者たちがいます(訳注:「いろいろな献身者がいて、それぞれに至高主と独自の関係を持っています」)。中心点はクリシュナなので、主とのどの一つの関係も、他のどの関係とも同じくらい良いものです。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーに、次のように述べられています。「クリシュナはすべての喜びの宝庫であり、主はいつもご自分の体の霊的な輝きによってゴピーたちを魅了しています。主は特にターラカー、パーリ、シャーマー、そしてラリターを惹き付けます。
クリシュナは、最も重要なゴピーであるラーダーラーニーにとって、非常に愛しい方です。」(ちょうど)クリシュナのように、ゴピーたちはクリシュナの娯楽によって讃えられます。クリシュナとの様々に異なる種類の関係があり、そして特定の関係によってクリシュナに魅了されている者は、誰であれ、讃えられます。

クリシュナは非常に美しく、超越的で魅力的なので、主は時としてご自分自身さえ惹き付けます。次の節はギータ・ゴヴィンダ(1.11)に現れます。

viśveṣām anurañjanena janayann ānandam indīvara-
  śreṇī-śyāmala-komalair upanayann aṅgair anaṅgotsavam
svacchandaṁ vraja-sundarībhir abhitaḥ praty-aṅgam āliṅgitaḥ
  śṛṅgāraḥ sakhi mūrtimān iva madhau mugdho hariḥ krīḍati

「我が親愛なる友よ。クリシュナが春にご自分の体(personal body)の美しさを広げることでご自分の超越的な娯楽を楽しんでいらっしゃる様子を御覧なさい。主の柔らかい脚と手は、ちょうど最も美しい月のように、ゴピーたちの上に使われます。主が彼女たちの体の様々な部分を抱擁なさるとき、主はとてもお美しいです。クリシュナは非常に美しいので、主はナーラーヤナさえも、そしてナーラーヤナと関わる幸運の女神さえも魅了なさいます。」

シュリマッド・バーガヴァタム(10.89.58)において、ブーマー・プルシャ(マハーヴィシュヌ)はクリシュナに、「我が親愛なるクリシュナとアルジュナよ。私はただあなた方に会うためだけにブラーマナの息子たちを取りました」と言いました。アルジュナはドゥヴァーラカーで若死にした何人かの若者を救おうとしましたが、彼が彼らを救うのに失敗したとき、クリシュナは彼をブーマー・プルシャのところに連れて行きました。そしてブーマー・プルシャがそれらの死んだ体を生きたもの(living entity)として差し出したとき、主は「あなた方はどちらも、世界で宗教的な原則を守り(to preserve、衰退から守る、保存する)、悪魔を滅ぼしているように見えます」とおっしゃいました。言い換えると、ブーマー・プルシャもまたクリシュナの美しさに惹かれ、主(ブーマー・プルシャ)はこの娯楽を単にクリシュナに会うための口実として作り上げました。シュリマッド・バーガヴァタム(10.16.36)において、「大蛇カーリヤがクリシュナによって罰せられたあと、カーリヤの妻たちの一人がクリシュナに「親愛なる主よ。私たちは、幸運の女神でさえ、ただあなたに会うために数年間の禁欲を行ったときに(訳注:行ったというのに)、どうしてこの堕落した大蛇があなたの蓮の御足によって蹴られる機会を得たのか分かりません」と言った」と記録されています。(校正:最後の引用符が抜けている )。

クリシュナがどのようにご自分自身の美によって魅了されるかがラリタ・マーダーヴァ(8.34)に描写されています。ご自分の姿絵を見て、クリシュナは嘆きました(訳注:to lament、悲嘆にくれる様子を表しますが、ここでは「感嘆する」のほうが近いかもしれません)。「この絵のなんと素晴らしいことでしょう!それは、ちょうどそれがラーダーラーニーを惹き付けるように、私を惹き付けています。」

クリシュナの美しさの要約を述べたあと、ラーマーナンダ・ラーヤは、シュリーマティー・ラーダーラーニーを筆頭とするクリシュナの霊的なエネルギーについて話し始めました。クリシュナは莫大なエネルギー的な拡張体をお持ちです。3つのエネルギーが主なものです。内的エネルギー、外的エネルギー、そして周辺的なエネルギーです。これはヴィシュヌ・プラーナの6章において確認されています。そこで、「ヴィシュヌは霊的エネルギーと呼ばれる一つのエネルギーをお持ちであり、それは3つの方法で顕現する」と述べられています。霊的なエネルギーが無知によって圧倒されるとき、それは周辺的なエネルギーと呼ばれます。霊的エネルギーそのものに関して言えば、それは3つの形で表されます。なぜなら、クリシュナは永遠性、喜び、そして知識の組み合わせだからです。主の喜びに関して言えば、主の霊的なエネルギーは喜びを与える力として顕現します。主の永遠性はエネルギーとして顕現し、そして主の知識は霊的な完成として顕現します。ヴィシュヌ・プラーナ(1.12.69)において、次のように確認されています。「クリシュナの喜びの力がクリシュナに超越的な喜びと至福を与えます。」このように、クリシュナが喜びを楽しみたいとき、主はフラーディニーとして知られるご自分自身の霊的な力を現されます 。

ご自分の霊的な形において、クリシュナはご自分の霊的な力をお楽しみになり、そしてそれがラーダー・クリシュナの娯楽の真髄(sum and substance)です。これらの娯楽は、高度に発達した献身者によってのみ理解され得ます。人は俗的な水準からラーダー・クリシュナの力と娯楽を理解しようとすべきではありません。一般に、人々はこれらを物質的であるとして誤解します。

喜びの力がさらに凝縮するとき、それはマハーバーヴァと呼ばれます。クリシュナの永遠の恋人(consort、妃)であるシュリーマティー・ラーダーラーニーは、そのマハーバーヴァの人格化したものです。このことに関して、ウッジヴァラ・ニーラマニ(4.3)の中でルーパ・ゴスヴァーミーは、「クリシュナとの愛において、ラーダーラーニーとチャンドラーヴァリーという二人の競争者がいる」と述べています。彼女らが比べられるとき、ラーダーラーニーのほうが優れているように見えます。なぜなら、彼女はマハーバーヴァ・スヴァールパをお持ちだからです。マハーバーヴァ・スヴァールパ、すなわちマハーバーヴァの人格化したものは、ラーダーラーニーだけに当てはまります。マハーバーヴァは喜びの力に満ちており、そしてそれはクリシュナへの最高の愛の表れです。したがってラーダーラーニーは世界中でクリシュナの最愛の人として知られ、そして彼女の名はいつもラーダー・クリシュナとして、クリシュナと関連づけられています。

ブラーマ・サムヒター(5.37)も、「クリシュナは霊的な世界においてご自分をご自分の喜びの力によって拡張し、これらの力はすべてクリシュナと異なるものではない」と確認します。クリシュナはいつもご自分の喜びの力の拡張体たちと共にいらっしゃいますが、主はあまねく存在なさいます。そのため、ブラーマーはゴヴィンダ、すべての原因の原因に、心からの敬意を捧げます。

クリシュナが霊的な完成の最高の象徴であるように、ラーダーラーニーは、それによってクリシュナが満足させられる、その霊的な喜びの力の最高の象徴です。クリシュナは無限であるため、主を満足させるためにラーダーラーニーもまた無限です。クリシュナは単にラーダーラーニーをご覧になることによって満足なさいますが、ラーダーラーニーはクリシュナがもっと彼女を楽しみたいと思うような方法で、ご自分を拡張なさいます。クリシュナはラーダーラーニーの喜びの力(訳注:の大きさ)を推定することができなかったので、主はラーダーラーニーの役割を受け取ることを決意し、そしてその組み合わせがシュリー・チャイタンニャ・マハープラブです。

それからラーマーナンダ・ラーヤは、ラーダーラーニーをクリシュナの喜びの力の最高の象徴として説明し始めました。ラーダーラーニーはご自分をラリター、ヴィシャーカー、および、ご自分の他の内密な仲間たちとして知られる、様々に異なる形に拡張なさいます。自著ウッジヴァラ・ニーラマニの中で、ルーパ・ゴスヴァーミーは、シュリーマティー・ラーダーラーニーの性質を説明します。彼は、ラーダーラーニーの体は本質的に(in itself)超越的な喜びの実際の進化だ、と指摘します。その体は花とかぐわしい香りで飾られており、クリシュナとの超越的な愛を完全に備えています(is complete with)。それは主の喜びの力が人格化したものです。その超越的な体は3回沐浴します。最初は慈悲の水の中で、2回目は若々しい美しさの水の中で、そして最後に若々しい輝きの水の中でです。そのように3回沐浴したあと、彼女の体は輝く衣類で覆われ、そして化粧品に比べられるクリシュナの個人的な美しさで飾られます。このように、彼女の美しさは最高の芸術性から成ります。彼女の体はまた、霊的な恍惚という装飾品でも飾られています。---震えること、涙、硬直、発汗、息が詰まること、超越的な喜びを原因とする、すべての身体的な機能の中断、よろめき(訳注:stumbling、どもり、という意味もある)、高血圧、そして狂気です。

装飾的で超越的な喜びの力は9つのしるしを顕現します。これらのうちの5つは、花輪で飾られた彼女の個人的な美しさの拡張によって顕現します。彼女の辛抱強い冷静さは、樟脳で洗い清められた覆い布に比べられます。クリシュナへの彼女の内密な苦悩は彼女の髪のからまりであり、彼女の額にあるティラカは彼女の幸運です。ラーダーラーニーの聴覚は永遠にクリシュナの名と名声に固定されています。人の唇はビンロウの実を噛むことで赤くなります。同様に、ラーダーラーニーの目の縁は、彼女のクリシュナへの完全な執着から黒ずみます。この黒さは、自然がラーダーとクリシュナと共にふざけるときに自然によって使われる軟膏に比べられます。ラーダーラーニーの微笑みは、ちょうど樟脳の味のようです。彼女が良い香りのする部屋の中の、誇り高さという寝台に横たわるとき、別離の花輪が彼女の体の上で動きます。クリシュナへの恍惚的な愛情から、彼女の胸(訳注:breast、単数)は、怒りというブラウスで覆われます。クリシュナのすべての女友達のうちで最高の方と評される彼女は、弦楽器を演奏なさいます。クリシュナがご自分の若々しい姿勢で立つとき、彼女はご自分の手を主の肩に置かれます。彼女は非常に多くの超越的な性質を持っておいでですが、いつもクリシュナへの奉仕にいそしんでいらっしゃいます。

シュリーマティー・ラーダーラーニーは、時として苦難を含み、そして時として鎮静を含むスィーッディープタ・サーットヴィカの感情で飾られていらっしゃいます。すべての超越的な恍惚がシュリーマティー・ラーダーラーニーの体の中に顕現します。スィーッディープタ・サーットヴィカの感情は、恋人が自制できない特定の感情によって圧倒されるときに顕現します。ラーダーラーニーはキラキンチタと呼ばれるもう一つの感情をお持ちであり、それは20の異なる方法で顕現します。これらの感情は部分的に、体、心そして習慣が原因で顕現します。身体的な感情に関して言えば、それらは姿勢と動きにおいて顕現します。心の感情に関して言えば、それらは美しさ、輝き、顔色、香り(flavor、味わい)、話、寛大さ、そして辛抱強さとして顕現します。習慣的な感情に関して言えば、それらは娯楽、楽しみ、準備、そして忘却(forgetfulness)として顕現します。

幸運のティラカはシュリーマティー・ラーダーラーニーの額にあり、そして彼女はプレマ・ヴァイチッテャのロケットペンダントもお持ちです。プレマ・ヴァイチッテャは、愛する者と愛される者(beloved、最愛の人)が会って、別離を恐れるときに顕現します。

シュリーマティー・ラーダーラーニーは、クリシュナより15日年少です。彼女はいつもご自分の手をご自分の友人たちの肩の上に置き、そして彼女はいつもクリシュナとの娯楽について話し、考えます。彼女はいつもクリシュナにご自分の愛らしい語りによって一種の陶酔物を捧げ、そして彼女はいつも主の望みを叶える用意ができています。言い換えると、彼女はシュリー・クリシュナのすべての要求に対して供給し、そして彼女はクリシュナの満足のための独特で非凡な性質をお持ちです。

ゴヴィンダ・リーラームリタの中に、「クリシュナの愛情(Krishna's affection)のための培養地は誰ですか?答えは、それはただシュリーマティー・ラーダーラーニーだけ、というものです。クリシュナの最も愛すべき対象は誰ですか?答えは、それはただシュリーマティー・ラーダーラーニーだけで、他の誰でもない、というものです」と述べる一節があります。髪の輝き、目のうるみ、そして乳房の張りは、すべてシュリーマティー・ラーディーカーのうちにある性質です。シュリーマティー・ラーディーカーだけがクリシュナのすべての望みを満たすことができます。他の誰もそうすることができません。

サテャバーマーはシュリーマティー・ラーダーラーニーのもう一人の競争相手ですが、彼女はいつもシュリーマティー・ラーダーラーニーの水準に至りたいと望みます。ラーダーラーニーはすべての事柄において非常に熟達しているので、ヴラジャのすべての高貴な娘たちは、彼女から技芸を学ぶためにやってきます。彼女は非常に並外れて美しいので、幸運の女神と、主シヴァの妻パールヴァティーでさえ、彼女の美の水準への上昇を望みます。宇宙の中で最も貞節な淑女であるとして知られるアルンドゥーティーは、シュリーマティー・ラーダーラーニーから貞節の水準を学びたいと思います。主クリシュナでさえラーダーラーニーの高度に超越的な性質を推定することができないので、普通の人にとってそれらを推定することは可能ではありません。

ラーマーナンダ・ラーヤがラーダー・クリシュナの性質について語るのを聞いたあと、主チャイタンニャは彼から、彼らの間の愛の交換について聞きたいと望みました。ラーマーナンダ・ラーヤは、クリシュナをディーララリタとして描写しました。非常に悪賢くて若々しい者、いつも冗談を言うことにおいて熟達している者、不安がない者、そしていつも自分の女友達に従順(訳注:subservient、卑屈な従順さを指す)である者を描写する言葉です。クリシュナはいつもラーダーラーニーとの恋愛にいそしんでいます。そして主は、彼女とのご自分の好色な活動を楽しむために、ヴリンダーヴァンの茂みに隠れます(to take to~、隠れ場所を探して~に行く)。こうして主は、うまくご自分の好色な本能を満たします(to carry out、成し遂げる)。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーには次のように述べられています。「性交にふけることに関するご自分の厚かましくて大胆な語りによって、クリシュナはシュリーマティー・ラーダーラーニーに目を閉じさせ、これを利用してクリシュナは彼女の乳房にたくさんの絵を描きました。これらの絵は、ラーダーラーニーの友人たちにとって、冗談を言う的(subject matter)の役割を果たしました(訳注:~は~を見て~をからかいました)。このように、クリシュナはいつも好色な活動にいそしんでおり、そして、こうして主はご自分の若々しい人生を成功させました。」

これらの超越的な活動を聞いて、主チャイタンニャはおっしゃいました。「我が親愛なるラーマーナンダよ。シュリー・ラーダーとクリシュナの超越的な娯楽についてあなたが説明したことは、完全に正確です。それでも私はあなたからもっと聞きたいことがあります。」

「私にとって、これを超えた何かを表すことは非常に困難です」とラーマーナンダ・ラーヤは答えました。「私は、『プレマ・ヴィラーサ・ヴィヴァルタと呼ばれる感情の活動がある』ということだけを言うことができます。私はそれを説明しようとします(may)が、私はあなたがそれを聞くことで幸せかどうか分かりません。」プレマ・ヴィラーサには二つの種類の感情の活動があります---別離と出会いです(訳注:meeting、ここで「出会い」は単に「会うこと」を指し、日本語の「出会い」の語感に含まれる「初めての出会い」ではありません。適切な言葉を思いつかないのでこうしています。以下同様ですが、「密会」という意味もあるので、内容によってはそちらが適切な場合もあります)。その超越的な別離は非常に激しいので、実際は出会いよりも恍惚的です。ラーマーナンダ・ラーヤは、ラーダーとクリシュナの間のこれらの高度に発達したやりとりを理解することにおいて熟達しており、そして彼は素敵な(nice)歌を作詞し、それを主に詠唱しました。その歌の解説は、「愛する者と愛される者は、出会いの前に、自分たちの超越的な活動の交換によって、一種の感情を作り出す」というものです。その感情はラーガ、すなわち魅力と呼ばれます。シュリーマティー・ラーダーラーニーは、「私たちの間の、この魅力と愛情が、最高の限度(extent、範囲、限界、大きさ)まで上がる」というご自分の意欲を表されましたが、この魅力の原因はラーダーラーニーご自身です。「原因が何であれ」とラーダーラーニーはおっしゃいました。「あなたと私の間のその愛情は、私たちを一つに混ぜました(to mix)。今、別離の時が来たので、私はこの愛の進化の歴史を見ることができません。私たちの出会いそのもの、そして(私たちの)気持ちの夢のような(visionary)交換の他には、原因や媒体はありませんでした。」

クリシュナとラーダーラーニーの間のこの気持ちの交換は、人が純粋な徳の水準に上げられない限り、理解するのが非常に困難です。そのような超越的な交換は、物質的な徳の水準から理解することは可能でさえありません。理解するためには、人は実際に物質的な徳を超越せねばなりません。これは、ラーダーとクリシュナの間の気持ちの交換が、この物質的な世界の主題ではないからです。最も偉大な精神的な推量者でさえ、直接的にも間接的にも、これを理解することができません。物質的な活動は、濃密な体、あるいは希薄な心のために(for)顕現しますが、ラーダーとクリシュナの間のこの気持ちの交換はそのような顕現を超えており、知性的で精神的な推量を超えています。それは物質的な世界のすべての区分(訳注:designation、呼称、指定など。物質的な体に基づいて「自分は男である、アジア人である」などと区別して考えること)から自由になった、浄化された感覚によってのみ理解されます

感覚を浄化した者は、これらの超越的な特質と交換を理解することができますが、非人格主義者である者、そして霊的な感覚について何の知識もない者は、物質的な感覚の範囲の中で識別する(to discriminate、違いを認識する)ことができるだけであり、そしてそのため、霊的な交換あるいは霊的で官能的な活動を理解することができません。実験的な知識の力によって発達した者は、濃密な身体的な活動によって、あるいは精神的な推量によって、自分の鈍感な物質的な感覚を満足させることができるだけです。体、あるいは心から生じたすべては、いつも不完全であり、やがて滅びます。しかし、超越的で霊的な活動は、いつも明るくすばらしい(bright and wonderful)ものです。超越的な水準における純粋な愛は、物質的な愛情のない純粋さの模範であり、完全に霊的です。物体への愛情は、物質世界における性交の酩酊によって示されるように、やがて滅びます。しかし、霊的な世界にはそのような酩酊はありません。感覚の満足の道における妨げは物質的な苦しみを生じさせますが、人はそれを霊的な別離と比べることはできません。霊的な別離の中には、人が物質的な別離の中に見出す酩酊も無力感(ineffectiveness)もありません。

主チャイタンニャは、「これが超越的な愛情ある交換の最高の立場である」と認めました。そして、主はラーマーナンダ・ラーヤにこう言いました。「あなたの恵みによってのみ、私はそのような高い超越的な立場を理解することができました。そのような立場には、超越的な活動を行うことなくしては至り得ません。ですから、どうか親切に、どうしたら私は自分自身をこの水準に上げることができるか、教えてくださいませんか?」

「あなたに理解させることは、私にも同じように困難です」とラーマーナンダ・ラーヤは答えました。「私に関して言えば、私はあなたが私に話して欲しいと思われることだけを話すことができます。誰もあなたの至高の意志を逃れることはできません。そして、私は話しているように見えますが、私は実際は話者ではありません。あなたが話していらっしゃいます。したがって、あなたは話者であって、聴衆でもあります。そのため、この最高の超越的な立場に至るために必要とされる行いについて、あなたが私に話すように望まれるようにだけ、話させてください。」

それからラーマーナンダ・ラーヤは、ラーダーとクリシュナの内密で超越的な活動を語り始めました。これらの活動は、主人と従者、友と友、あるいは親と息子としての至高主との感情的な関係においては、理解され得ません。この内密な主題は、ヴラジャの高貴な娘たちとの関わりにおいてのみ、理解され得ます。なぜなら、内密な活動はそれらの高貴な娘たちの気持ちと感情から生じたからです。ヴラジャの高貴な娘たちとの関わりなくしては、人はそのような超越的な理解を育んだり、あるいは慈しんだりすることはできません。言い換えると、ラーダーとクリシュナのこれらの内密な娯楽は、高貴な娘たちの慈悲を通して拡大しました。彼女らの慈悲なくしては、それらは理解され得ません。人は(それらを)理解するためにヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿らねばなりません。

人が実際にその理解に位置するとき、彼はラーダーとクリシュナの内密な娯楽に入る資格を得ます。彼らの内密な娯楽を理解するためには、代替策はありません。これはゴヴィンダ・リーラームリタ(10.17)において確認されています。「顕現しており、幸せで、広がっており、そして無限であるけれど、ラーダーとクリシュナの間の感情的な交換は、ヴラジャの高貴な娘たち、あるいは彼女らの追従者によってのみ理解され得ます。」ちょうど、主のいわれのない慈悲なくしては誰も至高主の霊的エネルギーの広がりを理解できないように、ヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿ることなくしては、誰もラーダーとクリシュナの間の超越的な性生活を理解することはできません。

ラーダーラーニーの個人的な仲間たちはサキー(sakhis、複数)と呼ばれ、彼女の近しい助手たちはマンジャリー(manjaris、複数)と呼ばれます。彼女らのクリシュナとのやり取りを表すことは非常に困難です。なぜなら、彼女らはクリシュナと親しく交際したり(to mix)、主を個人的に楽しんだりする欲望を持たないからです。そうではなく、彼女らはいつもラーダーラーニーがクリシュナと関わるのを助ける用意ができています。彼女らのクリシュナとラーダーへの愛情は非常に純粋なので、彼女らはラーダーとクリシュナが一緒にいるとき、それだけで(simply)満足します。実に、彼女らの超越的な喜びは、ラーダーとクリシュナが結ばれるのを見ることにあります。ラーダーラーニーの実際の姿は、ちょうどクリシュナという木を抱擁するつる草のようであり、そしてヴラジャの高貴な娘たち、ラーダーラーニーの仲間たちは、ちょうどそのつる草の葉や花のようです。つる草が木を抱擁するとき、つる草と一緒に葉と花も自動的にそれを抱擁します。ゴヴィンダ・リーラームリタ(10.16)は、「ラーダーラーニーはクリシュナの喜びの力の拡張体であって、つる草と比べられます。そして彼女の仲間たち、ヴラジャの高貴な娘たちは、そのつる草の花と葉に比べられる」と確認します。ラーダーラーニーとクリシュナが楽しむとき、ヴラジャの高貴な娘たちはラーダーラーニー本人よりも喜びを味わいます。

ラーダーラーニーの仲間たちはクリシュナから何らの個人的な関心も期待しませんが、ラーダーラーニーは彼女らを非常に喜ばしく思われるので、彼女はクリシュナとヴラジャの高貴な娘たちとの間の個別の出会いを手配なさいます。実に、ラーダーラーニーは多くの超越的な策略によって、ご自分の仲間たちをクリシュナと結びつけようと(訳注:to combine or unite、どちらも「結びつかせる」という意味)なさいます。そして彼女は、主とのご自分自身の出会いよりもこれらの出会いに、より大きな喜びを感じられます。ラーダーラーニーと彼女の仲間たちの両方が主との関わりによって喜んでいるのを見るとき、クリシュナはもっと満足なさいます。そのような関わりと愛情ある交換は、男と女の間の物質的な結びつきに似ていますが、物質的な色情とは何の関係もありません。そのような交換が時として、超越的な言語において、「超越的な色情」と呼ばれるのは、単にその類似性のためです。ゴータミーヤ・タントラ(B.r.s.1.2.285)において、次のように説明されています。「欲望(lust、色情)とは、人の個人的な感覚の満足への執着を意味します。しかし、ラーダーラーニーと彼女の仲間たちに関して言えば、彼女らは個人的な感覚の満足を望みませんでした。彼女らは、クリシュナを満足させることだけを望みました。」これは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.31.19)の中で、ゴピーたちの話の一つの中でさらに確認されています。

yat te sujāta-caraṇāmburuhaṁ staneṣu
  bhītāḥ śanaiḥ priya dadhīmahi karkaśeṣu
tenāṭavīm aṭasi tad vyathate na kiṁ svit
  kūrpādibhir bhramati dhīr bhavad-āyuṣāṁ naḥ

「私の親愛なるお友達クリシュナよ。あなたは今、裸足で森の中をさまよっていらっしゃいます。あなたが時として私たちの乳房の上に乗せる、その足で。あなたの足が私たちの乳房の上にあるとき、私たちは自分の乳房があなたの柔らかい足には固すぎると考えます。今、あなたは森の中をさまよい、石の上を歩いています。そして私たちは、あなたがどう感じているのか知りません。あなたは私たちにとって何よりも大切なもの(訳注:life and soul、「命と魂」)なので、粗い石の上を行くことであなたが経験する不快さは、私たちに大いなる苦しみを与えています。」

ヴラジャの高貴な娘たちによって表されるそのような気持ちは、最高のクリシュナ意識の感情を構成します。実際にクリシュナ意識によって魅了されるようになる者は誰でも、ゴピーたちのこの水準に近付きます。無条件の(unconditional)献身というゴピーたちの水準に上がるためになされる、64の部類の献身奉仕があります。ゴピーたちの水準におけるクリシュナへの愛情は、ラーガーヌガ、自然発生的な(spontaneous、自発的な)愛、と呼ばれます。人がクリシュナとの自然発生的な恋愛に入るとき、ヴェーダの規則や規律に従う必要はありません。

超越的なお住まいには、様々な種類の主クリシュナの献身者がいます。例えば、ラクタカとパトラカのような従者がおり、シュリーダーマーとスダーマのようなクリシュナの友人たちがいます。ちょうどナンダとヤショダーのような、クリシュナの両親もいます。彼らもまた、それぞれの超越的な感情に応じて、クリシュナへの奉仕に携わっています。クリシュナの至高のお住まいに入りたいと望む者は、そのような超越的な従者たちの一人の庇護を受けることができます。そうすれば、愛情ある奉仕の遂行を通じて、人はクリシュナへの超越的な愛情を得ることができます。言い換えると、クリシュナのそれらの永遠の仲間たちの活動を遂行中に(in pursuance of、義務などを遂行している間に、またはそれに従事している間に)愛情ある奉仕を行う、この物質世界の中の献身者もまた、彼が完成するとき、同じ地位を得ます。(訳注:この一文はそのままではよく分かりませんが、直前の一文から、「これらの人々の庇護の下で自分も主に奉仕をするうちに」ということだろうと思います。 )

ウパニシャッドとシュルティの中で言及されている賢人たちもまた、ゴピーたちの地位を欲します。そして彼らもまた、人生のその最高の目的地に至るためにゴピーたちの足跡を辿ります。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.87.23)において確認されています。そこでは、「神秘的なヨガの実践を通して呼吸の過程と心と感覚を統御することによって、賢人たちはプラーナーヤーマ(trance、恍惚感)を実践する」と述べられています。こうして彼らは至高のブラーマンに同化しようとします。この同じ目的は、神の存在を否定する無神論者によっても達成されます。もしもそのような無神論者が至高の人格神の化身によって殺されるなら、彼もまた、至高のブラーマンの存在に同化します。しかし、ヴリンダーヴァンの高貴な娘たちがクリシュナを崇拝するとき、それはまるで彼女らが蛇に噛まれたかのようです。なぜなら、クリシュナの体は蛇に比べられるからです。蛇の体は決してまっすぐではありません。それはいつも曲がりくねっています。同様に、クリシュナはしばしば、3つのところで波打った姿勢でお立ちになり、そして主はゴピーたちを超越的な愛で噛みました。ゴピーたちは確かに、至高のブラーマンに同化したいと欲するすべての神秘的なヨギーたちと、その他の者たちよりも、秀でた立場にあります。ダンダカーラニャの賢人たちもまた、似た地位を得るためにヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿ります。人は単に規律的な原則に従うことによってその地位を得ることはできません。そうではなく、人は真剣にゴピーたちの原則に従わねばなりません。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.9.21)において確認されています。そこには、「シュリーマティー・ヤショダーの息子、主シュリー・クリシュナは、精神的な推量の原則に従う者には容易に得られない(available)が、献身奉仕の道を辿る様々な生命体には簡単に得られる」と述べられています。

わざとヴラジャの高貴な娘たちの服装をして、主チャイタンニャ・マハープラブの宗派に属すると主張する、多くの偽りの献身者がいます。そして、これは発達した心霊主義者、あるいは発達した献身奉仕の学徒によっては認められていません。そのような人々は、外的な物質の体に(そのような)衣類をまといます。なぜなら、彼らは愚かにも体を魂と間違えるからです。彼らがクリシュナ、ラーダーラーニー、そして彼らの仲間であるヴラジャの高貴な娘たちの霊的な体が物質自然でできていると考えるとき、彼らは間違っています。人は、「すべてのそのような顕現は、超越的な世界における永遠の喜びと知識の拡張体である」と、完璧に知るべきです。それら(訳注:上記の人々の霊的な体)は、これらの物質的な体とは何の関係もありません。このため、ヴリンダーヴァンの高貴な娘たちの体、衣服、飾り、そして活動は、この物質的な宇宙の顕現のものではありません。ブリンダーヴァンの高貴な娘たちは、物質的な世界の中のそれらの魅力の影響の下にはありません。彼女らは、すべてを魅了するクリシュナのための超越的な魅力です。主はすべてを魅了するので、主はクリシュナと呼ばれます。しかし、ヴリンダーヴァンの高貴な娘たちは、クリシュナにさえ魅力的です。したがって、彼女らはこの物質世界のものではありません。

もしも人が誤って物質的な体は霊的な体と同じくらい完璧であると考え、そしてヴリンダーヴァンの高貴な娘たちを真似し始めるなら、彼はマーヤーヴァーディーの非人格的な哲学で荒らされる(to infest、害虫などが寄生する様子)ようになります。非人格主義者たちは、人が自分の体を至高存在として崇拝する、アハム・グラホパーサナーという過程を勧めます。このように考えて、そのような偽りの超越主義者たちは、ヴラジャの高貴な娘たちのような服装をします。そのような活動は、献身奉仕においては受け入れられません。ゴーディーヤサムプラダーヤにおける最も権威のあるアーチャーリャであるシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーでさえ、これらの模倣を非難しました。超越的な認識の過程は、至高主の仲間たちの足跡を辿ることです。したがって、もしも人が自分自身を至高主の直接的な仲間と考えるなら、彼は非難されます。権威を認められたヴァイシュナヴァの原則によれば、人はある特定の献身者に従うべきであり、そして自分自身をクリシュナの仲間と考えるべきではありません。

このようにしてラーマーナンダ・ラーヤは、「人はヴラジャの高貴な娘たちの雰囲気を受け入れるべきである」と説明しました。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、「人はクリシュナの仲間たちの感情の活動を受け入れるべきであり、(彼らの)衣服を真似るべきではない」と明らかに述べられています。人はまた、いつも超越的な世界におけるラーダーとクリシュナの間の事柄を瞑想すべきです。人はラーダーとクリシュナのことを一日24時間考え、永遠に彼らへの奉仕にいそしむべきです。人は外的に自分の衣服を変える必要はありません。
ラーダーラーニーの仲間たちと友人たちの雰囲気を辿ることによって、人は究極的に完成の水準に至り、ゴロカ・ヴリンダーヴァン、クリシュナの超越的なお住まいに移されます 。

ゴピーたちの感情的な追求(emotional pursuit)の雰囲気は、スィッダー・デハと呼ばれます。この言葉は、感覚と心と知性を超えた、純粋な霊的な体を指します。スィッダー・デハは、至高主に奉仕をするのにちょうどふさわしい、浄化された魂です。誰も、自分の純粋な霊的な自己認識に位置することなくしては、主の仲間として至高主に奉仕をすることはできません。その自己認識は、すべての物質的な汚染から完全に自由です。バガヴァッド・ギーターに述べられているように、物質的に汚染されている人は、物質的な意識によって、もう一つの物質的な体に転生します。死のときに彼は物質的に考え、そしてそのため、もう一つの物質的な体に移されます。同様に、人が(死のときに)自分の純粋な霊的な自己認識に位置していて、至高主に捧げられる霊的で愛情ある奉仕のことを考えるとき、彼はクリシュナの仲間に入るために霊的な王国に移されます。言い換えると、自分の霊的な自己認識に至ってクリシュナの仲間たちのことを考えることによって、人は霊的な王国に移る資格を得ます。誰も、自分の純粋な霊的な自己認識(スィッダー)に位置することなくして、霊的な王国のことを熟考したり考えたりすることはできません。そのため、ラーマーナンダ・ラーヤは、「スィッダー・デハに至ることなくしては、人は高貴な娘たちの仲間になることも、至高の人格神クリシュナと主の永遠の恋人(consort、妃)ラーダーラーニーに直接的に奉仕をすることもできない」と言いました。このことに関して、ラーマーナンダ・ラーヤはシュリマッド・バーガヴァタム(10.47.60)を引用しました。

nāyaṁ śriyo ’ṅga u nitānta-rateḥ prasādaḥ
  svar-yoṣitāṁ nalina-gandha-rucāṁ kuto ’nyāḥ
rāsotsave ’sya bhuja-daṇḍa-gṛhīta-kaṇṭha-
  labdhāśiṣāṁ ya udagād vraja-vallabhīnām

「幸運の女神ラクシュミーも、天国のような王国の高貴な娘たちでさえも、ヴラジャブーミーの高貴な娘たちの能力(facilities)を得ることはできません---ましてや(and)、他の者たちについては、何をか言わんや?」

主チャイタンニャは、ラーマーナンダ・ラーヤからこれらの言明を聞いて非常に満足し、彼を抱擁しました。それから両者は超越的な認識の恍惚の中で泣き始めました。このように主とラーマーナンダ・ラーヤはラーダーとクリシュナの超越的な娯楽を夜通し議論し、そして朝に、彼らは別れました。ラーマーナンダ・ラーヤは自分の家に帰るために去り、そして主は沐浴をしに行きました。

別れのとき、ラーマーナンダ・ラーヤは主チャイタンニャの足元にひれ伏して祈りました。「我が親愛なる主よ。あなたは、ただ私をこの無知の泥沼から救うためにいらっしゃいました。したがって私は、私の心をこの物質的な汚染から浄化するために、あなたが少なくとも10日間ここに留まってくださることをお願いします。そのような超越的な神への愛を授けることのできる人は他にいません。

「私は、あなたからラーダーとクリシュナの超越的な娯楽を聞くことによって自分自身を浄化するためにあなたのところに来ました」と主は答えました。「私は非常に幸運です。なぜなら、あなたはそのような超越的な娯楽の唯一の教師だからです。私は、ラーダーとクリシュナの間の超越的な愛情ある交換を認識することのできる他の誰も、世界中に見つけることができません。あなたは私に、ここに10日間留まるように頼んでいます。しかし私は、残りの生涯ずっとあなたと共に留まりたい気がします。私の本拠地であるジャガンナーター・プリーに来てください。そうすれば(and)私たちは互いの残りの生涯ずっと一緒にいる(ことができる)でしょう。そうすれば(Thus)私は自分の残りの日々を、あなたとの関わりの中でクリシュナとラーダーを理解することで過ごすことができます。

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