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はじめに

1967年4月10日から14日にかけて、ニューヨーク市のクリシュナ意識国際協会 ISKCONで、5回に渡るチャイタニャ・チャリタームリタに関する朝の講話として語られたものです。チャイタニャ・チャリタームリタは、クリシュナダー サ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーによる主チャイタニャ・マハープラブの正統なる伝記です。

 「チャイタニャ」という言葉は生命力を意味します。生命体である私たちは動くことができますが、テーブルは動くことができません。テーブルには生命力がないからです。動きと活動は生命力の兆候として考えられるかもしれません。実に、生命力無しでは何らの活動もないと言えるかもしれません。生命力は物質的な状態 に存在していますが、それはアムリタ、すなわち永遠不滅、ではありません。したがって、チャイタニャ・チャリタームリタは、「永遠なる生命力の性質」と翻訳されるかもしれません。

しかし、この生命力は永遠性においてどのように現されているでしょうか。それはこの物質宇宙においては人間や他の生物によっては現されていません。この体においては、誰も永遠ではないからです。私たちには生命力があり、私たちは活動し、本来的に永遠です。しかし、私たちが入れられている物質的な状態は、私たちの永遠性が現されるのを許しません。カター・ウパニシャッドには、永遠性と生命力は私たちと神の双方に属すると述べられています。これは、神と私たちがどちらも永遠であるということに関しては正しいのですが、違いがあります。生命体として、私たちは様々な活動をします。しかし、私たちには物質自然に落ちる傾向があります。神にはそのような傾向はありません。完全に力強い主は、決して物質自然 支配の下に置かれることはありません。実に、物質自然は主の計り知れないエネルギーの一つの現れに過ぎないのでします。
 

地上からは、私たちには空に雲しか見えないかもしれません。しかし、もしも雲の上を飛べば、私たちは太陽が輝いているのを見ることができます。空からは高層ビルや都市はとても小さく見えます。同様に、神の立場からはこの物質創造のすべては取るに足りません。制約された生命体の傾向は、すべてが正しく見える高さから落ちる傾向があるということです。しかし、神にはこの傾向がありません。至高 主は幻想(マーヤー)に陥ることはありません。太陽が雲の下に落ちることがないようなものです。至高主は幻想の影響を受けないので、主は制約されていませ ん。微細な生命体である私たちは幻想に陥りやすいので、制約されている、と呼ばれます。非人格主義者の哲学者たち(マーヤーヴァー ディー)は、この物質世界に来るときは生命体も神も双方がマーヤーの支配下にあると主張します。これは生命体に関しては正しいかもしれませんが、神に関し ては正しくありません。いかなる場合でも物質エネルギーは主の指示の下で働いているからです。

主チャイタンニャ・マハープラブは、私たちの一人として考えられるべきではありません。主はクリシュナご自身、至高の生命体であり、したがって主は決して マーヤーの雲の下には置かれません。主の拡張体および、より高度に発達した主の献身者でさえ、決して幻想の支配の下には落ちません。主チャイタンニャは、単にクリシュナ・バークティ、すなわちクリシュナへの愛を説くためだけに地球にいらっしゃいました。言い換えると、主は生命体にクリシュナに近づくための正しい方法を教えている主クリシュナご自身なのです。主は、あまりうまく学習していない生徒を見て、鉛筆を取り、「こんなふうにしなさい。A、B、C」と言って書いてみせる先生のようなものです。これをもっ て、人は教師がABCを学んでいるのだと愚かにも考えてはいけません。主は献身者のように見えますが、私たちはいつも、主チャイタンニャは私たちにクリ シュナ意識になる方法を教えている主クリシュナご自身であることを覚えているべきであり、私たちは主をその光の中で研究しなければなりません。

バガヴァッド・ギーターの中で主クリシュナは最高の宗教的な原則を次のように述べられます。「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたを罪深い行いのすべての反応から 救います。恐れることはありません。」(BG18.66)

これは一見すると簡単に従えるかもしれませんが、私たちの反応は次のようなものです。 「ああ、降伏だって? しかし、私には多くの責任があります。」

そして、マーヤー、すなわち幻想が私たちに言います。「耳を傾けてはいけません。主の言う通りにすれば、あなたは私の支配から離れま す。私の支配の下に留まりなさい。そして私はあなたを蹴ります。

私たちが常にマーヤーに蹴られているのは事実です。性交をしに来たとき にオスのロバがメスのロバに顔を蹴られるようなものです。同様に、犬や猫も性交をするときにはいつも、争ったり哀れっぽい声を出したりします。これらは自 然の罠です。ジャングルの中の象でさえ、彼を穴の中に導く訓練をされたメスの象を使って捕まえられます。これらはマーヤーの技であり、これらの例から学ぶ必要があります。

マーヤーは多くの活動を持ってお り、物質世界では彼女の最も強い足かせは女性です。もちろん、実際には私たちは男性でも女性でも ありません。これらの名称は外側の衣類、すなわち体だけを指すからです。私たちは皆、実際 はクリシュナの従者です。しかし、制約された人生においては私たちは美しい女性の姿をした鉄の鎖によって束縛されます。こうしてすべての男性は性生活に よって縛られ、したがって人が物質的な支配から解放されようと試みるとき、彼はまず性的な衝動を統御することを学ばねばなりません。制限されない性は人を完全に幻想の支配下に置きます。主チャイタンニャ・マハープラブは24歳のときにこの幻想を公式に放棄しました。主の妻は16歳、母は 70歳で、主は家族で唯一の男性であったにも関わらずです。主はブラーマンであって裕福でもなかったにも関わらず、サンニャーサ、すなわち放棄階級となられ、こうしてご自身を家族のしがらみから解放なさいました。

 本当に私たちが完全にクリシュナ意識を望むなら、 マーヤーの束縛を捨てなければなりません。あるいは、もしもマーヤーと共に留まるなら、私たちは幻想の影響を受けないように暮らさねばなりませ ん。自分の家族を放棄することは必要ではありません。主チャイタンニャの最も親密な献身者たちの中にも、多くの家庭人がいたからです。放棄されねばならないのは、物質的な楽しみを求める傾向です。主チャイタンニャは家庭人が結婚の中で規制された性交をすることは認めていましたが、放棄階級 の者に対しては非常に厳格でした。そして主はキールタナ(主を讃える歌)の先導者のジュニア・ハリダーサを追放したのです。主は彼に言いました。「あなたは、私と同じように放棄したにもかかわらず若い女性を欲望の眼差しを向けました。」他の信者たちは主にハリダーサへの許しを求めましたが、主は彼らに言いました。「彼を許して交際はできるけれども私は彼とは話をしません」と。一方、主チャイタンニャは、信者の一人の妻が妊娠していることを知ったとき、胎児に縁起の良い名前を付けるよう命じました。主は性生活を規制された家庭人を認めていましたが、「断食中に沐浴しながら水を飲む」という方法で放棄したふりをする偽善者には厳格でした。

チャイタンニャ・チャリタームリタから、私たちはチャイタンニャがいかにして人々に永遠不滅になるかを教えたかということを学びます。そして、そのため書名は 「生命力の永遠なる性質」と正しく翻訳されるかもしれません。至高の生命体は至高の人格神です。主はまた、至高の独立体でもあります。これは非常に簡単に理解できます。私たちは皆、思考や欲望において個人であり、至高主もまた個別の人格です。しかし、主は誰もしのぐことのできない指導者であるという点で異なります。創造された生命体の中で、ある存在は別の存在をある能力、あるいは別の何かにおいてしのぐことができます。ちょうど生命体が個人であるように、主は個人で す。しかし、主は至高の個人であるという点で異なります。神はまた決して誤りがなく、バガヴァッド・ギーターにおいて主は「決して堕落することのない者」 という意味のアチュタという言葉で呼ばれています。これは、バガヴァッド・ギーターの中でアルジュナは錯覚に陥りましたがクリシュナは陥 らなかったために、このように述べられているものです。私たちは、神には決して誤りがない、と述べられているのをしばしば耳にします。バガヴァッド・ギー ターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。「私は内的エネルギーによってこの世界に現われます。」(バガヴァッド・ギーター14.6)

つまり、クリシュナが物質世界にいらっしゃるときは主は物質的な力に圧倒される、と私たちは考えるべきではありません。クリシュナおよび主の化身は、物質自然の支配下にはありません。彼らは完全に自由です。さらに、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、神々しい性質を持つ者は、物質自然の中にあっても物質自然の相によって影響されない者、と定義されています。もしも献身者でさえこの自由を得られるのであれば、至高存在は言うまでもありません。

本当の問いは、物質世界にいる間に、いかにして私たちが物質的な汚染に汚されずにいられるか?ということです。もしも単にクリシュナに仕えることを私たちの志しにすれば、私たちは世界にいる間に汚染されずにいられる、と説明なさったのはルーパ・ゴスヴァーミーでした。それでは人は当然、「私はどうやって奉仕できますか」と尋ねるかもしれません。明らかに、これは単に心の活動に過ぎない瞑想のことではなく、実際的な仕事のことです。クリシュナへの奉仕を愛することは、クリシュナのために働くことによってのみ得られます。そのような仕事においては、私たちはいかなる資源も使われないままに残すべきではありません。そこにあるものは何であれ、私たちが持てるものは何であれ、ク リシュナのために使われるべきです。私たちはすべてを使うことができます。タイプライター、自動車、飛行機、ミサイル、、、何でもです。もしも私たちが単に人々にクリシュナ意識について語るなら、それによっても私たちは奉仕をしています。もしも私たちの心、感覚、言葉、お金、およびエネルギーがこのようにクリシュナへの奉仕に使われていれば、私たちは物質自然の中に存在しているとは考えられ得ません。霊的な意識、すなわちクリシュナ意識の力によって、私たちは物質自然の水準を超越します。「クリシュナ、主の拡張体、および主の献身者すなわち主のために働 く人々は物質自然の中にはいない」というのは、知識の乏しい人々が「そうではない」と考えるにも関わらず、事実なのです。

チャイタンニャ・チャリタームリタは、霊魂は永遠不滅であり、霊的な世界における私たちの活動もまた永遠であると教えます。完全存在が非人格であって無形であるという見方をするマーヤーヴァーディーたちは、自己を悟った魂は喋る必要がないと主張します。しかし、クリシュナの献身者であるヴァイシュナヴァたちは、人は自己の悟りの水準に至ったときに本当に喋り始めると主張します。「以前は私たちは無意 味なことばかり喋っていました」とヴァイシュナヴァは言います。「さあ、今こそ本当の話を、クリシュナに関する話を始めましょう。」マーヤーヴァーディーたちはまた、水がめの例を好んで用います。水がめが水で一杯になっていないと、それは音を立てます。しかし、一杯になっていると音を立て ません。それが彼らの主張です。しかし、私たちは水がめでしょうか?どうして私たちが水がめと比べられるでしょうか?良い類推は、二つの 対象の間にできるだけ多くの相似性を用います。水がめは動的な生命力ではありませんが、私たちはそうです。永遠に無言の瞑想は水がめには妥当かもしれませ んが、私たちにはそうではありません。実に、人が自己を認識したとき、人はクリシュナについて話すことがあまりにたくさんあるので、一日に24時間では足りません。黙っている限りは褒め称えられるのは愚か者です。彼が沈黙を破ると、彼の知識の欠如があらわになるからです。チャイタンニャ・チャリタームリタは、至高存在を讃えることによって見出せる素晴らしいものがたくさんあることを示しています。

チャイタンニャ・チャリタームリタの始めに、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはこう書いています。「私は自分の霊的指導者たちに敬意を捧げ ます。」彼はここで、師弟継承を示すために複数形を用いています。自分の霊的指導者だけにではなく、主クリシュナご自身から始まる師弟継承の鎖であるパラ ムパラー全体に敬意を捧げているのです。このように、すべてのヴァイシュナヴァへの著者の最高の敬意を示すために、グルは複数形で指されています。師弟継承に敬意を捧げたあと、著者は他のすべての献身者たち、兄弟弟子たち、至高神の拡張体たち、およびクリシュナのエネルギーの最初に顕現に敬意を捧げます。(時としてクリシュナ・チャイタンニャと呼ばれる)主チャイタンニャ・マハープラブは、これらすべての具現体です。主は、神、グル、献身者、そして神の拡張体です。主の仲間ニテャーナンダとして、主はエネルギーの最初の顕現です。アドヴァイタとして、主は化身です。ガダーガーラとして、主は内的エネルギーです。そしてシュリーヴァーサとして主は境界エネルギー、生命体です。このように、クリシュナは一人でいると考えられるべきで はありません。ラーマーヌジャーチャーリャによって描写されているように、主は永遠に主のすべての顕現と共に存在していると考えられるべきです。ヴィシシュタードヴァイタ哲学では、神のエネルギー、拡張体、および化身は、多様性の中の一体性であると考えられています。言い換えると、神はこれらのすべてから離れたものではなく、すべてを合わせたものが神なのです。

実際には、チャイタンニャ・チャリタームリタは初心者のためのものではありません。それは霊的な知識の高度な大学卒業後の 研究だからです。バガヴァッド・ギーターから始め、シュリマッド・バーガヴァタムへ進み、それからチャイタンニャ・チャリタームリタに進むのが理想的で す。これらの偉大な聖典のすべては同じ完全な水準にありますが、あえて比較検討すれば、チャイタンニャ・チャリタームリタは最高の水準にあると考えられます。その中のすべての句節は完璧に書かれています。

チャイタンニャ・チャリタームリタの2番目の詩節では、著者は主チャイタンニャとニテャーナンダに尊敬の礼を捧げます。お二方は物質世界の暗闇を晴らすので、太陽と月に喩えられます。ちょうど太陽と月が一緒に上昇するように。

主チャイタンニャの栄光があまり知られていない西洋世界においては、人は「クリシュナ・チャイタンニャとは誰ですか?」と問うかもしれません。その問いに対する返答としての霊的な結論は、主は至高の人格神であるというものです。一般に、ウパニシャッドにおいては至高の完全真理は非人格的に描写されていますが、完全真理の人格的な側面はイーショパニシャッドにおいて言及されています。そこでは、あまねく行き渡るものの描写のあと、次のような詩節を見つけることができます。

hiraṇmayena pātreṇa
satyasyāpihitaṁ mukham
tat tvaṁ pūṣann apāvṛṇu
satya-dharmāya dṛṣṭaye

「おお、我が主よ。すべての生きとし生けるものを養う方よ。あなたのお顔はあなたの目のくらむような光輝によっ て覆われています。どうかその覆いを取り去り、あなたご自身をあなたの純粋な献身者に見せてくださ い。」(シュリー・イーショパニシャッド、マントラ15

非人格主義者は、神の光輝の向こうまで行って、そしてその光輝の源である人格に至るための力を持ちません。

イーショパニシャッドは、至高人格神を讃える祈りです。非人格的なブラーマンが否定されているのではありません。そのブララマンは主チャイタンニャの体の目もくらむような光輝であると考えられています。言い換えると、クリシュナ・チャイタ ンニャが非人格的なブラフマンの源なのです。すべての生命体の心臓の中と宇宙のすべての原子の中に存在するパラマートマ、すなわち超魂は、単にチャイタンニャの部分的な表れに過ぎません。したがって、クリシュナ・チャイタンニャはブラーマンの源であり、至高の人格神でもあるのです。至高神として、主は富、名声、力、美、知識、および放棄という6つの完璧さに満ちています。要するに、私たちは主はクリシュナであり、そして主と同等のものや主に優るものは何もないということを知るべきです。主は至高人格神なのです。

チャイタンニャから十日間以上も教え授かった親密な献身者であるルーパ・ゴスヴァーミーは、次のように書いています。

namo mahā-vadānyāya
kṛṣṇa-prema-pradāya te
kṛṣṇāya kṛṣṇa-caitanya-
nāmne gaura-tviṣe namaḥ

「私は至高主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャに心から尊敬の礼を捧げます。主は他のどのアヴァターラよりも、クリシュナご自身よりも寛大でいらっしゃいます。他の誰も決して与えなかったもの、すなわちクリシュナへの純粋な愛を無償で授けていらっしゃるからです。」

主チャイタンニャの教えは、クリシュナに服従するところから始められます。主はカルマ・ヨガやジニャーヤ・ヨガやハター・ヨガの道を追い求めることはなさいません。物質存在の最後、人がすべての物質的な執着を放棄する時点からはじめるのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは魂を物質から区別するところから始められ、18章で魂が主に献身において服従するところで終わられました。マーヤーヴァーディーたちはそこですべての話をやめますが、その時点が本題の始まりなのです。ヴェダーンタ・スートラの最初の詩節は次のとおりです。アタートーブラフマ・ジジニャーサー。「今こそ、最高の絶対真理について問い始めましょう。」
このように、ルーパ・ゴスヴァーミーは主チャイタンニャをすべての化身の中でも最も気前の良い化身であると賞賛します。主は献身奉仕の最高の形を示すことで最もすばらしい贈り物を下さるからです。言い換えると、主は人が尋ねうる最も重要な問いに答えてくださるのです。

献身奉仕と神認識には、異なる段階があります。厳密に言うと、神の存在を認める者は誰でも献身奉仕に位置します。神が偉大であると認めることは、それほど大したことではありません。偉大な教師であるアーチャーリャとして布教していたチャイタンニャは、私たちが神との関わりを持って実際に神の友人になることができると教えました。バ ガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにご自分の普遍的な姿をお見せになりました。アルジュナは主の「とても親愛 なる友人」だからです。しかし、宇宙の主としてのクリシュナを見て、アルジュナは実際に、クリシュナに自分の友情のくだけた親しさを許してくれるように頼みました。チャイタンニャはこの先へ行きます。主チャイタンニャを通して、私たちはクリシュナと友人になることができます。そして、この友情には限りがありません。私たちは、畏敬や憧憬によるのではなく、完全な自由においてクリシュナの友人になれます。私たちは主の父として神と 関わることができます。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの哲学であるだけでなく、シュリマッド・バーガヴァタムの哲学でもあります。世界には、神が献身者の息子として扱われている聖典は他にありません。普通は、神は主の息子たちの要求を満たす万能の父とみなされます。しかし、偉大な献身者は時として、献身奉仕を遂行するにあたって神を息子として扱います。息子が要求し、父が与え、そしてクリシュナに与えることで献身者は父のようになります。神から取る代わりに、私たちは神に与えるのです。クリシュナの母ヤ ショダーが主に「ほら、これを食べなさい。食べないと死んでしまいますよ。ちゃんと食べなさい」とおっしゃったのは、この関係においてでした。このようにして、クリシュナはすべてのものの所有者であるにも関わらず、ご自分の献身者の慈悲に頼るのです。これは比類なく高度な友情です。それにおいて、献身者は実際に自分がクリシュナの父であると信じるのです。

しかし、主チャイタンニャの最も偉大な贈り物は、クリシュナが実際に人の恋人として扱われうるという教えでした。この関係において、あまりにも執着しているので、主は自分の恩に報いる能力の欠如を表明なさいました。クリシュナはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちであるゴーピーたちにあまりにも感謝していたので、彼女 たちの愛を返すことができないと考えておられました。「私はあなたたちの愛にお返しをすることができません」と主はおっしゃいました。「私にはもはや返すものがありません。」このように、献身奉仕はこの素晴らしい水準において行われ、そしてクリシュナとの恋人同士としての関係という知識はチャイタンニャ・マハープラブによって与えられました。それは以前のどの化身、あるいはアーチャーリャによっても与えられませんでした。クリシュナダーサ・カヴィラージャは、ルーパ・ゴスヴァーミーが書いた本を引用して、第4節に次のように書いています。「献身奉仕それこそが、あなたが与えてくだだった最高の水準、栄えある水準です。あなたは黄色の肌色をしたクリシュナです。そしてあなたはシャチーナンダナ、母シャチーの息子です。チャイタンニャ・チャリタームリタを開く者は、その心にあなたを保ちます。あなたを通してクリシュナを理解するのは簡単です。」このように、チャイタンニャ・ マハープラブはクリシュナへの純粋な愛を届けるためにいらっしゃいました。

私たちは、しばしば「至高神への愛」という言葉を耳にします。この至高神への愛が実際にどこまで発達できるかということ は、ヴァイシュナヴァ哲学から学ぶことができます。神への愛の理論上の知識は多くの場所と多くの聖典の中に見出され得ますが、その至高神への愛が実際には 何なのか、そしてそれがいかに発達されるかということが、ヴァイシュナヴァ文献には見出され得ます。チャイタンニャ・マハープラブによって与えられたのは、神への愛の独自で最高の発達なのです。

この物質世界においてさえ、私たちは少々の愛の感覚を持つことができます。これはどうやって可能でしょうか?それは至高神の中に見出される愛によるものです。この制約された人生の中での私たちの経験の中に私たちが見出す ものは何であれ、すべてのものの究極の源である至高主の中に位置しています。私たちの至高主との本来の関係の中に本当の愛があり、その愛 は物質的な状態を通して歪んで反映されます。私たちの本当の愛は継続的で終わりがありません。しかし、その愛がこの物質世界の中に歪んで反映されているの で、それは継続性に欠き、私たちを酔わせます。もしも私たちが本当の超越的な愛を欲するなら、私たちは自分の愛を至高の愛すべき対象、すなわち至高の人格神に移さねばなりません。これがクリシュナ意識の基本的な原則です。

物質的な意識においては、私たちは全く愛すべきでないものを愛そうとしています。私たちは自分の愛を犬や猫に与え、死のときに彼らのことを考えて、結果的に猫や犬の家族に生を受けるかもしれない危険を冒しています。それは死の間際の意識が次の人生を決定するからです。ヴェーダ聖典が女性の貞操の重要性を強調しているのはそのためです。女性が夫に愛着を抱くなら、死の間際に彼について考え、次の人生で男性の体を得るでしょう。男性は通常、精神科学を理解するためのより良い施設を持っているため、男性の人生は女性の人生よりも優れています。

しかし、クリシュナ意識は男女を区別しません。バガヴァッド・ギーター(9.32)でクリシュナは言う:「プリターの子よ、たとえ低い生まれでも――即ち、女、商人、労働者さえも――私に保護を求めるならば至高の目的地に達する。」クリシュナ自身がこれを約束しています。

チャイタンニャ・マハープラブは、すべての国とすべての聖典の中に至高神への愛のいくらかのヒントがあるとお教えになります。不幸にして、至高神への愛が実際に何なのか、誰も知りません。しかしヴェーダ文献は、神を愛するための正しい方向 へ個人を導くことができるという点で異なります。他の聖典は、どうやって人が神を愛することができるかということに関する情報を与えず、また、至高神とは 実際に何か、あるいは誰かということを実際に定義したり描写したりもしません。彼らは公式には至高神への愛を推し進めていますが、彼らは それをどうやって実行するかということについては何の考えもありません。しかしチャイタンニャ・マハープラブは、恋人同士の関係においていかに神を愛するかということの現実的な実証を与えてくださいます。ラーダーラーニーの役割を演じて、チャイタンニャはラーダーラーニーがクリシュナを愛したように主を愛そうとなさいます。クリシュナはいつもラーダーラーニーの愛に驚嘆していました。ラーダーラーニーを理解するために、クリシュナは彼女の役割で生き、ご自分自身を理解しようとなさいました。これが主チャイタンニャの化身の秘密です。 チャイタンニャはクリシュナですが、主は私たちにいかにしてクリシュナを愛するかを見せるために、ラーダーラーニーの役割をお取りになりまし た。そのため、著者は第5節目で次のように書いています。「私はラーダーラーニーのことを考えて夢中になっていらっしゃる至高主に心からの敬意を捧げます。」

これは、ラーダーラーニーが誰でクリシュナが何であるか、という問いを生じさせます。実際には、ラーダークリシュナは愛の交換です。これは普通の愛ではありません。クリシュナは計り知れない力をお持ちであり、その中で内的、外的、および境界的という3つが主要なものです。内的な力には三つの部分があります。サムヴィット、フラーディニー、サンディニーです。フラーディニーの力は喜びの力です。すべての生命体は、この、喜びを求める力を持っています。すべての存在は喜びを持とうとしているからです。これは生命体の本質的な性質です。現在は私たちはこの物質的な状態の中で、体という手段によって自分の喜びの力を楽しもうとしています。身体的な接触によって、私たちは物質的な感覚の対象か ら喜びを得ようと試みています。しかし私たちは、常に霊的であるクリシュナが私たちのようにこの物質的な水準において喜びを得ようとなさっていると考える べきではありません。クリシュナは物質的な宇宙を、悲惨さに満ちた非永遠なる場所、と描写なさいます。それではなぜ主が物質的な形において喜びを求めるべきでしょうか?主は超魂、至高の霊であり、主の喜びは物質的な概念を超えています。

クリシュナの喜びがいかに得られるかを学ぶためには、私たちはシュリマッド・バーガヴァタムの第9巻まで読んでからクリシュナの喜びの力がラーダーラーニーとヴラジャの乙女たちとの主の娯楽が書かれている第10巻を読まなければなりません。残念ながら、不合理な人々はすぐに第10巻のダシャマ・スカンダの中のクリシュナの娯楽に目を向けます。クリシュナがラーダーラーニーを抱擁なさったこと や、ラーサの踊りでクリシュナが牛飼いの娘たちと一緒に踊られたことは、一般には普通の人々によっては理解されません。彼らはこれらの娯楽を俗世の欲望の光の中で考えるからです。彼らはクリシュナが自分たちのようなものであると、そして主はゴピーたちを普通の男が若い娘を抱擁するように抱擁なさるのだと誤解しています。こうして一部の人々はクリシュナに興味を持ちます。主の宗教は性交にふけることを許すと彼らは考えるからです。これはクリシュナ・バクティ、クリシュナへの愛ではなく、プラクリタ・サハジャ、すなわち物質的な欲望です。

このような誤りを避けるために、私たちはラーダークリシュナが本当は何であるのかを理解すべきです。ラーダーとクリシュナは、クリシュナの内的な力を通し て彼らの娯楽を表されます。クリシュナの内的なエネルギーの喜びの力は最も難しい主題であり、クリシュナが何であるかを理解しない限り、人はそれを理解す ることはできません。クリシュナはこの物質的な世界の中では何の喜びも経験なさいませんが、主は喜びの力をお持ちです。私たちは主の欠かすべからざる一部であるため喜びの力は私たちの中にも存在します。しかし、私たちはその喜びの力を物質の中で表わそうとしています。しかしクリシュナはそのような無駄な努力はなさいません。クリシュナの喜びの力の対象はラー ダーラーニーです。主はご自分の力、ご自分のエネルギーをラーダーラーニーとして明らかにし、彼女との恋愛関係で楽しみます。言い換えると、クリシュナはこの外的なエネルギーの中では喜びを経験なさいませんが、ご自分の内的エネルギー、喜びの力をラーダーラーニーとして明らかにします。主の多くの分身、拡張体、および化身の中で、この喜びの力が最も主要です。

ラーダーラーニーがクリシュナから離れた存在であるというわけではありません。ラーダーラーニーもまたクリシュナです。エネルギーとエネルギーの源に違いはな いからです。エネルギー無しではエネルギーの源には何の意味もなく、エネルギーの源がないとエネルギーは存在しません。同様に、ラーダー無しではクリシュナには何の意味もなく、クリシュナ無しではラーダーには何の意味もありません。このため、ヴァイシュナヴァ哲学はまず至高主の内的な喜び の力に敬意を捧げ、崇拝します。したがって、主と主の力はいつもラーダー・クリシュナとして呼ばれます。同様に、ナーラーヤナの名前を崇 拝する人々は、ラクシュミー・ナーラーヤナと言って、まずラクシュミーの名前を口にします。同様に、主ラーマを崇拝する人々は、まずシーターの名前を口 にします。シーター・ラーマ、ラーダー・クリシュナ、ラクシュミー・ナーラーヤナのいずれであっても、力は常に最初です。

ラーダーとクリシュナは一つであり、クリシュナが喜びを楽しみたいと欲するとき、主はご自分をラーダーラーニーとして顕現なさいます。ラーダーとクリシュナの間の愛の霊的な交換は、クリシュナの内的な喜びの力の実際の表れです。私たちはクリシュナが欲する「とき」について語りますが、主が実際にいつ欲されたかについては、私たちは言うことはできません。私たちは、制約された人生においてはすべてのものに始まりがあると考えるために、このように語るのです。しかし、完全な、あるいは霊的な人生では、始まりも終わりもありません。にも関わらず、ラーダーとクリシュナが一つであるということと、彼らが分かれることを理解するために、「いつ?」という問いが自動的に私たちの心に浮かびます。クリシュナがご自分の喜びの力を楽しもうと欲されたとき、主はご自分をラーダーラーニーという離れた形に顕現なさり、主がラーダーという媒体を通してご自分を理解したいと欲されたとき、主はラーダーラーニーと合体し、その合体が主チャイタンニャと呼ばれます。これはすべて、クリシュナダーサ・カヴラージャがチャイタニャ・チャリタムリタの第5節目で語っていることです。

次の詩で、著者はさらに、なぜクリシュナはチャイタンニャ・マハープラブの姿をとられたのでしょうか?それはクリシュナがラーダーの愛の栄光を知りたいと欲されたからだと説明されています。「なぜ彼女はそれほどまでにも私を愛しているのだろう?」とクリシュナは問いました。「彼女をそれほど惹きつける私の特別な性質とは何だろう?そして、彼女が私を愛する実際のあり方とは何だろう?」至高存在であるクリシュナが誰かの 愛によって魅了されるというのは奇妙に見えます。私たちは不完全で何かを欠いているため、女性や男性の愛を捜し求めます。女性の愛、その力と喜びは、男性には欠けてます。したがって男性は女性を求めますが、これはご自分で完全であるクリシュナの場合にはあてはまりません。こうしてクリシュナは驚きを表されました。「なぜ私はラーダーラーニーによって魅了されるのだろう?そして、ラーダーラーニーが私への愛を感じるとき、彼女は実際に何を感じているのだろう?」その愛情ある交換の真髄を味わうために、クリシュナはちょうど月が海の水平線に現れるよ うにお現れになりました。月が海を攪拌することによって作られたように、霊的な愛の交換の攪拌によって、チャイタンニャ・マハープラブという月が現れまし た。実に、チャイタンニャの肌色はちょうど月のように金色でした。これは比喩的な表現ではありますが、それはチャイタンニャ・マハープラブの顕現の背後の意味を伝えています。主の現れの完全な重要性は後の章で説明されます。

主チャイタンニャに敬意を捧げたあとで、クリシュナダーサ・カヴィラージャ は次にニテャーナンダに敬意を捧げます。彼は、ニテャーナンダはマハー・ヴィシュヌの源であるサンカルシャニャの顕現である、と説明なさいます。クリシュナの最初の顕現はバララーマとしてであり、次にサンカルシャニャ、そしてサンカルシャニャの後は主はプラデュヌマとして顕現なさいます。このように して、非常に多くの拡張体が現れます。多くの拡張体が存在しますが、ブラーマ・サムヒターに確認されているように、主シュリー・クリシュナが源です。主は、それから何千何万ものロウソクが灯される、もともとのロウソクのようなものです。いくらでもロウソクが灯され得ますが、もともとのロウソクはそれでも 源としての主体性を保ちます。このようにしてクリシュナはご自分を非常に多くの光に拡張なさいます。そしてこれらの拡張体はヴィシュ ヌ・タットヴァと呼ばれます。ヴィシュヌは大きな光であり、私たちは小さな光です。しかし、すべてはクリシュナの拡張体です。

物質宇宙を作る必要があるとき、ヴィシュヌはご自分をマハー・ヴィシュヌとして拡張なさいます。このマハー・ヴィシュヌは因 果の海に横たわり、ご自分の鼻腔からすべての宇宙を吐き出します。こうして、マハー・ヴィシュヌと因果の海からすべての宇宙が生まれ、これらの宇宙のすべ ては因果の海に浮かびます。このことに関して、ヴァーマナの話があります。主が三歩歩いたとき、主の足が宇宙の覆いを突き破りました。因 果の海からの水が、主の足が作った穴から流れました。そして、その水の流れがガンジス川になったと言われています。したがって、ガンジス川はヴィシュヌの 最も聖なる水として受け入れられており、ヒマラヤ山脈からベンガル湾までのすべてのヒンズー教徒によって崇拝されています。

 因果の海に横たわるそのマハー・ヴィシュヌは、実際はクリシュナの最初の拡張体であってヴリンダーヴァンの娯楽ではクリシュナの兄であるバララーマの拡張体 です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレというマ ハー・マントラの中のラーマという語はバララーマを指します。ニテャーナンダはバララーマの拡張体であるので、ラーマは主ニテャーナンダとも呼ばれます。このように、ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマは、クリシュナとバララーマだけでなく、主チャイタンニャとニテャーナンダも指します。

チャイタンニャ・チャリタームリタの主題は、主にこの物質創造を超えたものに関わっています。宇宙の物質的な広がりはマーヤーと呼ばれます。それは永遠なる存 在性を持たないからです。それは時として顕現しており、別のときには非顕現であるので、幻想的であると見なされます。しかし、この一時的な顕現の向こうに は、バガヴァッド・ギーターに示されているように、より高位なる自然があります。

paras tasmāt tu bhavo ’nyo
’vyakto ’vyaktāt sanātanaḥ
yaḥ sa sarveṣu bhūteṣu
naśyatsu na vinaśyati

「だがこの顕現、未顕現の現象を超えて、別の永遠な非顕現自然が実在する。それは至上高にして不滅。この世界のすべてが消滅してもそのまま残る。」(バガヴァッド・ギーター8.20)

その至高の自然は顕現(ヴャクタ)と非顕現(アヴャクタ)を超えています。創造と滅亡のどちらをも超えた、この優位なる自然は、すべての生命体の体の中 に現れている生命力です。体そのものは、劣性なる自然である物質によって構成されています。しかし、体を動かしているのは優性なる自然です。その優勢なる自然のしるしは意識です。そのため、すべてが優勢なる自然によって構成されている霊的な世界においては、すべてが意識的です。物質世界において は、不活性な物体は意識的ではありませんが、霊的な世界においてはその限りではありません。そこではテーブルが意識的であり、地面が意識的であり、木々が意識的であり、すべてが意識的なのです。

この物質的な顕現がどこまで広がっているかを想像するのは可能ではありません。物質的な世界では、すべてが想像あるいは何からの不完全な方法によって計算されますが、ヴェーダ文献は物質的な宇宙の向こうにあるものに関して情報を与えています。実験的な知識を信じる者たちは、ヴェーダの結論を疑うかもしれません。彼らはこの宇宙がどこまで広がっているかを計算することさえできず、宇宙そのものの中で遠くまで足を伸ばすこともできないからです。実験的な方法によっては、この物質自然を超えたところにあるいかなるものに関しても情報を得ることはできません。私たちの知覚の力を超えているものは、アチンテャ、すなわち知覚できないもの、と呼ばれます。知覚できないものについて議論したり推察したりするのは無駄です。もしもそれが本当に知覚できないなら、それは推察や実験の影響の下にはありません。私たちのエネルギーは限られており、私たちの感覚知覚は限られています。したがって、私たちは知覚できない主題に関してはヴェーダの結論に依り頼まねばなりません。優性なる自然に関する知識は、単に議論することなく受け入れられ なければなりません。私たちが全くアクセスを持たない何かについて議論することがどうして可能でしょうか?超越的な主題を理解するための方法は、主クリシュナご自身によってバガヴァッド・ギーターの中で与えられています。そこでクリシュナはアルジュナに4章の始めでおっしゃいます。

imaṁ vivasvate yogaṁ
proktavān aham avyayam
vivasvān manave prāha
manur ikṣvākave ’bravīt

「私はこの不滅のヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれ を人類の父であるマヌに教え、マヌはそれを次にイクシュヴァークに教えました。」(バガヴァッド・ギーター4.1)

これはパラムパラー、すなわち師弟継承の方法です。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、クリシュナは宇宙の中で最初の創造された生物であるブ ラーマーの心臓に知識を授けました。ブラーマーはこれらの教えを自分の弟子ナーラダに授け、ナーラダはその知識を自分の弟子ヴャーサデヴァに授けました。ヴャーサデヴァはそれをマドフヴァーチャーリャに授け、そしてマドフヴァーチャーリャからその知識はマーダーヴェンドラ・プリーへ、イーシュヴァラ・プリーへ、そして彼からチャイタンニャ・マハープラブへと伝わります。

人は、もしもチャイタンニャ・マハープラブがクリシュナご自身であるなら、なぜ主は霊的指導者を必要としたのか、と問うかもしれません。もちろん、主は霊的 指導者を必要としてはいませんでした。しかし主はアーチャーリャの役割を演じておられたので、霊的指導者を受け入れられました。クリシュナご自身でさえ、霊的指導者を受け入れられました。それがシステムだからです。このようにして主は人々に模範を示されます。しかし、私たちは主が知識を欲しているから霊的指導者を受け入れるのだと考えるべきではありません。主は単に師弟継承を受け入れることの重要性を強調していらっしゃるのです。その師弟継承の知識は、実際は主ご自身より来ています。そして、もしもその知識が壊れることなく授けられるなら、それは完璧です。私たちはその知識を最初に授けたもともとの人格と直接関わってはいないかもしれませんが、私たちはこの伝達のプロセスを通して同じ知識を受け取ることができ ます。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、完全真理であり至高の人格神であるクリシュナが超越的な知識をブラーマーのハートに伝達なさったと述べられて います。それでは、このハートを通してという方法は、知識が受け取られるための一つの方法です。このように、人が知識を受け取るには二つ の方法があります。一つは、すべての生命体のハートの中に超魂として鎮座しておられる至高の人格神に頼るものであり、もう一つはクリシュナの拡張体であるグ ル、すなわち霊的指導者に頼るものです。こうしてクリシュナは情報を内と外の両方から伝えられます。私たちは単にそれを受け取らねばなりません。もしも知識がこのようにして受け入れられるならば、それが知覚できないものであるかどうかは関係ありません。

シュリマッド・バーガヴァタムには、物質的な宇宙を越えたところにあるヴァイクンサの天体系について多くの情報が与えられています。同様に、チャイタニャ・チャリタームリタには多くの知覚できない情報が与えられています。実験的な知識を通してこの情報に到達しようとするいかなる試みも可能ではありません。知識は単に受け入れられなければなりません。ヴェーダの方法によれば、シャブダ、すなわち超越的な音が証拠として取り扱われています。ヴェーダ的な理解においては、音は非常に大切です。もしもそれが純粋ならば、それは権威あるものとして受け入れられます。物質世界においてさえ、私たちは電話やラジオによって何千キロもの距離を送られてきた大量の情報を受け入れます。このようにして、私たちは日常の暮らしにおいて音を証拠として受け入れます。たとえ情報提供者を見ることができなくても、私たちは音に基づいて彼の情報を信頼の置けるものとして受け入れます。音の振動は、ヴェーダの知識を伝達する上で大変重要です。

ヴェーダは私たちに、この宇宙の顕現の向こうには莫大な数の天体と霊的な空があると教えます。この物質的な顕現は、創造全体の小さな部分に過ぎないものであると見なされています。物質的な顕現は、この宇宙だけでなく他の無数の宇宙をも含みます。しかし、すべての物質的な宇宙を合わせても、創造全体の小さな一部にしかなりません。創造の大部分は霊的な天空にあります。その天空の中に無数の惑星が浮か び、これらはヴァイクンターロカと呼ばれます。すべてのヴァイクンターロカでは、ナーラーヤナが4本の腕のある拡張体、すなわちサンカルシャナ、プラデュ ムナ、アニルッダーおよびヴァースデヴァの形で支配しておられます。チャイタニャ・チャリタムリタの第8節目でクリシュナダーサ・カヴラージャによるとサンカル シャナは主ニティアナンダです。

前述のように、物質宇宙はマハー・ヴィ シュヌの形をとった主によって創造されました。夫と妻が交わって子供をもうけるように、マハー・ヴィシュヌはご自分の妻であるマーヤー、すなわち物質自然 と交わります。これもバガヴァッド・ギーターで確認されており、そこでクリシュナは次のようにおっしゃいます。

sarva-yoniṣu kaunteya
mūrtayaḥ sambhavanti yāḥ
tāsāṁ brahma mahad yonir
ahaṁ bīja-pradaḥ pitā

「おお、クンティーの息子よ。すべての種類の生命は、この物質自然に生まれさせられ、そして私が種を与 えた父であると理解されるべきです。」(バガヴァッド・ギーター14.4)

ヴィシュヌは、単にマーヤー、すなわち物質自然をちらりと見ることによって彼女をはらませました。これが霊的な方法です。物 質的には、私たちは自分たちの体の特定の一部だけによって妊娠させられるという限界がありますが、至高主、クリシュナ、あるいはマハー・ヴィシュヌは、ど の部分を使っても、そしてどの部分をもはらませることができます。単にちらりと見ることによって、主は物質自然の子宮の中に無数の生命体をはらませることができます。ブラーマ・サムヒターもまた、至高主の霊的な体は非常に強力なので、その体のいかなる部分も他のあらゆる部分の機能を果たすことができると確認しています。私たちは自分の手や肌でしか触ることができませんが、クリシュナは単にちらっと見ることで触ることができます。私たちは目でしか見ることができません。私たちは目で触ったり匂いをかいだりすることはできません。しかし、クリシュナはご自分の目で匂いをかぐことも食べることもおできになります。クリシュナに食べ物が捧げられるとき、私たちは主が召し上がるのを見ることはできません。しかし主は単に食べ物をちらっと見ることだけで食べることがおできになるのです。私たちは、ありとあらゆるものが霊的である霊的世界において物事がどのように機能するか、想像することができません。クリシュナが食べることをなさらないとか、主が召し上がるのだと私たちが想像するとか、そういうことではありません。主は実際に食事をなさいます。しかし、主の食べるという行為は、私たちのそれとは異なるのです。私たちの食事は、私たちが完全に霊的な水準に至ったときには主のそれと似通ってくるでしょう。その水準においては、体のすべての部位が他のすべての部 位の代わりに機能することができます。

ヴィシュヌは創造するために何も必要となさいません。主はブラーマーを誕生させるために女神ラクシュミーを必要とはなさいません。ブラーマーはヴィシュヌのヘソから育った蓮の花からお生まれになったからです。女神ラクシュミーはヴィシュヌの足元に座って主に奉仕なさいます。この物質世界においては、子供を作るためには性交が必要です。しかし霊的世界においては、人は自分の妻の助けを得ずに好きなだけたくさんの子供を作ることができます。私たちは霊的エネルギーを全く経験していないので、ヴィシュヌの臍からブラーマーが誕生したというのは単なる作り話だと考えます。私たちは、霊的エネル ギーはとても強力なのでそれはどんなことでもできる、ということに気づいていないのです。物質的なエネルギーは特定の法則に依存していますが、霊的なエネ ルギーは完全に独立しています。

ブラーマーは、マハー・ヴィシュヌの部分的な顕現に過ぎないガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌのヘソからお生まれになりました。マハー・ヴィシュヌの肌の毛穴の中に無数の宇宙が種のように存在しており、主が息を吐くときそれらはすべて顕現します。物質世界では、私たちはそのようなことを全く経験しません。しかし私たちは発汗という現象の中で歪んだ反映を経験します。しかし、私たちはマハー・ヴィシュヌの一回の息の長さを想像することはできません。一回の息の中ですべての宇宙が作られ、滅ぼされるからです。主ブラーマーは一回の息の間だけ生きます。そして私たちの時間によれば43億2千万年がブラーマーの12時間にあたるに過ぎず、ブラーマーは100年生きま す。それにも関わらず、ブラーマーの一生はマハー・ヴィシュヌの一回の息の中に納まるのです。このように、至高主の息の力を想像することは私たちには可能 ではありません。そのマハー・ヴィシュヌは単にクリシュナの部分的な顕現に過ぎません。これはチャイタニャ・チャリタムリタの第9節目でクリシュナダーサ・カヴラージャが述べています。

第10〜11節目でクリシュナダーサ・カヴラージャはガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとクシーロダシャーイー・ヴィシュヌ 、次々に続くマハーヴィシュヌの部分的な現れについて述べています。ブラフマーは、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの臍から成長する蓮から現れ、その茎には多くの惑星系があります。ブラフマーは後に人間、動物、その他すべてを創造しました。クシーロダシャーイー・ヴィシュヌは、制御者であり維持者です。すべての宇宙の乳海に横たわっており、ブラフマは創造、ヴィシュヌは維持、シヴァはすべてを破壊します。

チャイタニャ・チャリタムリタの第11節で、クリシュナダーサ・カヴラージャ・ゴースヴァーミーは、主チャイタニャがシュリー・クリシュナ自身であり、最高人格神であり、主ニテャーナンダがバララーマであると述べています。第12節と第13節で主チャイタンニャ・マハープラブのもう一人の主要な弟子であるアドヴァイターチャーリャは、マハー・ヴィシュヌの拡張体であるとして受け入れられています。このように、アドヴァイターチャーリャも主であり、主の拡張体です。アドヴァイタという単語は二重性がないということを意味し、彼がそのような名前であるのは、彼が至高主と異ならないからです。彼はまた、アーチャーリャとも 呼ばれます。彼はクリシュナ意識を広めたからです。このように、彼はちょうどチャイタンニャ・マハープラブのようなものです。チャイタンニャはシュリー・クリシュナご自身でありながら、一般の人々にいかにしてクリシュナを愛するかを教えるために献身者としてお現れになります。同様に、アドヴァイターチャーリャはただクリシュナ意識の知識を配布するためだけにお現れになりました。このように、彼もまた、献身者として化身なさった主でいらっしゃいます。

主チャイタンニャの娯楽において、第14節では、クリシュナは五つの異なる拡張体として顕現なさり、主と主の仲間たちのすべては、 シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ、ニテャーナンダ、アドヴァイターチャーリャ、ガダーダーラ、シュリーヴァーサおよび他の人々の形をとって、至高主 の献身者としてお現れになりました。と、述べられています。 どの場合でも、チャイタンニャ・マハープラブはご自分のすべての献身者にとってエネルギーの源です。このようなわけで、もしもクリシュナ意識をうまく遂行するためにチャイタンニャ・マハープラブに依り頼めば、私たちは必ず進歩することができます。ナロッタマ・ダーサ・タークラによる献身歌の一つには、次のように歌われています。「我が親愛なる主チャイタンニャよ。どうぞ私に慈悲を賜りますように。あ なたほど慈悲深い方はいらっしゃいません。私の嘆願は緊急を要します。あなたの使命は堕落した魂を救うことであり、私より堕落した者はいないからです。ど うぞ私を優先してください。」

チャイタンニャ・チャリタームリタの著者、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、ヴリンダーヴァンの住人であり、偉大な献身者でした。彼はベンガルのブルドワン地域のカトワという小さな町に家族と一緒に住んでいました。彼の家族もまたラーダー・クリシュナを崇拝していましたが、あるとき、献身奉仕について家族の間で何らかの意見の食い違いがあり、 クリシュナダーサ・カヴィラージャは夢でニテャーナンダ・プラブに家を出てヴリンダーヴァンに行くように助言されました。彼は非常に年取っていましたが、その夜に出発して、ヴリンダーヴァンに行って住みました。そこにいた間に、彼は何人かのゴスヴァーミーたち、主チャイタン ニャ・マハープラブの主要な弟子たちに会いました。彼はヴリンダーヴァンの献身者たちにチャイタンニャ・チャリタームリタを書くように頼まれました。彼は非常な高齢でこの仕事を始めましたが、主チャイタンニャの恵みによってこれを終えました。今日なお、これはチャイタンニャの哲学と人生に関する最も権威ある本であり続けています。

クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーがヴリンダーヴァンに住んでいたときは、寺院はあまり多くありませんでした。当時はマダナ・モハナ、ゴヴィンダジー、およびゴピーナーターが3つの主要な寺院でした。ヴリンダーヴァンの住人として、彼はこれらの寺院の神像に敬意を捧げ、神の恩寵を乞いました。「霊的な人生における私の進歩は大変遅々としています。どうか 助けてください。」チャイタンニャ・チャリタームリタの第15節で クリシュナダーサはまず、私たちがクリシュナ意識において進歩できるように助けることのできるマダナ・モハナのヴィグラハ神に敬意を捧げます。クリシュナ意識の遂行において、私たちの最初の仕事は、クリシュナおよび私たちの主との関係を知ることです。クリシュナを知ることは自己を知ることであり、 自己を知ることは自分のクリシュナとの関係を知ることです。この関係は、マダナ・モハナのヴィグラハを崇拝することによって学ばれ得るので、 クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはまずヴィグラハ神との関係を確立なさいます。

これが確立されると、第16節でクリシュナダーサは機能的な神像であるゴヴィンダの崇拝を始めます。ゴヴィンダは永久にヴリンダーヴァンにお住まいになります。ヴリンダー ヴァンの霊的な世界では、建物は試金石でできていて、牛は豊富な乳を出すスラビー牛として知られ、木は何でも人の望むものを実らせるので「望みを叶える木」として知られています。ヴリンダーヴァンでは、クリシュナはスラビー牛たちを飼い、主は何百何千ものゴピー、すなわち牛飼いの娘たちに崇拝されています。彼女らは皆、幸運の女神です。クリシュナが物質世界に降臨なさるとき、この同じヴリンダーヴァンが降臨します。ちょうど側近が名士に同伴するようなものです。クリシュナがおいでになるときに主の国も来るので、ヴリンダーヴァンは物質世界に存在しているとは考えられません。したがって、献身者たちはインドのヴリンダーヴァンに依り頼みます。それはもともとのヴリンダーヴァンの複製だと考えられているからです。そこにはカルパ・ヴリクシャ、すなわち「望みを叶える木」がない、と人は文句を言うかもしれませんが、ゴスヴァーミーたちがそこにいたときはカルパ・ヴリクシャがありました。人が単にそのような木のところへ行って要求をするというのではありません。人はまず献身者にならねばなりません。ゴスヴァーミーたちは、木の下で一晩だけ過 ごし、木々は彼らの望みのすべてを満たします。俗人にとっては、これは全く非常にすばらしいことに見えるかもしれませんが、人が献身奉仕において発達する につれて、これらのことのすべては理解できるようになります。

ヴリンダーヴァンは、物質的な楽しみから喜びを得ようとすることをやめた人々によって、実際にありのままに経験されます。「いつ私の心から物質的な楽しみへのすべての渇望が消え去るのですか?そうすれ ば私はヴリンダーヴァンを見ることができるのです」と、ある偉大な献身者は尋ねます。私たちがもっとクリシュナ意識になってもっと発達す れば、それにつれてすべては霊的なものとしてもっと明らかにされます。こうして、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはインドのヴリンダー ヴァンを霊的世界にあるヴリンダーヴァンと同じくらい良いものだと考え、彼はチャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、ラーダーラーニーとクリシュナが ヴリンダーヴァンの「望みを叶える木」の下で、貴重な宝石で飾られた玉座に座っていらっしゃる様子を描写しています。そこでは、クリシュ ナの愛しい友人たち、すなわち牛飼いの少年たちとゴピーたちが、歌ったり踊ったり、ベテルナッツ(ビンロウの実)と軽食を捧げたり、主なるお二人を花で 飾ったりして奉仕しています。今日でさえ、インドでは7月から8月には人々は王座を飾ってこの様子を再現します。普通は、そのときには人々はヴリンダーヴァンに 行って、その地の神像に敬意を捧げます。

最後に、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主ゴーピーナータの御名によって読者に祝福を捧げます。クリシュナがフルートを演奏したとき、すべての牛飼いの少女たちは笛の音に魅了され、家事を辞め、主は彼女らと踊られました。これらの活動は、すべてシュリマッド・バーガヴァタムの10巻に描写されています。これらのゴーピーはクリシュナの子供時代の友人たちでした。そして彼女らは皆結婚していました。インドでは女の子たちは12歳までには結婚しているからです。しかし、男の子たちは18歳前には結婚しません。したがって、その頃15歳か16歳だったクリシュナは結婚していませんでした。それにも関わらず、主はこれらの女の子たちを家から呼び出し、ご自分と一緒に踊るように誘いました。その踊りはラーサ・リーラーの踊りと呼ばれており、それはすべてのヴリンダーヴァンの娯楽の中で最も高位なものです。したがって、クリシュナはゴピーナーターと呼ばれています。

クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主ゴピーナーターの恵みを請願します。「あのゴピーナーター、ゴピーたちの主、クリシュナがあなたを祝福してくださるように。」チャイタンニャ・チャリタームリタの著者は、主がご自分の超越的な振動 によって同じく読者の心をも魅了なさることを祈ります。

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