No edit permissions for Japanese

第87章

ヴェーダ権化の祈り 

パリークシット王は超越者を理解する上で非常に重要な点についてシュカデーヴァ・ ゴースワーミーに質問しました。 「一般に、ヴェーダ知識は物質界の三様式について述顎へるものであるのに対し、超越 者は物質自然の三様式を越えています。したがって、ヴェーダ知識がいかにして超越者 こころ について語ることができるでしょうか。思惟も言語表現も物質的なものです。その二つ によって表わされるヴェーダ知識によって、いかにして超越者に近づくことができる のでしょうか。特定の話題について議論する際には、それがどこから現われたか、いか なる質を持つのか、そして、どのようなふるまいをするのかについて話すことが必要で こころ す。それについて語るには物質的な思惟の働きや言語表現を使わざるを得ません。ブラ フマン(絶対真理)には物質的な質はまったくありませんが、私たちの言語表現は物質 的な質を超越することができません・ですから、ブラフマン、すなわち絶対真理がどう して御身の言葉によって表現でき得るのでしょうか。物質的な言語表現によって、いか にして超越者を理解することができるのでしょうか」

マハーラージ・パリークシットがシュカデーヴァ・ゴースワーミーにこのように尋ね た目的は、最終的にはヴェーダが絶対真理を人格的存在としているのか、それとも非人格的存在としているのかを明らかにするためです。絶対真理の理解には三段階ありま す。まず最初は、非人格的ブラフマンの悟り、次にすべての者の心臓の中にいるパラマー トマーの悟り、そして最終的にはバガヴァーン。クリシュナの悟りです。

ヴェーダ文典では活動の三分野、すなわちカルマ・カーンダ(ヴェーダの教えにした がう活動で、それにしたがうことによって自分の真の立場が理解できるようになる)、 ジュニャーナ・カーンダ(思索的方法によって絶対真理を悟る道)、そして最終的にウパー デーヴア サナー・カーンダ(バガヴァーンもしくは神々を崇拝すること)が説かれています。ヴェー デーヴァ デーヴァ デーヴァ ダの中では神々の崇拝が奨められていますが、神々の崇拝を行なうには、神々とバガ ヴァーンの関係を理解することが必要です。バガヴァーンには様々な拡張体があり、そ の中にはスヴァーンシャ(直接的拡張体)とヴィビンナーンシャ(生命体)があります。 この両者はともに万物の根源なるお方バガヴァーンから現われ出たものです。スヴァー ンシャ拡張体はヴィシュヌ・タットヴァ、そしてヴイビンナーンシャ拡張体はジーヴァ・ デーヴア タットヴァと呼ばれ、様々な神々はジーヴァ・タットヴァに属しています。束縛された 魂は感覚満足を求めたがゆえに、物質界の活動の場に入れられました。「バガヴァッド・ デーヴア ギーター』に述べられているように、神々の崇拝は感覚満足に大いに執着している者た ちを規制するためのものです。たとえば肉食を非常に好む者たちに対しては、ヴェーダの教えによれば、女神カーリーの神像を崇拝しカルマ。カーンダの規匪にしたがって ヤギ(ヤギ以外の動物は認められなUをいけにえに捧げた後、その肉を食べることが 奨められています。それは肉食の奨励ではなく、制限された形で規定にしたがう肉食を デーヴァ 許可しているのです。このような形で神々を崇拝したとしても、それは絶対真理の崇拝 デーヴァ にはなりません。神々を崇拝する人は、直接的に至上主を崇拝しているのではなく、間 接的な過程を経過してバガヴァーンを受け入れる段階に向かって進んでいるのです。 このような形で間接的にバガヴァーンを受け入れることは『バガヴァッド・ギーター』 デーヴァ ではアヴイッデイ(非正統的な方法)であると述べられています。神々の崇拝は正統的 な崇拝ではないので、マーヤーヴァーディーたちは絶対真理の非人格的な様相に集中 することを強調しています。パリークシット王の質問はヴェーダ知識の最終的な目的 が何であるかを明らかにし、非人格的な様相と人格的な様相のいずれに集中すべきか を問うものです。主の人格的な様相も非人格的な様相も、私たちの物質的な知覚を越え ています。絶対真理の非人格的様相(ブラフマンの光輝)とはクリシュナの体から発せ られた光輝です。その光輝は主の創造界全体を照らしていますが、その中に物質的な雲 によって覆われた一部分があり、そこが物質的な三様式(サットヴァ、ラジャス、タマス) によって創造された物質宇宙です。この雲に陰った部分(物質界)に住む者がいかにして思索による方法で絶対真理を知覚することができるでしょうか。 

パリークシット王の質問に答えるにあたって、シュカデーヴァ・ゴースワーミーは、 こころ 生命体の思惟、感覚、生命力が二つの目的のためにバガヴァーンによって創られたとい うことを説いています。すなわち、それら三つは、輪廻転生を繰り返す中で感覚満足を 行なうためだけに存在するものではなく、物質的な束縛からの解放を達成する助けに こころ もなります。つまり思惟、感覚、生命力は、感覚満足を行なって、その結果、次から次へと 身体の転生を続けるだけではなく、解放達成のためにも使うことができるものなので す。ヴェーダの教えは束縛された魂に対して規定原則にしたがった形での感覚満足を 行ない、それによって、より高い生命の段階に到達する機会を与えるものです。そして、 最終的に意識が浄化されれば、本来の立場に戻って精神界に帰ることができるように なるのです。

生命力には知性があります。したがって、知性を使うことにより思惟と感覚の働きを こころ 支配しなければなりません・知性を正しく使うことによって思惟と感覚が浄化された こころ なら、束縛された魂は解放を達成することができます。逆に、知性の誤用により思惟と ほういつ 感覚が放逸になったなら、ただ感覚満足を求めて次から次へと輪廻転生を続けるのみ こころ です。シュカデーヴァ・ゴースワーミーの答えの中では、個々の生命力の思惟、感覚、知性が、特に主によって創造されたものだと強調されています。思惟、感覚、知性は創造さ れたものですが、生命体自身は被創造物ではありません。太陽光線の光の粒がいつも太 陽とともに存在するように、生命体はバガヴァーンの部分体として永遠に存在してい ます。束縛された魂は至上主の部分体として永遠に存在しているにもかかわらず、自分 おとしい が物質の体であるという生命観(すなわち無知の雲。闇)に陥れられる場合があります。 こころ ヴェーダ知識はその闇をしだいに打ち消すものです。そして、最終的に思惟と感覚が完 全に浄化された時、束縛された魂は本来の立場に戻ることができます。その本来の立場 こそがクリシュナ意識であり、その段階に達することが解放です。 

『ヴェーダーンタ・スートラ』の第一スートラ(節)では、「絶対真理の質とは何である か」と絶対真理に関しての問いが発せられています(アタートー・ブラフマ・ジジュニャー サ-)。そして、第二スートラでは、絶対真理が一切万物の根本であると答えられていま す。私たちがこの束縛された生活の中で経験する様々な事柄さえも、すべては絶対真理 こころ から現われ出たものです。思惟、感覚、知性が絶対真理から現われ出たものであるとい こころ うことは、絶対真理にも思惟、感覚、知性が存在することを示しています。つまり、絶対 真理は非人格的な存在ではないのです。「創造」という言葉自体が、絶対真理が超越的知 性の持ち主であることを物語っています。たとえば、父親には感覚があります。したがって、生まれた子供にも感覚があります。子供が手足を持(一て生まれてくるの催父親に 手足があるからです。人間は至上主の姿に似せて創られたと言われています。したがっ こころ こころ て絶対真理は、超越的な思惟、感覚、知性を持った最高人格者なのです。思惟、感覚、知性 けが が物質的な汚れを洗い落とした時、絶対真理の本来の人格的様相が理解できるようになるのです。

ヴェーダの方法にしたがうなら言束縛された魂はしだいに無知の様式から激情の様 式へと至り、そして激情の状態から徳の様式へと達することができます。この徳の様式 に到達すれば、十分な光に恵まれて、物事をありのままに理解できるようになります。 たとえば、地面から木が生え、木から火が現われます。木に火をつけた最初は煙だけし か出てきませんが、しだいに熱と光が現われてきます。そして火が十分に勢いづくと、 火を使って様々な仕事をすることができます。このように最終的に目的を果たすもの は火です。同じように、物質的な段階の生活をしている者たちの間には無知の様式が特 に目立っています。しかしながら粗野な段階から文化的な段階までしだいに教え導く ことによって、この無知を取り除くことが可能となります。文化的な生き方に達した人 は激情の様式にあるとされます。野蛮な段階、つまり無知の様式では、感覚はきわめて 粗野な方法で満足させられますが、激情の様式つまり文化的な生活では、洗練された方 法で感覚が満たされます。そして徳の様式に達したならば、思惟と感覚が物質的な動き ひず をするのは、その二つがただ歪んだ意識に覆われているからであることが理解できる ようになります。そしてこの歪んだ意識がクリシュナ意識にしだいに変わっていく時、 二ころ 解放の道が開かれるのです。したがって、思惟と感覚によって絶対真理に近づくことが けが こころ 不可能であるというのは誤りです。粗野な汚れの段階にある思惟・感覚・知性は絶対真 理の質を知覚することができませんが、それらが浄化された時、絶対真理が何であるか を理解できるようになります。その浄化の道が献身奉仕、すなわちクリシュナ意識なのです。

「バガヴァッド・ギーター』で明らかにされているように※ヴェーダ知識の目的はクリ シュナを理解することです。そしてクリシュナを理解する方法は献身奉仕であり、その 献身奉仕の第一歩は主に服従することです。「ハガヴァッド・ギーター』に述べられてい るように、いつもクリシュナを想い、クリシュナに愛情奉仕を捧げ、クリシュナを崇拝 し、そして常にクリシュナに尊敬の礼を捧げるべきです。ただこのような献身奉仕を行 なうことによってのみ、確実に至上主の王国に入って行くことができるのです。 

献身奉仕によって啓発されて徳の様式に入った人は、激情と無知の様式の影響を受 けません。「アートマンニェー」という語は、ウパニシャッド(ヴェーダ文典の一つ)を学ぶ資格を持つブラーフマナの段階を意味します。ウパニシャッドでは様々な方法で至 上主の超越的な質について述べられています。絶対真理である至上主はニルグナと呼 ばれますが、それは主がいかなる質もまったく持たないことを意味するものではあり ません。至上主が質を持つ存在でいらっしゃるからこそ、束縛された生命体にも質があ るのです。絶対真理である至上主が持っていらっしゃる超越的な質は、徳、激情、無知の 物質的な様式の対極にあります。そのような超越的な質を理解することがウパニシャッ ドを学ぶ目的であり、まさにそれこそがヴェーダの真の理解です。偉大な聖者サナカを 筆頭とする四人のクマーラたちは、ヴェーダ知識のその原則にしたがって、非人格的な 理解からしだいに至上主の人格的な崇拝の段階へと至ることができました。したがっ て、そのような偉大な聖者を崇拝することが奨められています。シュカデーヴァ・ゴー スワーミーもまたそのような偉大な人物の一人に数えられるので、マハーラージ・パリー クシットに対する彼の回答も権威あるものです。偉大な権威者の足跡にしたがう人は 解放の道を容易に歩むことができ、ついには精神界の主のもとへと帰ることができる のです。それが人間として生まれた使命を正しく遂行する方法です。

シュカデーヴァ・ゴースワーミーはマハーラージ・パリークシットに言葉を続けます。 「親愛なる王よ、このことに関して一つ良い物語がある。それはナーラーヤン・リシと偉大な聖者ナーラダの会話であり、バガヴァーン・ナーラーヤンに関する物語なので非 常に重要な内容である。主ナーラーヤンの化身であるナーラーヤン・リシは今もヒマラ デーヴァ ヤ山中のバダリーカーシュラムに住んでいる。偉大な献身者であり、神々の中の苦行者 とされるナーラダが、かつて様々な惑星を旅していた時のこと、バダリーカーシュラム で苦行者ナーラーヤンと直接会って、尊敬の礼を捧げようと思った。バガヴァーンの偉 大な化身ナーラーヤン・リシは、精神界に帰るという最高完成段階を零ハーラタヴァルシャ の人々に示すために、模範として宇宙創造の最初から厳しい苦行を行なっておられた。 主の苦行は人類がしたがうべきものである」 

バダリーカーシュラムはヒマラヤ山脈の最北部に位置していて、万年雪に包まれて います。現代においても、インド人の中でも特に宗教的な人々は、積雪がそれほど激し くない夏の間にバダリーカーシュラムを訪れます。かつて、寺ハダリーカーシュラムのカー ラーパグラームの村にバガヴァーンであるナーラーヤン・リシが多くの献身者に囲ま れて座っていらっしやいました。主とともに座っていたのはもちろん普通の聖者では なく偉大な聖者であって、その中には偉大な聖者ナーラダもいました。ナーラダはナー ラーヤン・リシに尊敬の礼を捧げた後、パリークシット王がシュカデーヴァ・ゴースワー せんだつ ミーに尋ねたのとまったく同じことを尋ねました。するとナーラーヤン・リシは先達の足跡にしたがって答え、月や太陽などのスヴァルガ惑星系の上に位置するジャナロー カ上でも、かつて、同じ質問がなされたことを話しました。ジャナローカには聖人や聖 者たちが住んでいて、ブラフマンやその真の姿について議論し合っています。偉大な聖 者ナーラーヤン・リシが話し始めました。

「親愛なるナーラダよ、太古の昔に起こった物語を話して聞かせよう。かつて、天の星々 に住む人々が大きな会合を開いたことがあった。サナト、サナンダナ、サナカ、そしてサ ナータナ・クマーラの四人のクマーラをはじめとする偉大なブラフマチャーリーたち のほぼ全員が参加して、絶対真理ブラフマンの理解について議論がなされた。お前はそ の時シュヴェータドヴィープ島に住む主アニルッダに会いに行っていたために、その 場にはいなかった。その会合で偉大な聖者やブラフマチャーリーたちがお前の質問と 同じ内容について詳しく議論し合い、たいへん興味深い討論が行なわれた。議論は非常 に微妙なものであったために、ヴェーダ文典でさえもその難しい問題について答える ことができないほどのものであった」 

ナーラーヤン・リシは、ナーラダジーが尋ねた質問と同じ問いがジャナローカの集会 ですでに議論されていたことを話しました・これがパランパラー(師弟継承)を通じて 理解する方法です。マハーラージ・パリークシットはシュカデーヴァ・ゴースワーミーに教えを乞い、シュカデーヴァ・ゴースワーミーはナーラダを引用し、ナーラダはナー ラーヤン・リシに尋ねています。そのナーラーヤン・リシもジャナローカ星に住むより ゆだ 高い権威者にその解答を委ねました。そのジャナローカでは、サナト、サナンダナ、サナ カ、そしてサナータナ・クマーラの偉大な四人のクマーラが、その点についてすでに議 論していたのです。ブラフマチャーリーであるこれら四人のクマーラはヴェーダと シャーストラに関する著名な学者であり、彼らの苦行に裏打ちされた深遠な学識は、そ の崇高で理想的な性格に現われ出ています。四人のふるまいは称賛に値し、礼儀正しい 彼らは友も敵も好意的な人もまったく差別しませんでした。四人のクマーラのような 人々は超越的な段階に達しているために物質的な概念を完全に超越し、物質的な二元 性に関して常に中立的な立場を取ります。その議論において、四人の中でサナンダナが 話すように選ばれ、他の三人はその議論に耳を傾けました。

サナンダナは言いました。 「全宇宙が破壊された後、全エネルギーと全宇宙は、その核の形となってガルボーダ カシャーイー・ヴイシュヌの中に入って行き、その後、主は非常に長い期間にわたって ねむつ 眠りに就かれます。王が朝まだ眠りに就いている時、担当の朗唱家が寝室にやって来て、 王の武勇を称え始めます。王は栄光を称えられながら、しだいに目を覚まします。それと同じように再び戯造が必要となった時、ヴェーダ権化たちは主の周りに集まり、主 リーーフー を称え、主の素晴らしい超越的な遊戯を語るのです。 

ヴェーダを朗唱するヴェーダ権化たちは、次のように歌います。おお誰にも征服され土《冬ご ないお方よ、御身こそが守ハガヴァーンでいらっしゃいます。御身に優る者も、対等な者 さ力 もいません。そして、御身よりも栄えある者もいません。御身に栄光あれ・御身に栄えあ れ・御身は超越的な性質によって六つの富を完全に具えていて、すべての束縛された魂 をマーヤーの呪縛から救う力をお持ちでいらっしやいます。おお主よ、御身が束縛され た者たちを慈悲深くもお救いくださいますように切にお祈り申し上げます。全生命体 がんらい は御身の部分体として、元来は喜びと知識に満た永遠の存在なのですが、御身を模倣し て至上の享楽者になろうとしています。このように、御身の至上の立場に反逆し侮辱を 働いておりますゆえ、御身の物質エネルギーに支配されているのでございます。彼らの 元来の超越的な性質、すなわち、喜び、至福と知恵の質が物質自然の三様式の雲によっ て覆われているのもそのためでございます。この物質宇宙は物質自然の三様式で構成 かんごく されていて、束縛された魂にとって、まさに監獄のような場所です。束縛された魂は物 d力 質的な束縛から懸命に逃れようとしていますが、それぞれの生活状況に応じて様々な もと 活動が与えられています。しかし、すべての活動は御身の知識に基づくものであり、敬度な活動は御身の慈悲によって啓発された時にのみ行なうことができるのです。した ゆだ がって、御身の蓮華の御足に身を委ねることがなければ、物質エネルギーの影響を越え つ‐と ることは不可能です。ヴェーダ知識の権化として、私どもの勤めは束縛された魂が御身 を理解できるように助けることでございます。それが私どもの御身への奉仕です」 

ヴェーダ権化のこの祈りに示されているように、ヴェーダ文典は束縛された魂がク リシュナを理解できるように助けるものです。シュルティ(ヴェーダ権化)の全員は「ジャ ヤ、ジャヤ」と何度も歌って主の栄光を称えました。このことが示しているように、主の 栄光が、主を称賛に値するお方たらしめているのです。主の栄光の中で最も重要なもの は、主がいわれのない慈悲によって、マーヤーに縛られた魂をお救いになることです。

生命体は無数にあって、様々な種類の体の中に入っています。動く体の中に入ってい る者も、動かない体の中に入っている者もいます。これらの生命体が束縛された生活を しているのは、ただバガヴァーンとの永遠の関係を忘れているからです。生命体がクリ シュナの立場をまねて物質エネルギーを支配しようとすると、ただちに物質エネルギー に捕らわれ、それぞれの望みに応じて八百四十万種類の体の中に入れられます。幻想の 中にいる生命体は、物質存在の三つの苦しみを味わうことを余儀なくされながらも、自 分こそが一切万物の支配者であると誤って考えています。物質自然には三つの様式がおん跨よう あり、生命体はあまりにもその物質エネルギーに縛られているために、至上主の恩寵を 授からない限り、自由になることはまったく不可能です。生命体は自分自身の力では物 質自然の様式の影響を克服することができません。しかし、物質自然は至上主の支配の もと 下で動いているので、主がそれに影響されることはありません・主を除くすべての生命 アリ 体は、ブラフマーから蟻に至るまで、物質自然と接触したことによって完全に縛られているのです。

主は財、力、名声、美、知識、放棄という六つの富を完全に具えていらっしやるので、た だ主だけが物質自然の呪縛を越えることができます。生命体はクリシュナ意識になら ない限り、バガヴァーンに近づくことはできません。しかしながら、主は全能の力によっ て生命体の内面からスーパーソウルとして指示をお授けになります。『バガヴァッド。 ギーター』の中で、主は、カルミーに対して「何をするにしても、すべてを私のために行 ないなさい・何を食べるにしても、まず最初に私に捧げなさい・どのような施しをする にしても、まず最初に私に捧げなさい・そして、どのような苦行を行なうにしても、私の ために行ないなさい」と教えを授けていらっしやいます。なぜなら、カルミーがこの教 はぐく えにしたがえば、しだいにクリシュナ意識を育むことができるからです。同じように哲 学者に対しては、ブラフマンとマーヤーの違いを知ることにより、しだいにクリシュナ意識に向かうように指示していらっしやいます。なせなら、哲学者は知識が完成した時 に、クリシュナに服従するようになるからです。クリシュナが「ハガヴァッド・ギーター』 でおつしやっているように、「何度も誕生を繰り返した後、知恵ある哲学者は私に服従 する」のです。またヨーギーに対しては、胸の内なるクリシュナに眼想を集中させるよ うに指示していらっしやいます。なぜなら、ョIギーがこの教えにしたがってクリシュ ナ意識を常に行なうならば、物質エネルギーの呪縛から自由になることができるから です。しかし、献身者は最初から愛情をもって献身奉仕を行なっているので『バガヴァッ ド・ギーター」に述べられているように、主の導きによって、それることなくまつすぐに おんちょう 主のもとに近づいて行くことができます。生命体はただ主の恩寵によってのみブラフ マン、・ハラマートマー、そしてバガヴァーンの真の立場を理解することができるのです。 

ヴェーダ権化の祈りの中で、ヴェーダ文典の目的はただクリシュナを理解すること であると明らかにされています。「ハガヴァッド・ギーター」も、ヴェーダを通じて理解 すべきはクリシュナであると述べています。物質界でも精神界でも、クリシュナは常に 楽しんでいらっしやいます。なぜなら、至上の享楽者でいらっしゃるからです。主にとっ さまた ては、物質界も精神界も違いはありません。物質界は普通の生命体にとっては妨げとな るものです。なぜなら、生命体は物質界に支配されているからです。しかし、クリシュナ は物質界を支配するお方なので、物質界がもたらす様々な影響力は主に触れることが できません。ウパニシャッドの様々な箇所では、「ブラフマンは永遠で知識と至福に満 ちている。しかし、一人のバガヴァーンが全生命体の心臓の中に存在している」と述べ あまれ られています。主はすべての場所に遍くいらっしやるので、生命体の心臓の内ばかりで はなく、全原子の中にもお入りになっています。主はスーパーソウルとして生命体の全 活動を支配していらっしゃいます。つまり、全生命体の中にいて、それぞれのふるまい をすべて見て、それぞれが各自の望みに応じて活動することに裁可をお与えになり、そ して、それぞれの活動に対応した結果を生命体にお授けになるのです。主が万物の生命 力ですが、主自身は物質的な質を完全に超越し、そして全能の力によって万物創造の力 を具えていらっしゃいます。すべての者は、優れた知識を持つ主の支配下にあります。 このように、主はすべての者の主人でいらっしゃるのです。主は、地上に姿をお現わしい‐ら になる時にも、同時に万物の中にも入っていらっしやいます。主が物質エネルギーを一 べつ み‐ずか 瞥し、多様な姿に自らを拡張されると、無数の生命体が現われ出てきます。すべては主 の上位エネルギーによって創造されるのです。主の創造の中のすべては、まったく何の 欠陥もなく、完壁な姿で現われています。 したがって、物質界からの解放を望む人は、万物の根本原因なるバガヴァーンを崇拝しなければなりません。陶器は士でできていますが、主はまさにその土のようなお方で す。陶器は粘土から作られ、粘土は土の中にあります。そして壊れた器はしだいに土に 戻っていきます。このように、。ハガヴァーンこそが全現象の根本原因でいらっしゃるの ですが、マーヤーヴァーデイー哲学者はヴェーダ文典の中の「一切はブラフマンなり」 という記述を強調するばかりで、万物がブラフマンの至上原因なるお方から現われ出 たことを考えようともしません・彼らはただ、万物は「ブラフマン」から現われ、破壊さ れた後は再び「ブラフマとに戻っていき、そして、その中間段階も「ブラフマン」である という点だけしか見ていないのです

マーヤーヴァーディー哲学者は、全宇宙が創造以 前には「ブラフマン」の中にあり、創造された後は「ブラフマン」の中に留まり、そして破 壊後は「ブラフマとに解け込んでいくことは知っているのですが、実際に「ブラフマン」 がいかなるものであるかはまったく知りません。しかし、『ブラフマ・サンヒター』が「ブ ラフマン」の実体を明らかにしています。すなわち、宇宙は、生命体、空間、時間、そして こころ 物質要素(火、土、空間、水、思惟など)によって構成されていますが、その宇宙はゴーヴィ ンダから現われ出たものです。その全宇宙を維持しているのはゴーヴィンダであり、宇 宙は破壊された後にゴーヴィンダの中に入っていき、その中に留まります。したがって、 主ブラフマーは「万物の根本原因である源初の主、ゴーヴィンダを崇拝する」と語って います。

ブラフマンという語は|最も偉大な存在。万物を維持するもの」という意味です。マー とぽ ヤーヴァーディ-は空間の偉大さに関心を持っていますが、知識が乏しいために、クリ シュナの偉大さには興味を示しません。日常生活の中で私たちは偉大な人物には魅力 を感じますが、大きな山を見たとしても山自体にはそれほど魅力は感じません。ブラフ マンという語が真に指し示すのはクリシュナです。したがって「ハガヴァッド・ギーター』 でアルジュナはぐ王クリシュナこそがパラン・ブラフマンすなわち万物を究極的に維持 しているお方であると語っています。 

クリシュナは無限の知識、無限の能力、無限の力、無限の影響力、無限の美と無限の無 執着を具えた至上ブラフマンでいらっしゃいます。したがって、ブラフマンという語が 指し示すのはただクリシュナだけです。非人格的ブラフマンはクリシュナの超越的な 体から発している光輝です。したがって、アルジュナはクリシュナこそがパラン・ブラ うた うマンなりと躯っているのです。万物はブラフマンに支えられていますが、ブラフマン はクリシュナに依存しています。ですから、クリシュナこそがパラン・ブラフマン(究極 的ブラフマン)でいらっしゃいます。宇宙は物質エネルギーの相互作用によって創始さ れ、その後、クリシュナによって維持され、破壊後は細妙なエネルギーとして再びクリシュナの体の中に入っていきます。したがって、物質エネルギーはクリシュナの下位エ ネルギーであるとされます。このように、クリシュナは創造と破壊の両方の原因でいらっしやるのです。

「一切はブラフマンなり」とは、すべてがクリシュナであるという意味です。このよう もと な世界観を持つマハー・バーガヴァタは、クリシュナとの関係に基づいてすべてを見て みずか います。マーヤーヴァーデイーは、クリシュナが自らを拡張してすべてになったのだか ら、あらゆるものがクリシュナであり、何を崇拝してもクリシュナを崇拝していること になる、と主張していますが、この誤った議論に対して、クリシュナ自身が「ハガヴァッ ド・ギーター』の中で応えていらっしやいます。すなわち、すべてはクリシュナのエネル ギーが変化したものなのですが、主自身がすべての場所にいらっしゃるわけではあり ません・主はすべての場所にいらっしやると同時に、いらっしゃらないのです。主はエ ネルギーをすべての場所に現わしていらっしゃいますが、エネルギーの根源としての 主の本来の姿がすべての場所に現われているわけではありません・主がいらっしゃる と.ら と同時にいらっしやらないということは、私たちの今の感覚では捉えることのできな い想像を絶した不思議ですが『イーショー・ハニシャッド』の冒頭でその事実が明らか にされています。すなわち至上主は絶対完全体であって、様々な多様なエネルギーやそ の変化体がクリシュナから発現したとしても、クリシュナの人格はまったく変化する ことがないのです。クリシュナは万物の根本原因でいらっしやるので、知性ある人は主 の蓮華の御足に保護を求めるべきです。 

クリシュナはすべての者に対して、ただ主にのみ服従するように奨めていらっしや います。主クリシュナに服従することがヴェーダ文典全体の教えです。クリシュナが万 物の根本原因でいらっしゃるので、あらゆる聖人聖者たちは規定原則にしたがうこと によって主を崇拝しています。膜想を行なわなければならない時は、偉大な人々は胸の こころ 内にクリシュナの偉大な姿を腹想します。このようにして、偉大な人々は思惟の働きに こころ ょって常にクリシュナを想っています。思惟がクリシュナの想いで満たされた献身者 ひきつ はクリシュナに惹付けられ、自然にクリシュナのことしか話さなくなります。

クリシュナについて話し歌うことはキールタンと呼ばれます。主チャイタンニャも また、ただクリシュナだけを想いクリシュナのことだけを話すことを奨めていらっしや います。ただクリシュナだけを想い、ただクリシュナのことだけを話す。それがクリシュ ナ意識です。クリシュナ意識は非常に崇高な道なので、クリシュナ意識を始めた人は誰 もが人生の最高完成を得て、解放をはるかに越えた段階に達することができるのです。 したがって、クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中ですべての者に対して、常に主を想い、主に献身奉仕を捧げ、主を崇拝し、そして主に尊敬の礼を捧げることを奨め ていらっしやいます。その教えにしたがう献身者は完全にクリシュナ化され、いつもク リシュナ意識を持ち続け、最終的にクリシュナのもとに帰って行くことができるのです 。

確かにヴェーダでは、クリシュナの部分体である様々な神々を崇拝することが奨め られています。しかし、留意すべき点は、その教えの対象となっているのが物質的な感 とぼ 覚の快楽に関心がある知性の乏しい人々であるということです。人間として生まれた 使命を完全に遂行することを望むのなら、主クリシュナを崇拝す余へきです。クリシュナ を崇拝することにより、人間の使命を容易に遂行することができ、その成功が完全に保 証されます。空も水も地面も、いずれもが物質界の一部ですが、空や水の上に立つより デーヴァ も地面に直接立つほうが安全です。それと同じように、様々な神々は確かにクリシュナ デーヴァ の部分体ですが、知性ある人は神々の保護のもとには立たず、クリシュナ意識という堅 固な基盤の上に立ちます。それによって確実で安全な立場が保証されるのです。 

マーヤーヴァーディーが「石や木は大地の上にあるので、その上に立つ人は大地に立っ ている」という例をあげることもあります。しかしそれに対しては、地面の上に座って いる石や木の上に立つよりも直接大地に立ったほうが安全だ、と答えることができます。つまりパラマートマーや非人格的ブラフマンに保護を求めるよりも、クリシュナ意 識で直接クリシュナに保護を求めるほうが安全な方法なのです。以上からわかるよう あや に、ジュニャーニーやョIギーの立場は主クリシュナの献身者よりも危ういものです。 デーヴア したがって主クリシュナは「ハガヴァッド・ギーター』で、正気を失った人だけが神々を 崇拝するとおっしゃっています。非人格的ブラフマンに執着している人に対して『シュ リーマド・バーガヴァタム』は「親愛なる主よ、思索的方法によって解放を達成したと思っ ている者たちは御身の蓮華の御足に保護を求めることができないために、物質自然の けが 汚れから浄化されていません・彼らは非人格的ブラフマンの超越的な段階に至ること はできるのですが、御身の蓮華の御足を望んでいないために、崇高な非人格的ブラフマ お デーヴァ ンの段階から必ず堕ちてしまうのです」と述べています。神々の崇拝者はただ一時的な ものだけしか手に入れられないので知性に欠けていると主は説明していらっしやいま す。しかし、主の献身者に関しては、決して堕落はあり得ないことが主によって保証さ れています。

ヴェーダ権化たちは言葉を続けます。 すぐ 「親愛なる主よ、人は自分よりも優れた者を崇拝しなければならないのですから、以 上の点を考慮するなら御身の蓮華の御足だけを崇拝す、へきです。それが正しいふるまいというものです。なぜなら、御身こそが創造・維持・破壊を司る至上支配者でいらっしゃ戸3 4 るからです。御身はブール・ブヴァル・スヴァルの三界、上下の十四界、そして物質自然イー ‐一プ.’評ゾア の三様式を支配していらっしやいます。神々も、そして高い精神知識を持つ人も、いつ リーラー も御身の超越的な遊戯について聞き唱えています。なぜなら、御身について聞き唱える けが ことによって、罪の汚れを洗い清めることができるからです。知性ある人は、御身の甘 リーーフー ひた り、’一フー 露に満ちた遊戯の海に浸り、常に御身の遊戯に耳を傾けています。そのようにすれば、 けが すぐに物質的な質の汚れから浄化されるのです。その道にしたがうならば、精神生活を リーラー 高めるために厳しい苦行を行なう必要はありません・御身の超越的な遊戯に耳を傾け、 御身の栄光を唱えることが自己の悟りを得るための最も簡単な方法です。超越的な教 けが えを謙虚に聞くだけで、胸の内の汚れがすべて浄化され、献身者の胸にクリシュナ意識 がしっかりと植え付けられるのです」

偉大な権威者であるビーシュマデーヴァもまた、、ハガヴァーンについて聞き唱える ことがヴェーダ儀式の最も重要な部分であるという見解を示して、「親愛なる主よ。献 みずか 身奉仕の中でも特に御身の栄光について聞き唱えることによって、自らを高めたいとナ ユ 望んでいる献身者は、ただちに物質界の束縛から自由になることができます。聞き唱えシ リ るという簡単な苦行を行なうならば、献身者の胸に住むスーパーソウルは大いに喜んで、献身者を精神界へとお導きになるのです」と語っています。また『バガヴァッド・ギー ター」では「主の献身奉仕のために感覚を使って活動する者は、スーパーソウルにたい へん喜ばれているので、完全な平安を得ることができる。ゆえに、献身者は暑さ・寒さや 名誉・不名誉といった物質の二元性をすべて超越することができる」と述べられていま す。献身者はすべての二元性から解放されて超越的な至福を味わい、もはや物質界の不 安には苦しめられないのです。『バガヴァッド・ギーター』では、クリシュナ意識に没頭 する献身者は自分の生活や身の安全にはまったく不安がないことが明らかにされてい ます。クリシュナ意識にいつも没頭しているならば、最後に最高完成を達成することが できます。つまり、献身者は物質界の中では大きな平安と至福に包まれて暮らし、そし て体から離れた後は、精神界のバガヴァーンのもとへと帰ることができるのです。主ク ひとたび リシュナは「私の至上の惑星は、一度到達すれば再びこの世界に戻って来る必要がない くに くに 超越的な郷である。永遠の郷で私に直接仕え、至上の完成を達成した者は、人間として の最高完成を達成していて、苦しみに満ちた物質界に戻されることがない」と「ハガ ヴァッド・ギーター』で語っていらっしやいます。

ヴェーダ権化は言葉を続けます。「親愛なる主よ、生命体にとって献身奉仕を行なうことは必要不可欠な必修事項です。献身奉仕で定められている方法に常にしたがって、聞き、唱え、そして御身の命令にし いつだっ たがわなければなりません。ところが、クリシュナ意識から逸脱し、献身奉仕を行なわ ない者は、いかに命があるようにふるまったとしても、まったく無駄なことです。呼吸 かじゃ する者は命ある者とされますが、クリシュナ意識のない者は鍛冶屋のふいごと何ら変 わりません・ふいごは空気を吸っては吐く皮の袋です。同様に、人間がただ骨と皮の袋 の中に住むのみで、クリシュナ意識を受け入れずへ常に愛情に満ちた献身奉仕を行なわ ないならば、ふいごとどこが異なるでしょうか。それと同じく、非献身者が長生きをし どんよく たとしても、それは樹木が長生きするのと同じです。人間が貧欲に食べるなら、その食 ふ・ ヤギ 欲は犬や豚と変わりありません・性の悦楽に耽けることは、豚や山羊の喜びとどこが違一うでしようか」 。

物質宇宙が存続することができるのは、バガヴァーンがマハー・ヴィシュヌとしてこ い捗りザへつ の世界にお入りになっているからです。総物質エネルギーはマハー・ヴィシュヌの一瞥 によって刺激され、その結果、物質的な三様式が活動を始めます。私たちは様々な物質 的な物事を自分の快楽の対象にしようとしていますが、以上の点を考慮すれば、こうし た様々な対象物もバガヴァーンの慈悲によって存在しているものであると結論できます。

体の中にはアンナマヤミブラーナマヤ、マノーマヤ蔦ヴィジュニャーナマヤ、そして最 終的にアーナンダマヤという五つの存在様式があります。生命体は、最初の段階では食 おい く物のことしか意識にありません・子供や動物は、ただ美味しい食べ物を食べていれば 満足します。食べ物をたくさん食べようとしている意識段階は、アンナマヤと呼ばれま す。アンナは食べ物という意味です。その段階の後、生存意識を持って暮らすようにな おそ ります。つまり誰からも襲われず、何者にも滅ぼされることなく生き続けることができ れば、それが幸福だと考えるようになります。この段階はプラーナマヤ、すなわち生存 意識の段階と呼ばれます。その段階の後、思索の段階に到達した意識はマノーマヤと呼 ばれます。物質的な文明はおもにアンナマヤ、プラーナマヤとマノーマヤの段階にあり ます。文明人の第一の関心事は経済発展で、次は身を守ることです。そして次に意識す ることは、思索すなわち人生の価値に関して哲学的に追究することです。 

哲学的な生き方において進歩を続けていくと、しだいに知的な生活に入っていき、自 分自身が物質の体とはまったく別のものであり、精神魂こそが真の自己であることが 理解できるようになります。さらに精神生活で進歩を重ねていくと、至上主すなわち至 はぐく 上魂が理解できるようになります。そして、至上主との関係を育んで献身奉仕を行なう ことができるようになった時、その段階がクリシュナ意識すなわちアーナンダマヤの段階です。アーナンダマヤとは知識と永遠性の至福に満ちた生き方です。『ヴェーダー ンタ・スートラ』に述べられているように、至上ブラフマン(バガヴァーン)と従属的ブ ラフマン(生命体)は本来ともに喜びに満ちた存在です。アンナマヤ、プラーナマヤ、マレ」し」 ノーマヤとヴイジュニャーナマヤの低い段階に留まることは物質的な生き方ですが、 アーナンダマヤの段階に到達したならば、ただちに解放された魂となります。バガヴァッ ド・ギーター』では、アーナンダマヤの段階は『不安と渇望が存在しないブラフマ・ブー タの段階として説明されています。全生命体に対して平等観を持つようになった時が ブラフマ・ブータの段階の第一歩で、このブラフマ・ブータの段階はしだいに発展して、 常にバガヴァーンヘの奉仕を望んでいるクリシュナ意識の段階へと至ります。献身奉 仕をさらに伸ばしたいという望みは、物質界での感覚満足の追求とはまったく別のも のです。つまり、精神生活にも望みは存在するのですが、それは純粋な望みなのです。浄 化された感覚は、物質的な段階(アンナマヤ、プラーナマヤ、マノーマヤ、ヴィジュニャー じゅばく ナマヤ)の呪縛から離れ、より高い段階、すなわち、クリシュナ意識の喜びに満ちた生活 (アーナンダマヤ)へと昇っていきます。マーヤーヴァーディー哲学者によれば、アーナ ンダマヤとは至上存在に解け込み、至上魂と個別魂が一つになった状態です。しかし、 一つになるということは、実際には至上者と合一することでも、個別性を失うことでもありません。精神存在に解け込むということは、各生命体が至上主と質的に同じである ことを悟ること、すなわち、質的には主と同じく永遠であり知識に満ちていることを理 解することです。「ハガヴァッド・ギーター』で明らかにされているように、この真のアー ナンダマヤ(至福)の段階は献身奉仕を行なった時にはじめて達成することができます。 ブラフマ・ブータ・アーナンダマヤの段階は、至上主と従属的生命体の間に愛の交換が ある時にのみ完壁なものとなります。アーナンダマヤの段階に到達していない限り、た かじゃ とえ呼吸をしていてもそれは鍛冶屋のふいごと何ら変わらず、長生きしたとしても樹 木が長生きするのと違いがありません。そのような生き方をする人間はラクダ、豚や犬 などの低い動物と同じ段階にあるのです。 

永遠なる生命体が決して滅びないということは疑いの余地のない事実です。しかし、 低い生命形態が苦しみに満ちた暮らしをしているのに対し、至上主の献身奉仕を行な う者たちは喜びに満ちたアーナンダマヤの段階にいます。これまでに述べてきた様々 な段階は、すべてバガヴァーンとの関係によるものです。バガヴァーンと生命体はどの ような状況においても存在しているのですが、その両者の違いは、バガヴァーンはいつ もアーナンダマヤの段階にいらっしやり、それに対して、従属的立場にある生命体は至 お 上主の極微小部分であるために低い段階に堕ちる傾向があるということです。私たちが解放されていたとしても束縛されていたとしてもパガヴァーンは私たちの意識状 おんちょう 態を常に超越していらっしゃいます。全物質宇宙は至上主の恩寵によって創造、維持さ れ、そして破壊後は至上主の中に解け込んでいきます。このように至上主こそが至上存 在であり、万物の根本原因でいらっしゃいます。以上の事柄から、クリシュナ意識をよ り進歩させない限り、一生は単なる時間の無駄にすぎないと結論できます。 

あまりにも物質的であるためにクリシュナの住処である精神界の様子を理解できな い人々に対して、偉大な聖者はョ-ガ行法を奨めています。そのョ-ガ行法にしたがえ ば、腹部の膜想(ムーラーダーラもしくはマニプーラカ膜想と呼ばれる)の段階からし だいに昇って行くことができます。ムーラーダーラやマニプーラカは腹の内部にある 腸を意味する専門用語です。物質的な人々は経済発展こそが最も重要であると考えて いますが、それはただ、食物だけが生命を維持するものだと信じているからです。食べ たいだけ食べても、食物が消化されなければ消化不良と胃酸過多で苦しまなければな りません。しかしながら、物質的な人々はそんな簡単な事実も忘れているのです。食物 自体は生命維持の要因ではありません。食べ物を消化するためには『バガヴァッド・ギー ター」でヴァイシュヴァーナラと呼ばれているエネルギーに頼らなければなりません。 主クリシュナはヴァイシュヴァーナラの姿で食物の消化を助けると『バガヴァッド・ギーター』でおっしゃっています。バガヴァーンはすべての場所に遍在していらっしゃいま す。したがって、主がヴァイシュヴァーナラの姿で現われていらっしやったとしても何 ら不思議なことはありません。 

クリシュナは実際にすべての場所にいらっしやいます。したがって、ヴァイシュナヴア は体にティラク(ヴィシュヌ寺院のしるし)をつけています。その箇所は、まず腹部、胸、 鎖骨間、額、そしてブラフマ・ランドラ(頭頂)です。ヴァイシュナヴァが体につける十二 のティラクの寺院は以下のようになっています。額には主ケーシャヴァの寺院、腹部に は主ナーラーヤン、胸には主マーダヴァ、鎖骨間には主ゴーヴインダ、腰の右側には主 ヴィシュヌ、右腕には主マドゥスーダナ、鎖骨の左側には主トリヴイクラマ、そして腰 の左側には主ヴァーマナデーヴァ、左腕にはシュリーダラ、鎖骨の左側にはうリシーケー シャ、背中の上部にはパドマナーバ、背中の下部にはダーモダラの寺院、そして頭頂に はヴァースデーヴァの寺院です。これは体の様々な部分に主がいらっしやることを膜 想する方法です。しかし、ヴァイシュナヴァでない人々に対しては、偉大な聖者たちは 肉体概念(腸、心臓、喉、眉、額、頭頂)を膜想することを奨めています。偉大な聖者アルナ の師弟継承を受け継ぐ聖者の中には、心臓を腹想する人たちもいます。それはスーパー ソゥルが生命体とともに心臓の中にいつも座っていらっしやるからです。主が心臓の中にいらっしやることは「ハガヴァッド・ギーター』の第十五章に、主が「私はすべての 者の心臓の中にいる」とおっしゃっていることで明らかです。 

ヴアイシュナヴァにとって、主に仕えるために体を守ることは奉仕の一つです。それ に対して物質的な人々は体が自分だと考えているので、マニプーラカ、ダハラ、フリダ ヤやブラフマ・ランドラ(頭頂)などの体の各部を膜想するョ-ガ行法を行なうことに よって、自分の体を崇拝します。ヨーガ訓練の完成を修めた第一級のョ-ギーは、最終 的にはブラフマ・ランドラを通過して物質界や精神界のどの惑星にも行くことができ ます。ヨーギーがどのようにして他の惑星に自分の体を移すかについては『シュリーマ ド・バーガヴァタム』の第二篇に詳しい記述があります。 

そこではシュカデーヴァ・ゴースワーミーがヴィラート・プルシャ(主の巨大な宇宙 体)を崇拝することを初心者に奨めています。アルチャー(主の神像の姿)が偶像崇拝で あると考えている者や、主の姿に集中できない者に対しては、主の宇宙体を崇拝するこ ヘプー」 とが奨められるのです。宇宙の下部は宇宙体の足、中部は腹部もしくは脳、ジャナロー カやマハルローカなどの高位の惑星系は心臓、そして最高惑星ブラフマローカは宇宙 体の頭部とされます。崇拝者の様々な段階に応じて偉大な聖者たちは様々な方法を奨 めていますが、すべての腹想やョ-ガの最終的な目的は精神界に帰ることです。「ハガヴァッド・ギーター』に述べられているように、クリシュナの住処である最高惑星やヴァ+イ イクンタ惑星に到達した者は、物質的な生活という悲惨な状況に再び堕ちることはあ 宴イクン々ユ リません。

ヴェーダではヴィシュヌの蓮華の御足をすべての努力の目的にすることが奨めら れています。ヴィシュヌロー力(ヴィシュヌの住む惑星)は全物質惑星の上にあります。 ヴァイクンタはサナータナ・ダーマ(永遠の惑星)で、物質界が破壊された後も決して滅 びません。至上主を崇拝せずその結果、精神界に帰ることができなかった人は、人間と して生まれてきた重要な使命を達成できなかったと言えます。 

次に、ヴェーダ権化は主が様々な生命形態の中にお入りになっていることを祈りと して捧げています。『バガヴァッド・ギーター』の第十四章には至上主の精神的部分体が 全生命形態の体の中に存在していることが述べられています。また主は別の箇所でも、 主がすべての生命体に種を与えた父であると語っていらっしゃいます。したがって、全 生命体は主の息子と考えられます。マーヤーヴァーディーたちは、至上主が全生命体の坐主〃」 心臓の中にスーパーソウルとして存在するという記述に惑わされているために、生命 体と至上主が対等であると考えています。「個別魂がなぜパラマートマー(スーパーソ ウル)を崇拝しなければならないのか」と挑戦するのは、至上主が個別魂とともに様々な体の中に入っているために主と個匪魂の間にま(一たく違いがないと誤解しているか らです。マーヤーヴァーディー哲学によれば、至上魂も個別魂も同じ段階にあり、両者 は一つであって何の違いもないとされています。しかし、実際には至上魂と個別魂は同 じではなく大きな相違点があります。主が個別魂とともに同じ体の中にいながらより まさ 優った立場にいらっしゃることは、「ハガヴァッド・ギーター』第十五章の主の言葉によっ て明らかです。つまり、主は個別魂に内面から導きと知性をお授けになっていらっしゃ るのです。個別魂に知性を与える存在が主であり、記憶も忘却もただ主の影響力による ものであることが『ハガヴァッド・ギーター』に明らかにされています。スーパーソウル の裁可がなければ、誰も何もできません。スーパーソウルから独立的に行動することは 誰にとっても不可能です。個別魂は主から授けられた記憶により、過去のカルマにした がって行動します。個別魂はいつまでも物事を記憶していることができません。しかし、 心臓の中にいらっしやる主が過去の記憶を与え、過去世で何を望んでいたのかを思い 出させてくださるのです。個別魂の知性は、木の中の火のようなものです。火はいつも 変わらず火なのですが、火の大きさは木の大きさによって制限されます。同様に、個別 みずか 魂は、質的には至上主と一つなのですが、各自に与えられた体に応じて自らを現わすの《L‐す。至上主であるスーパーソウルはエー力・ラサであるといわれています。エー力とは二 つ」、ラサとは「味わい」という意味です。至上主の超越的な立場は永遠性と至福と知識 に満ちたものです。主は各個別魂の活動をすべてご覧になり、各個にそれぞれの導きお つ 授けになっているのですが、そのような立場に就いたからといって、エー力・ラサなる 主の地位が劣化することは決してありません。 

しかし、生命体は主ブラフマーから蟻に至るまで、それぞれが現わすことのできる精 デーヴァ 神的能力は各自の体によって制限されています。神々は人間や動物などの姿を取った カテゴリー デーヴァ 個別魂と同じ範晴に属しています。したがって、知性ある人は神々を崇拝しません・な デーヴァ ぜなら、神々はクリシュナの極微小の現われであって、束縛された体の中に入っている にすぎないからです。このように個別魂は各個の体の形態と構成に応じた能力しか発 揮することができません。しかし、バガヴァーンはどのような姿形を取ったとしても何 ら変わることなく、まったく同じ力を発揮することができます。それに対して、個別魂 は体が大きくなるにつれて発揮する能力も大きくなるのですから、至上主と生命体が まったく同一不変であるというマーヤーヴァーディー哲学者の論点は受け入れること ができません。赤ちゃんの体の中に入っている個別魂には、大人の力はありません・し ひざれむ かしパガヴァーン・クリシュナは赤ちゃんの姿で母の膝に眠っていらっしゃった時でさえ●主を殺しにやって来たプータナーなどの悪魔を数多く滅ぼされたのです声パガ ヴァーンの力はエー力・ラサであり、まったく変化することがありません。したがって、 崇拝に値するお方はただバガヴァーンだけです。物質自然の力に影響されない人だけ がこのことを理解できます。つまり、解放された人だけが、ハガヴァーンを崇拝すること とぽ デーヴァ ができるのです。しかし知性に乏しいマーヤーヴァーディー哲学者は、神々とバガヴァー デーヴァ ンが対等な存在であるとして神々を崇拝しています。 

ヴェーダ権化は「親愛なる主よ、何度も誕生を繰り返した後に真の知恵を得た者は、 完壁な知識を持って御身の蓮華の御足を崇拝します」と祈りを捧げて、再び尊敬の礼を 払っています。このことは「ハガヴァッド・ギーター』の中の主の言葉「何度も誕生を繰 り返した後、マハートマー(偉大な魂)はヴァースデーヴァ(クリシュナ)が万物の根本 原因であると理解し、主に服従する」によっても明らかです。ヴェーダ権化たちは祈り「すでに申し上げましたように、思惟、感覚、知性は至上主から授かったものでござい ますゆえ、この三つが浄化されたなら、なすべきことはただ主への献身奉仕のみでござ とら こころ います。生命体が様々な生命形態の中に囚われているのは、ただこの思惟、感覚、知性を 物質的活動に使っているためです。生命体の体は、各自の望みにしたがって物質自然に よって作られたものです。生命体が特定の体を望み、かつ、それを受くべき資格がある ならば、物質自然から体が授けられます。その過程はすべてバガヴァーンの命令によっ て行なわれているのです」 。  

『シュリーマド・バーガヴァタム』の第三篇では、生命体に特定の体が与えられる過程 について説かれていて、そこでは生命体が精液の中に入った後、特定の女性の胎内に入 れられることが述べられています。その過程は上位の権威者の支配にしたがって行な こころ われるものです。生命体は自分の望みにしたがって思惟、感覚、知性を使い、その結果、 とら ある特定の体が与えられ、その中に囚われます。このようにして、それぞれの状況や環 デーヴァ 境に応じて神々や人間や動物などの体が与えられるのです

ヴェーダ文典で説明されているように、様々な生命形態の中に入れられている生命 体は至上主の部分体です。マーヤーヴァーデイー哲学者は個別魂がパラマートマーで あると考えていますが、それは誤りです。そのような誤解は、パラマートマー(すべての 生命体の心臓の中に座っている今ハガヴァーンの姿)と個別生命体がともに同じ体の中 に入っているために生じたものです。個別魂とスーパーソウルの間には歴然とした違 いがあり、その違いは『ヴァラーハ・プラーナ』で次のように説明されています℃すなわ ち、至上主には二種類の部分体があり、生命体はヴイビンナーンシャであり、そして至上主の完全拡張体であるどフマiトマーはスヴァーンシャと呼ばれています美パガ ヴァーンのスヴァーンシャ拡張体はバガヴァーン自身と同じ力を持ち、至上者自身と 至上者のパラマートマー拡張体の間には力の相違がまったくありません。しかし、ヴィ ビンナーンシャ部分体は主の力を部分的にごくわずかな量だけしか持っていません。 『ナーラダ・パンチャラートラ』に述べられているように、生命体は至上主の中間エネル ギーであり、精神的存在として至上主とまったく同じ性質を持ちながらも物質的な性 質に影響される傾向があります。微小存在である生命体は物質的な質の影響を受けや すいためにジーヴァと呼ばれるのに対し、バガヴァーンはシヴァ(完全に吉兆なお方) と呼ばれます。シヴァとジーヴァの相違点は、完全に吉兆なお方シヴァが物質的な性質 にまったく影響されないのに対し、バガヴァーンの部分体としての微小存在であるジー ヴァが物質自然の性質に容易に左右されるという点にあります。 

全生命体は主の部分体である一方、その体に入っているスーパーソウルは生命体に とって崇拝すべき存在です。したがって、偉大な聖者たちは、膜想とは個別生命体がスー パーソウル(ヴィシュヌ)に集中することであると結論しています。それが真のサマー ディです。生命体は自分自身の力で物質の束縛から逃れることはできません。ですから 私たちは、体の内に座っていらっしゃる至上主(スーパーソウル)の蓮華の御足への献身奉仕を行なわなければならないのです。この点に関して『シュリーマド・含ハーガヴァ タム』の偉大な解説者であるシュリーダラ・スワーミーは次のような節を書いています。 「親愛なる主よ、私は御身の永遠の部分体ですが、物質的な力によって縛られており ます。この物質エネルギーもまた御身から現われ出たものです。御身は一切万物の根本 原因として、私の体の中にスーパーソウルの姿でお入りになっていらっしやいます。し たがって、私は本来御身とともに知識と至福に満ちた至上の生活を楽しむべき存在で す。おお親愛なる主よ、御身に愛情奉仕を捧げるように私にお命じください。そうすれ ば、私は再び超越的な本来の至福の立場に戻ることができましよう」 。

偉大な人物たちは物質界に囚われている生命体が自らの努力では自由になれないこ とを理解し、揺るがい信念と献身によって超越的な愛の奉仕を主に捧げる、とヴェーダ 権化たちは結論しています。

ヴェーダ権化たちは言葉を続けます。 「親愛なる主よ、絶対真理について完壁な知識を得ることは非常に困難なことです。 御身は堕落した魂に非常に慈悲深いお方でいらっしやいますので、様々な化身の姿と なってお現われになり、様々な活動を行なわれます。主は歴史上の人物としてもお現わ りlラー リーラー れになり、その遊戯がヴェーダ文典に記述されています。御身の遊戯は超越的な至福の海と同じく魅力に満ちたものです。一般の人々は普通一般のジーヴァを称える物語をい Ⅲノ‐’一フー ひ会」つ 好んで読みます。しかし、御身の超越的な遊戯を描くヴェーダ文典に惹付けられた者は利l ひた 超越的な至福の海に実際に浸ることができます。疲れた人が泉に入れば爽やかな気分 リーラー になるように、物質的な活動に疲れ果てた束縛された魂も、ただ御身の遊戯の超越的な 海に浸るだけで、物質的な活動の疲れを完全に忘れて心機一転することができるので す。したがって、最も知性ある献身者は、自己の悟りを求めて他の道に頼ることなく、た だ献身奉仕のみを行ない、献身奉仕の九つの方法の中でも、特に、聞き唱えることを常 リーーフー に行なうのです。献身者は御身の超越的な遊戯について聞き唱える時、至上存在に解け 込む解放の至福さえも気にかけなくなります。純粋な献身者はいわゆる解放にさえも 関心がないのですから、高度な感覚満足を求めて天界の惑星に昇ることに興味がない のは言うまでもありません。純粋な献身者が求めるものは、ただパラマハンサ(解放さ れた第一級の献身者)との交際だけです。彼らはただ御身の栄光を絶えることなく聞き、 唱え続けます。そして、主について聞き唱えるためには、生きていく上でのいわゆる喜 だんらん びさえも惜しみません。家庭生活の団繁や、いわゆる交際、友情、愛情さえも捨ててしまナ ユ うのです。ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハシ リ レー・ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレーを唱え、御身の光の超越的な響きを味わう者は、他の精神的至福や物質的快楽には気を取られないの です。それらは純粋な献身者にとって、ただ道端の草ほどの価値もありません」 。  

ヴェーダ権化たちは祈りを続けます。こころ 「親愛なる主よ、完全なクリシュナ意識で献身奉仕を行ない、思惟、感覚、知性を浄化 こころ こころ した人にとって、思惟は友となります。それができない者にとって思惟は常に敵です。 こころ こころ 思惟が主への献身奉仕に対して揺れ動かず不動となった時、思惟は常に至上主に寄せ られるので真の友となります。御身は生命体にとっての永遠の愛情の対象です。ですか こころ ら、思惟が御身に寄せられる時、ただちに大きな満足が得られます。生と死の繰り返し こころ の中で求め続けた偉大な喜びが達成できるのです。このように思惟がバガヴァーンの 蓮華の御足にしっかりと寄せられたなら、自己の悟りを得るために他の劣った崇拝や デーヴア 方法を行なう必要がなくなります。神々を崇拝したり、自己の悟りを求めて他の方法を 行なうなら、生死の繰り返しのいけにえとなってしまいます。

犬や猫のような低い生命半イ 形態に入ることがいかに堕ちた段階であるのかは、誰にも想像できないほどです」 ひきつ 主への献身奉仕を行なわず、ただ哲学的思索や果報的活動のみに惹付けられている 人は毒を飲んでいるのと同じだ、とシュリー・ナローッタマ・ダース・タークルは歌って います。そのような人々は様々な生命形態の中に生まれ変わらされ、肉食や陶酔物など 。

「親愛なる主よ、高い学識を持つ神秘ョIギーは数多くいて、人生の最高完成を達成 こころ しようと努めています。彼らは生命の気を支配し、思惟をヴィシュヌの姿に集中させ、 感覚を厳格に支配してョ-ガの行法を行なうのですが、たとえ精励刻苦して原則にし たがったとしても、その最終到着地点は御身に敵意を持つ悪魔と同じです。つまり、ョI ギーや偉大な哲学的思索家の到達地点は非人格的ブラフマジョーティの光輝であり、主に敵対する悪魔も最終的にはこのブラフマンの光輝に入って行くのです。カムサ、シ シュパーラやダンタヴァクラなどの悪魔も零ハガヴァーンを絶えず膜想していたので、 ブラフマンの光輝に入ることができました。一方、ゴーピーたちはクリシュナに魅惑さ ひきつ れ、その美しさに惹付けられていました。ただクリシュナだけに向けられたゴーピーた ちの想いは愛の欲望に満ちていて、美しい蛇に似たクリシュナの腕にただ抱きしめら れることを願っていたのです。同じように、われわれヴェーダ讃歌の権化も御身の蓮華 .こころ の御足に思惟を集中しております。ゴーピーたちが御身に想いを寄せていたのは愛の 欲望によるものでした・私たちは精神界に帰るために御身の蓮華の御足に集中してお こころ ります。悪魔はいかにして御身を殺そうかと思惟を御身に集中し、ョIギーは御身の非 人格的光輝に入ろうと厳しい苦行を行なっています。このように、様々な人々が各々の こころ 方法で思惟を働かせているのですが、彼らはそれぞれの状況に応じて精神的成功を達 成します。なぜなら、御身は献身者たちに対して平等でいらっしやるからです」 。  

シュリーダラ・スワーミーはこのことに関して「親愛なる主よ、御身の蓮華の御足を いつも想うことはたいへん難しいことです。しかし、御身に対する大きな愛を得て、御 身に常に超越的な愛情奉仕を捧げている偉大な聖者の方々にとっては、それはたやす いことです。親愛なる主よ、たとえわずかの間でもかまいません。どうか私の想いが御身の蓮華の御足に寄せられますように」という節を祈りとして捧げています。 

様々な精神主義者が精神的完成を達成することについて「ハガヴァッド・ギーター』 では、主は献身者の服従した程度に応じて、その望みをかなえると説明されています。 マーヤーヴァーデイー、ョ-ギーや悪魔たちは主の超越的な光輝の中に入って行きま すが、ヴリンダーヴァンの住民の足跡にしたがうヴァイシュナヴァや献身奉仕の原則 に厳格にしたがう献身者は、クリシュナが直接住んでいらっしゃる惑星(ゴーローヵ・ ヴリンダーヴアン)やヴァイクンタ惑星に入って行きます。マーヤーヴァーディーもヴァ イシュナヴァも精神的領域に達しますが、マーヤーヴァーディーが非人格的なブラフ マンの光輝に入るのに対し、ヴァイシュナヴァはヴァイクンタ惑星やヴリンダーヴァ ン惑星に住む場所が与えられます。なぜなら、彼らは様々な味わいの中で主に仕えたい と望んでいるからです。 

ヴェーダ権化たちが述べているように、物質界の創造後に生まれた者は、いくら物質 もと 的な知識に基づいて考えても、バガヴァーンの存在を知ることはできません。自分が生 まれる前にこの世を去った曾祖父を知ることができないのと同じで、精神界に永遠に 住んでいらっしやるバガヴァーンすなわちナーラーヤンやクリシュナのことは、私た ちには理解できないのです。『バガヴァッド・ギーター』の第八章に明らかにされている ょうに至上主の精神王国(サナータナ・ダーマ)に永遠に住んでいらっしやる至上主に 近づく方法は献身奉仕しかありません。

物質宇宙で最初に誕生したのがブラフマーです。ガルボーダカシャーイー・ヴイシュ ヘそ ヌの膳から蓮華の花が現われ出て、その花の上にブラフマーが誕生する以前は、宇宙に は何もなくただ闇しかありませんでした。ガルボーダカシャーイー・ヴイシュヌはカー ラノーダカシャーイー・ヴィシュヌの拡張体で、そのカーラノーダカシャーイー・ヴイ シュヌはサンカルシャンの拡張体です。サンカルシャンはバララーマの拡張体で、バラ .デーヴァ ラーマは主クリシュナの最初の拡張体です。ブラフマーが創造された後、二種類の神々 が生まれました。一つはサナカ、サナータナ、サナンダナ、サナト・クマーラの四兄弟の デーヴァ ように俗世の快楽を捨て去った神々で、他方はマリーチやその子孫のように俗世を楽 デーヴァ デーヴア しむ神々です。この二種類の神々から全生命体が現われ出てきました。当然人間もその デーヴァ 中に含まれています。このように宇宙創造の歴史全体から見れば、ブラフマー、神々や ラークシャサをはじめとする物質界に住む生命体は、歴史が浅く、つい最近生まれた者 であると見なされます。生まれて日の浅い者がはるか遠い祖先を知らないように、精神 界にいらっしゃる至上主のことを知る者は物質界には一人もいません。なぜなら、物質 界はつい最近創造されたものだからです。物質界に現われているすべて(時間要素、生命体ヴェーダ粗荒要素細妙要素など)は確かに永年にわたって存在していますが、伊すべてある時点で創造されたものです。創造された宇宙内の万物も、そして創造の起源利1 を追究する方法とされている道も、両方とも現代的なものです。 

したがって、果報的活動、哲学的思索や神秘ョlガを通じて自己の悟りや至上主の悟 りを得ようとしても、万物の起源に到達することはできません・物質界が完全に破壊さ れ、ヴェーダ、物質的時間、粗荒体や細妙体が存在しなくなり、そして全生命体が未顕現 ねむ 状態でナーラーヤンの中で眠っている時、人間が作り出した道は当然すべて無効とな り、効力を発揮しなくなります。それに対して、献身奉仕は永遠なる精神界で永遠に行 なわれています。したがって、自己と主を悟る真の方法は献身奉仕です。献身奉仕を始 めるならば、主の悟りを得るための真の方法を受け入れたことになるのです。

これに関 して、シュリーラ・シュリーダラ・スワーミーは、万物の究極的な起源であるバガヴァー ンはあまりにも偉大で無限なる存在なので、物質的な修練によって至上主を理解する うた ことは不可能であると躯っています。したがって、私たちは献身奉仕を求めて主に祈る おん‐ちょう くきです。主への献身奉仕を永遠に行なうことによって、主の恩寵を得て万物の究極的ナ ユ 起源が理解できるようになるのです。万物の究極的な源でいらっしゃる至上主は、ただシ ・リ 献身者にしか姿をお現わしになりません。『琴ハガヴァッド・ギーター』の第四章で主はルジュナに「愛しいアルジュナよ、お前は私の献身者であり親友でもあるので、私を理 解する方法を明かしてあげよう」とおっしゃっています。このように、万物の起源でい らっしゃる零ハガヴァーンを知るのは、自分自身の力だけではいくら努力を重ねても不 みずか 可能です。私たちが献身奉仕によって主を喜ばせる時にはじめて、主が私たちに自らを お示しくださるのです。しかし、それでも無限なる主を完全に理解し尽くすことはできません。

哲学的思索によって万物の起源を理解しようとしている哲学者には、様々な流派が あります。一般には、サッド・ダルシャンと呼ばれる六派の思索家がいて、その六派哲学 者のいずれもが非人格的な哲学を持つマーヤーヴァーデイーです。六派哲学のそれぞ れが独自の哲学的見解を打ち立てようとしたのですが、しかし、後にはそれぞれが妥協 し合って、最終的にはすべての目的は一つであり、すべてが正しいと認め合っています。 しかし、ヴェーダ権化たちの祈りによればそのいずれの見解も正しいものではありま せん。なぜなら、哲学的思索家の方法論は一時的な物質界の中で作り上げられたものだ からです。いずれの哲学も最も重要な点を見逃しています。つまり、絶対真理であるバ ガヴァーンを理解する方法は唯一献身奉仕しかないということです。 

ジャイミニに代表されるミーマーンサカ哲学者の結論は、人間は誰もが敬虐な活動を行ない所定の義務を遂行すべきであり、それによって星局完成へと導かれるという的 もじりノ 、iし ものです。しかし、この見解は「ハガヴァッド・ギーター』の第九章の記述と矛盾していイー けいけん ます。主クリシュナがおつしやっているように、敬虐な活動を行なえば天界の惑星に昇 けいけん ることができますが、そこで蓄積した敬虐な活動の結果が消費されてしまえば、天界の お 惑星を追われて再び低い惑星へと堕ちて行かなければなりません。その結果、天界での 高水準の物質的快楽はもはや得られず、寿命も短く、手に入る喜びも低いものとなりま けいけん す。したがって、敬度な活動によって絶対真理に至ることができるというミーマーンサ カ哲学の結論は、正しいものとは言えません。もちろん、純粋な献身者のふるまいは敬 おんちょう 度なものですが、ただ敬度な行ないをするだけでは主の恩寵を得ることはできません。 けが 敬虐な行ないをすれば、激情と無知による汚れは洗い落とすことができます。しかし、 献身者は「ハガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』などの教典に述 べられているバガヴァーンの超越的な言葉をいつも聞いているので、自動的に浄化さ れます。『ハガヴァッド・ギーター』に述べられているように、敬虐な活動の段階に到達 していない人でも、献身奉仕を行なうならば、精神的完成の道に向かって正しく進んでナ ユ いることになるのです。その他にも「ハガヴァッド・ギーター』では、愛と献身をもってシ リ 献身奉仕を行なっている人は今ハガヴァーンによって内面からの導きが授けられると

サーンキャ哲学もそれと同じです。サーンキャ哲学は形而上学もしくは物質的科学 みずか です。自ら開発した科学的方法論によって宇宙を研究するこの種の学者は、主が最高の 権威者であることを認めず、宇宙全体が主によって創造されたことを受け入れません。 彼らの結論では、宇宙創造の根本原因が物質要素間の相互作用だとされています。しか し「バガヴァッド・ギーター』はそのような理論を認めません。『バガヴァッド・ギーター』 に明らかにされているように、宇宙の動きの背後にはバガヴァーンの指示が存在して います。ヴェーダには「宇宙創造の起源は、宇宙創造の以前から存在していた」と述べら れています。したがって、物質要素は物質創造の起源とはなり得ません。物質要素は確 かに物質的な原因と言えますが、究極的には一切万物の根本原因はバガヴァーン自身 です。したがって『バガヴァッド・ギーター』には、物質自然はクリシュナの指示のもと に動いていると述べられています。

的なものであるので、その起源も一時的であるというものです。しかし、それは真理で はありません。根本的な起源がバガヴァーンであり、宇宙は主の物質エネルギーが一時 的に現われたものであるという結論こそが、真理です。一時的な物質界が破壊された後 も、その起源である精神界はそのまま永遠に存在し続けます。したがって、精神界はサ ナータナ・ダーマ(永遠の地)と呼ばれます。このように、サーンキャ哲学の結論は根拠がなく説得力に欠けます。 無神論サーンキャ哲学の結論は虚無主義哲学であり、物質界の動きは一時的で幻想

次に、ゴウタマとカナーダの哲学があります。この二人は物質要素の作用と反作用を 詳細に研究した結果、物質界は原子の様々な組み合わせによって創造されたと結論し ました。現代の物質的科学者もまたゴウタマとカナーダによるこのパラマーヌヴァー ダ哲学にしたがっているのです。しかし、この理論もまた認めることはできません。な ぜなら、自分自身で動く力のない原子は、万物の根本原因とはなり得ないからです。原 子が万物の根本原因でないことは、「ハガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガ ヴァタム』の他にも、様々なヴェーダ文典によって明らかです。ヴェーダ文典には、「創 造以前にはただナーラーヤンだけが存在した」という記述が見られます。また『シュリー マド・等ハーガヴァタム』や『ヴェーダーンタ・スートラ』には、万物の根本原因は意識を持 つ存在であり直接的間接的に創造界の中の一切万物を知っていると述べられています。 一パガヴァッド・ギーター』の中でクリシュナは「私が万物の源である」、そして一万物は 私から生まれ出た」と述べていらっしやいます。このように原子は確かに物質界を構成 する基本要素ですが、その原子はバガヴァーンから発現したものです。したがって、ゴ ゥタマとカーナダの提唱する哲学もまた支持することはできません。 

その他にもアシュターヴァクラや後のシャンカラーチャーリャを筆頭とするマーヤー ヴァーディー哲学者がいます。その結論によれば、非人格的ブラフマンの光輝が万物の 根本であるとされ、さらに、物質界が一時的非真実の存在であるのに対し、非人格的ブ ラフマンの光輝こそが真実の存在だとされています。しかしながら、この理論もまた承 認できません。なぜなら主自身が『バガヴァッド・ギーター』の中で「このブラフマンの 光輝は私自身から発せられたものである」と述べていらっしやるからです。「ブラフマ・ サンヒター』でも、ブラフマンの光輝がクリシュナの体から発せられたものであると述 べられています。したがって、非人格的ブラフマンの光輝は宇宙の根本原因ではありま せん。まったく完全なるお方、そして全知なるお方、バガヴァーンこそが万物の根本原因なのです。

マーヤーヴァーディー哲学者が唱える理論の中でも雫特に危険なのが|どの世界に降 誕する際、至上主は物質自然の三様式によって作られた物質的な体を受け入れる」という点です。このマーヤーヴァーダ哲学は主チャイタンニャによって最も侮辱的なもの であると批判されています。バガヴァーンの超越的な体が物質自然によって作られた ものであるという考えは、主ヴイシュヌの蓮華の御足に対する最大の侮辱であると主 チャイタンニャはおつしやいました。また「ハガヴァッド・ギーター』でも、愚者や不徳 やからあなど の輩だけが、人間の姿で降誕されたバガヴァーンを侮ると記述されています。主クリシュ ナ、主ラーマ、そして主チャイタンニャもこの人間社会で人間としてふるまっていらっしやったのです。

ヴェーダ権化たちはマーヤーヴァーディー哲学者たちの概念が甚だしい誤解である と批判しています。『ブラフマ・サンヒター』では、バガヴァーンの体は「アーナンダ・チ ン・マヤ・ラサ」であると述べられています。、ハガヴァーンの体は精神的なものであって、 物質ではありません・主は、体のどの部分ででもすゃへてのものを楽しむことができます。 ゆえん これが主が全能者と呼ばれる由縁です。物質的な体は、手なら手、足なら足の働きしか つか することができません。たとえば、手は物を掴むことはできますが見ることはできませ ん。しかし、バガヴァーンの体はアーナンダ・チン・マヤ・ラサすなわちサッチダーナン ダ・ヴイグラハなので、体のどの部分ででも、あらゆるものを楽しみ、どのようなことで も行なうことができるのです。主の精神的な体が物質的なものであると考えるのは、( ガヴァーンと束縛された魂を同じ段階に置こうとする心情の現われです。束縛された 魂の体は物質的なものです。したがって至上主の体も物質的なものであるとするなら ば、バガヴァーンと生命体が一つであり対等であるというマーヤーヴァーダ哲学を広 めることが容易になるわけです。 

Ⅱノーーフー‐ たと 主はこの世界に降誕して様々な遊戯を繰り広げられます。例えば、子供の頃は母ヤ ひざ ショーダーの膝でお眠りになり、また大きくなってからは悪魔を懲らしめられました。 しかし、一見するとまったく異なるその二つの姿には、何ら違いがありません・主が子 供の頃プータナー、トリナーヴァルタやアガースラなどの悪魔と戦われた際に発揮さ れた力は、主の青年時代にダンタヴァクラやシシュパーラなどの悪魔と対決した時の 力に比べてまったく劣ってはいません・物質の体というものは、変化後すぐに以前の体 を忘れてしまいます。しかしながら『バガヴァッド・ギーター』から理解できるように、 クリシュナの体はサッチダーナンダ・ヴィグラハなので、主は何百万年もの太古の昔に 太陽神に教えを授けたことすらもお忘れにならないのです。このように、主は精神界と 物質界の両方を超越していらっしゃのるで、プルショーッタマと呼ばれます。主が一切 万物の根本原因であるということは、主が物質界の起源であるばかりか、精神界の源で もいらっしゃることを意味しています。バガヴァーンは全知全能のお方でいらっしやいます。一方、物質の体は全知全能にはなり得ません雲したがって、明らかに主の体は物 質の体ではありません。マーヤーヴァーダ理論によればバガヴァーンが降誕する際に は物質的な体で降りて来るとされていますが、そのような理論は決して受け入れられません。

以上で見てきたように、物質的な哲学者たちの理論はまさに夢の中で思いついた話 のように、一時的幻想から生まれ出たものです。そのような結論にしたがうなら、決し て絶対真理に到達することはできません。絶対真理を悟る唯一の方法は献身奉仕のみ です。主が『バガヴァッド・ギーター』でおっしゃっているように、「ただ献身奉仕によっ てのみ私を理解することができる」のです。シュリーラやシュリーダラ・スワーミーはこい‐ど れに関して「愛しい主よ、虚偽の議論も、無味乾燥な思索も、そして哲学大論文を著作す ることも私の仕事ではありません・それらを望む者たちは、、ハガヴァーンについて無知 うぬぽ であるにもかかわらず、自分が大学者だと自惚れているのですから、無知と幻想の闇を 散策でもしていてもらいましょう。しかし、この私はマーダヴァ、ヴァーマナ、トリナヤ ナ、サンカルシャン、シュリーパティ、そしてゴーヴィンダなど、バガヴァーンの聖なる 御名をただ唱えて、解放を達成するのが唯一の望みでございます」と祈っています。 ヴェーダ権化たちは言いました。bルー おんちkう 「愛しい主よ、御身の恩寵がなければ、御身の超越的な立場について正しい結論に達 することは不可能です。そして正しい結論に到達した者は、思索家や哲学者により創ら わずら れた様々な理論にはもはや煩わされなくなります」 。

これはゴゥタマ、カーナダ、パタンジャリ、そしてカピラニリーシュヴァラ)の思索 的理論について語ったものです。カピラに関しては、同名の人物が二人います。カルダ マ・ムニの息子カピラはバガヴァーンの化身ですが、他方のカピラは現代の無神論者で す。バガヴァーンの化身カピラはスヴァーヤンブヴァ・マヌの時代にカルダマ・ムニの 息子として降誕されたのですが、しかしながら無神論者カピラとバガヴァーンの化身 カピラが混同されることがあります・真のカピラはバガヴァーンの化身であって、はる か太古の昔に降誕されました・現代はヴァイヴァスヴァタ・マヌの時代ですが、主カピ ラが降誕されたのはスヴァーヤンブヴァ・マヌの時代です。 

マーヤーヴァーダ哲学によれば、この顕現世界(物質界)はミテャーもしくはマーヤー (幻想)です。マーヤーヴァーディーの基本的な主張は「ブラフマ・サッテャン・ジャガン・ミッテャー」です。これはブラフマンの光輝だけが真実であって、宇宙は幻想・虚偽であ るという意味です。しかし、ヴァイシュナヴァ哲学によればこの宇宙はバガヴアーンか ら発現したものです。『バガヴァッド・ギーター』で主が語っていらっしやるように、主が完全拡張体の姿で物質界にお入りになり●それによって宇宙謙造が行なわれるので す。ヴェーダにも述べられているように、このアサット(一時的な物質宇宙)は至上のサッ ト(真実)から発現したものです。『ヴェーダーンタ・スートラ』にも述べられていますが、 万物は至上ブラフマンから現われ出たものです。したがって、ヴァイシュナヴァはこの 宇宙が虚偽であるとは考えません。ヴァイシュナヴァ哲学者は、世界中のすべてを至上 主との関係において見るのです。 

ヴァイシュナヴァが物質界に関してどのような概念を持っているかについて、シュ リーラ・ルーパ。ゴースワーミーがうまく説いています。すなわち、物質界が至上主から 現われ出たものであることを知らずに、物質界を幻想や虚偽として放棄することは、実 際には何の価値もないことなのです。ヴァイシュナヴァはそのような放棄者とは異な り、物質界には執着しません。なぜなら、物質界というものは一般に感覚満足の対象と されているのですが、ヴァイシュナヴァは感覚満足を好まず、物質的な事柄に無執着だ からです。ヴァイシュナヴァはヴェーダの教えの規定原則にしたがって物質界を受け 入れます。バガヴァーンが万物の根本原因でいらっしゃるので、物質界にいる間でさえ もと も、ヴァイシュナヴァはすべてをクリシュナとの関係に基づいて見るのです。そのよう な高い知識によって、すべてが精神化されますpすなわち、物質界の中のすべてはすでに精神的存在なのですが、知識が欠けているために物質的であると見えているにすぎないのです。 

ヴェーダ権化たちは次のような例をあげています。黄金のイヤリングや寺ハングルは 金の原石とは違った形をしていますが、しかし、金の原石を探している人は、黄金製の 装飾品と原石の形が違うからといって金の装飾品を捨て去ったりはしません・全生命 体は至上主の部分体であって、質的には至上主と生命体は同じです。黄金の例と同じよ うに、生命体は八百四十万種類の様々異なった姿を取っています。黄の原金を探してい る人が色々な形をした金の装飾品を受け入れるように、全生命体が至上主と同じ質を 持つことを十分に知っているヴァイシュナヴァは、全生命体を至上主の召使として受 け入れます。したがって、ヴァイシュナヴァとして寺ハガヴァーンに仕える機会は無限に あります。束縛され、誤って導かれている魂にクリシュナ意識をただ教え、精神界へと こころ 導けばよいのです。現段階では生命体は思惟が物質自然の三様式によって乱され、誤っ た方向に導かれています。私たちは、ちょうど夢の中で別の体の中に入るように、様々 な体の中を転生しています。しかし物質的意識が変化してクリシュナ意識となったな と ら、ただちにハートの中にクリシュナを固く留め置くことができるようになり、解放へ の道が確実なものとなるのです。

ヴェーダ文典の中では雲パガヴァーンと生命体は同じ質を持ち両者ともにチャイタ ンニャ(精神的存在)であると述べられています。これに関しては「ハドマ・プラーナ』に も「二つの精神的存在があり、一つはジーヴァ、他方は至上主と呼ばれる」と述べられて アリ います。主ブラフマーから蟻に至るまで、全生命体はジーヴァですが、主は四本の腕を 持つ至上なるお方ジャナールダナでいらっしゃいます。アートマーという語は本来等ハ ガヴァーンを意味しますが、生命体は主の部分体であるために、アートマーが生命体を 意味する場合もあります。その意味において生命体はジーヴァートマ-、至上主はパラ マートマーと呼ばれます。パラマートマーとジーヴァートマIがともに物質界に存在 しています。したがって、物質界には感覚満足以外の目的があるのです。人生の目的が 感覚満足であると考えることは幻想です。しかし、ジーヴァートマ-がパラマートマー に仕えることは、たとえその奉仕が物質界の中で行なわれたとしても、幻想ではありま せん。クリシュナ意識の人はこの事実を完全に知っているので、物質界が虚偽であると は考えず、ただ超越的奉仕という現実の中で行動します。したがって、献身者は物質界 全体を主に仕える機会であると見ます。したがって、物質的であるという理由で物を放 棄することは決してありません。ただすべてを主の奉仕に使うのです。このような姿勢 を持つ献身者は決して超越的な段階からそれることがありません。献身者が使うすべての物は主への奉仕によって精神化されるのです。 

シュリーダラ・スワーミーはこれに関して「物質界が虚偽の場所であると考える者た ちもいます。しかし、その物質界の中にさえ寺ハガヴァーンは真実としてお現われになつ しる ています。そのような主をただ崇拝します」という一節を記しています。物質界が虚偽 であると考えるのは無知のなせるわざですが、クリシュナ意識の高い知識を持つ人は、 すべての中にバガヴァーンを見ることができます。これが「一切はブラフマンなり」と いうヴェーダの警句の真の悟りなのです。 

ヴェーダ権化たちは祈りの言葉を続けます。 とぽ 「親愛なる主よ、知性の乏しい者は献身奉仕以外の道によって自己の悟りを達成しよ けが うとします。しかし実際には、完全に純粋な献身者にならない限り、物質の汚れからは い‐と 解放されず、生と死の繰り返しからは自由になることができません。愛しい主よ、ヴェー ダに述べられているように、万物は御身の力によって維持され、すべての者は御身によっ デーヴァ て生かされています。このように御身は、全生命体、すなわち神々、人間や動物を守り、 支えていらっしゃいます。すべての者は御身によって維持され、そして御身はすべての 者の心臓の中に住んでいらっしゃいます。したがって、御身こそが全宇宙の根本原因な るお方でいらっしゃいます。献身者はそれることなく御身に献身奉仕を捧げることによって常に御身を崇拝しているのです。宇宙を樹木にたとえるなら常に御身に仕えて いる献身者は木の根に水をやっていることになります。したがって、献身奉仕を行なえ ば御身バガヴァーンに喜んで頂けるばかりではありません。他のすべての者も満足を 得ることができるのです。なぜなら、すべてがバガヴァーンによって維持され生かされ ているからです。献身者はバガヴァーンがすべての場所に常にいらっしゃることをよ く知っているので、彼らこそが最も実際的な博愛・利他主義者であると言えます。その ような純粋な献身者は完全にクリシュナ意識なので、生と死の繰り返しをいとも簡単 に乗り越えて、死の権化の頭さえも飛び越してしまうのです」  。

献身者は決して死、すなわち体の変化を恐れません。完全にクリシュナ意識となって いるために、たとえ精神界に帰らず別の物質的な体に転生したとしても、献身者は何も 恐れる必要がありません。その最も良い例がバラタ・マハーラージです。彼は生まれ変 けが わって鹿となったのですが、その後の生涯では物質的な汚れから完全に自由となり、主 め の王国へと召されました。『バガヴァッド・ギーター』に述。へられているように、献身者 は決して滅びません・献身者には精神王国の主のもとへと帰る道が保証されています。 ある一度の生涯で道から滑り落ちたとしても、クリシュナ意識を続けていくならば、さ め らなる歩みを進めて、ついには主の王国に召されるのです。純粋な献身者は自分だけを浄化するのではありません。その弟子となった者も浄化され、最終的には簡単に精神界 へと帰ることができるのです。純粋な献身者は自分一人で生と死を安々と越えて行く おん、ちよう のではありません。純粋な献身者の恩寵によって、その教えにしたがう者も難なく輪廻 転生を克服することができるのです。献身奉仕の力は非常に偉大なものなので、純粋な 献身者は超越的な教えによって他の人々を導き、無知の大海を越えさせることができ るのですわ 。

純粋な献身者は弟子に難しい教えを授けるわけではありません。その教えはいたっ て簡単です。純粋な献身者の足跡にしたがうことは、誰にとっても決して難しいことで はありません・主ブラフマー、主シヴァ、四人のクマーラ、マヌ、カピラ、プララーダ王、 ジャナカ王、シュカデーヴァ・ゴースワーミーやヤマラージなどの著名な献身者を創設 とびら 者とする師弟継承にしたがう人には、解放への扉がいとも簡単に開かれます。一方、非 献身者がジュニャーナ、ョ-ガやカルマなどの道を修練したとしても、それらは不確実 けが けが な道なので、彼らはまだ汚れた段階にあるとされます。そのような汚れた人は、自己の 悟りの高い段階にあるように見えたとしても、自分自身を解放することさえできませ ん・したがうて、弟子や従者を解放へ導くことは言うまでもなく不可能です。そのよう寺Lし」 な非献身者は首をつながれた動物に例えられます。首をつながれた動物は鎖の届く範囲しか動くことができません。それと同じように非献身者はそれぞれの特定の信仰形 態の形式を越えることができません。『バガヴァッド・ギーター』の中では八そのような 者たちはヴェーダ・ヴァーダとして批判されています。ヴェーダ・ヴァーダたちは、ヴェー ダが物質自然の三様式すなわち徳・激情・無知の様式のふるまいを記述しているという ことが理解できないのです。 主は『バガヴァッド・ギーター』でアルジュナに対して、「ヴェーダに規定されている いし」 義務を越え、クリシュナ意識すなわち献身奉仕を受け入れよ」と説き、そしてまた「愛し いアルジュナよ、ヴェーダ儀式を越えよ」ともおっしゃっています。ヴェーダ儀式を越 えた超越的な状態とは献身奉仕のことです。さらに主は「それることなく私に献身奉仕 を捧げる者はブラフマンの段階にある」と述べていらっしゃいます。真のブラフマンの 悟りとはクリシュナ意識のことであり、献身奉仕を行なうことを意味しています。献身 者はいつもクリシュナ意識で献身奉仕を行なっているので、真のブラフマチャーリーと呼ばれます。 

したがって、私たちはすべての宗教者に対してクリシ『一ナ意識運動に参加するよう 偉大なる権威をもって声高らかに訴えかけています。なぜなら、クリシュナ意識運動に よって、誰もがいかに至上主を愛するかを学び、その結果、教典に定められているすべての教義や形式を越えることができるからです。型にはまった宗教原則だけに固執し ている人は、飼い主に首をつながれた動物と同じです。あらゆる宗教の目的は至上主を ねむ 愛し、眠っている主への愛を目覚めさせることです。ただ宗教的な教義や形式だけにと らわれて主への愛の段階に到達できない人は、首をつながれた動物です。つまり、クリ けが シュナ意識でない人は物質界の汚れから解放されないのです。 

シュリーラ・シュリーダラ・スワーミーは、 「苦行をしても、丘の頂上から飛び降りて自殺をしても、解放を求めて数多くの聖地 を巡礼しても、哲学やヴェーダ文典を詳しく研究したとしても、また神秘ョ-ギーが膜 想的奉仕を行ない、様々な学派がどの学派が最高であるのかと無駄な議論を重ねたと しても、クリシユナ意識でない限り、献身奉仕を行なわない限り、そして、バガヴァーン の慈悲を授からない限り、物質界の大海を渡りきることはできません」 しる という一節を記しています。したがって、知性ある人は決まりきった概念を捨て、真 の解放を求めてクリシュナ意識運動に参加するのです。 

ヴェーダ権化たちは祈りを続けます。 「親愛なる主よ、御身の非人格的様相についてはヴェーダ文典に記述があります。御 身は、手がないにもかかわらず、捧げ物をお受け入れになり、足がないにもかかわらず、誰よりも速くお歩きになります。目をお持ちでないにもかかわらず、過去・現在・未来に わたって一切を見通していらっしゃいます。耳がないにもかかわらず、すべての言葉を こころ お聞き取りになります。そして、思惟の働きがないにもかかわらず、すべての者を知り、 す、へての者の行動やすべての者の過去・現在・未来をご存じでいらっしゃいます。しか し、御身を知る者は誰もいません。御身はすべての者をご存じでいらっしゃいますが、 御身を知る者は誰もいません。このように、御身こそが最古のお方、至上者でいらっしゃい、ます」

またヴェーダの那の部分にも同様の記述があり言主にはなすべき義務はない。主の 知識と力は完壁であるために、ただ主がお望みになるだけで一切が現われる。主と対等 まさ な者も、主に優る者もいない。誰もが主の召使として活動している」と述べられていま こころ す。ヴェーダの記述によれば、絶対者には足、手、目、耳や思惟がありませんが、主は様々 なエネルギーを通して行動し、全生命体に必要なものを供給されます。『バガヴァッド・ ギーター』に述べられているように、主はすべての場所に遍在していらっしゃるので、 すべての場所に主の手や足が存在します。全生命体の手、足、耳や目は、生命体の心臓の 位置に座っているスーパーソウルの指示によって動いています。スーパーソウルの存 在がなければ手足は動くことができません。バガヴァーンはあまりにも偉大で、他の何ものにも依存せず、完壁なお方でいらっしゃいます。したがって、たとえ手、足、耳や目 がなくとも、また、他の誰の助けがなくとも活動することができるのです。一方、主以外 の者は様々な感覚器官を働かせるためには主に頼らなければなりません。生命体は至 上主の指示と導きがなければ、まったく何もできないのです。

つまり、究極的に絶対真理は至上者です。しかし、主が様々なエネルギーを通して行 動されるために、物質的な人々の目にはそれが見えず、主が非人格的な存在であるよう たと に思えてしまうのです。例えば、花の絵には芸術家の技巧が込められています。色付け一」 やデッサンのために画家が細心の注意を払って技を凝らしたことは、誰の目にも明ら かです。咲き誇る花々の絵には画家の技が現われていますが、粗野な物質主義者は、大 自然の中に咲く花の示す芸術性が主の手によるものであることをどうしても理解する ことができず、絶対真理が非人格的存在であると結論するのです。絶対真理は最高人格 みずか 者であると同時に、他の何にも依存しない完全独立者でいらっしやいます。主が自らの 手で絵の具や筆を取り、花を描く必要はないのです。主自身だけが素晴らしいのではな く、主のエネルギーも素晴らしい働きをします。したがって、芸術家の助けがなくとも おの とぽ 花があたかも自ずと咲いたように見えるのです。知性の乏しい人だけが絶対真理を非 人格的存在であると考えます。なぜなら、主に奉仕を捧げない限り、主がどのようなふるまいをされるかを決して知ることができないからです。献身者でなければぐ王の名前 さえ知ることができません。主の行動と人格は、愛情に満ちた奉仕の態度を持った献身 者だけにしか明らかにされないのです。 

『ハガヴァッド・ギーター』に明らかにされているように、すべての供儀や苦行の結果 を楽しむのは主であり、主は「私がすべての惑星の所有者である」ともおっしゃってい ます。それがバガヴァーンの立場です。主はヴリンダーヴアンにいて永遠の交際者であ るゴーピーや牧童たちと楽しんでいらっしゃいますが、主のエネルギーは主の指示の しんらばんしよう リーーフー もとに森羅万象の中で作用しています。主の永遠の遊戯が主のエネルギーによって乱 されることはありません。 

バガヴァーンが非人格的様相と人格的様相を同時にお現わしになっていることを理 解する方法はただ一つ、献身奉仕を行なう以外にありません・主は至上の享楽者でいらっ おさ しやって、何千もの王や長が主の支配下で活動しています。バガヴァーンは至上の独立 性を持つ個人でいらっしゃいます。主ブラフマー、主シヴァ、インドラ(天界の王)、月神 デーヴァ や太陽神を含むすべての神々は、主の指示のもとに動いています。ヴェーダに述べられ ているように、太陽が輝き、風が吹き、炎が熱を発するのは今ハガヴァーンを恐れるがゆ えなのです。物質自然が物質界の中のすべての動くものと動かないものを造ります。し かし、そのいずれもが至上主の指示がなければ何もできず、至上主から独立的に活動や 創造を行なうことはできません。毎年、皇帝に税を納めなければならない諸候のように、 ただ従属者としてふるまうことしかできないのです。 

す季へての生命体はバガヴァーンに捧げられた食べ物だけを食べて生きるべきだと ヴェーダに述べられています。ヴェーダ文典によれば、供儀祭を行なう際には主ナーラ- つ ヤンが供儀の主宰神として至上の地位に就くべきだとされ、供儀祭が終わった後、主ナー デーヴア デーヴア ラーヤンに捧げられた供物が神々に配られます。このように、供物を神々に捧げること デーヴァ をヤジュニャ・ボーガといいます。すべての神々はそれぞれヤジュニャ・ボーガを供物 いただ デーヴァ として受け取り、主のプラサーダムとして戴くことになっています。結論として、神々 デーヴァ は主から独立して力を持っているのではないと言うことができます。神々はバガヴァー ンの命令を受けて従属的に活動する執行幹部と言えます。供儀祭では主ナーラーヤン デーヴァ がまず最初に供物を受け入れ、次いで神々がその供物をプラサーダムとして受け取り デーヴァ ます。神々は、主の計画にしたがって主の命令を遂行すべき存在です。つまりパガヴァー ンがすべての背後にいらっしゃって、主の命令が他の者たちによって遂行されるので す。表面的には主が非人格的な存在であるかのように見えるのはこのためです。粗野な 物質的世界観に立つならば、至上主が物質自然の非人格的な動きをいかに越えていらっしやるかを理解することはできません。したがって主は「ハガヴァッド・ギーター』で すぐ 主よりも優れた者はなく、人格的ブラフマンは主の体から発せられた光輝であり主に 従属するものだと述べていらっしやるのです。シュリーダラ・スワーミーはそれに関し て、尺ガヴァーンに尊敬の礼を捧げます。主には物質的感覚がないにもかかわらず、主 の指示と意志によって物質的感覚が働きます。主はす等へての物質的感覚の中の至上の 力であり、全能なるお方でいらっしやいます。そして、一切は究極的に主によって行な われます。したがい、主はすべての者から崇拝を受けるに値するお方です。そのような 至上者に、尊敬の礼を捧げます」と語っています。 

クリシュナは「ハガヴァッド・ギーター』で、主自身がプルショーッタマ(バガヴァー ン)であると述、へていらっしやいます。プルシャとは「人」、ウッタマとは「至上の」もし くは「超越的」という意味です。またの別の箇所では、主は意識のある者と意識のない物 を超越しているために、プルショーッタマと呼ばれると説明されています。また別の箇 所では、気が空間に満ちているように、す寺へての者は主の中にいて、誰もが主の指示の もとに動いていると記述されています。 

ヴェーダ権化たちは祈りの言葉を続けます。 「おお主よ、御身はすべての者に平等で、誰をも差別されません・全生命体は御身の部 分でありながら.束縛された生き方の中で様々な苦楽を味わっています。そのような生 命体はまさに火の粉のような存在です。炎の中で踊る火の粉のように、御身に支えられ て踊っているのです。御身は生命体にそれぞれの所望の物すべてをお授けになります デーヴァ が、各生命体が苦楽を味わうのは御身の責任ではありません・神々、人間、動物、樹木、鳥 類、獣、虫、細菌や水生動物など、様々な生命体がいて、それぞれが御身に支えられなが ら、それぞれの生活の中で苦楽を経験しているのです」

生命体には二種類あり、一つは永遠に解放された魂(ニッテャムクタ)、もう一つはニッ テャバッダと呼ばれます。ニッテャムクタは精神王国にいて、ニッテャバッダは物質界 とど に留まっています。精神界では、主も生命体も、ちょうど勢いよく燃える炎のように、本 来の姿で現われています。しかし物質界においては、主が非人格的様相ですべての場所 に遍在していらっしゃるのに対し、生命体はちょうど炎から落ちて本来の輝きを失っ てしまった火の粉のように、クリシュナ意識を忘れています。火の粉が乾いた草の上に あわ あわ 落ちて、炎となる場合もあります。それはちょうど、罪のない哀れな生命体を憐れむ純 粋な献身者にあたります。純粋な献身者は束縛された魂のハートの中にクリシュナ意 とも まばゆ 識の明かりを灯し、精神界の目映い光輝を物質界の中にさえも現わします。また、火の とたん 粉が水に落ちる場合もあります。火の粉が水に落ちた途端、本来の輝きは失われ、存在そのものがなくなったようになってしまいます。それは生まれた環境が物質的な人々 に囲まれている状態の人に相当します。そのような場合には、本来のクリシュナ意識が ほぼ消えてしまいます。また火の粉が地面に落ちて、燃えるに燃えられず消えるに消え られない場合もあります。以上の例のように、様々な生命体は、クリシュナ意識の者、ク リシュナ意識がまったくない者、そしてクリシュナ意識と非クリシュナ意識の中間に ある者に分けられます。主ブラフマー、インドラ、チャンドラや太陽神を筆頭とする天 デーヴァ デーヴ圭J 界の神々は、すべてクリシュナ意識です。人間社会は神々と動物の中間にあたるので、 人間の中には、多少クリシュナ意識を持っている人や完全にクリシュナ意識を忘れて いる人など、様々な人がいます。第三段階の生命体、すなわち動物、獣、植物や水生動物 は完全にクリシュナ意識を忘れています。火の粉と炎の例がヴェーダ文典に述べられ ていますが、その例は様々な生命体の状態を理解する上で非常に有益です。しかし、全 生命体の上にはバガヴァーン・クリシュナ、すなわち、あらゆる物質的状態から解放さ れたプルショーッタマがいらっしゃるのです。 

生命体がなぜ偶然に様々な生の段階に堕ちて来るのか、と疑問を持つ人もいるかも 知れません。この疑問に答えるためにまず理解すべき点は生命体は決して偶然の影響 を受けることはないということです。偶然はただ無生物だけにしか作用しません。ヴェーダ文典によれば、生命体は知識を持っているのでチャイタンニャ二知識者﹈の意)と呼 ばれます。したがって、生命体が様々な生の状態にあるのは偶然によるものではなく、 みずか 知識によって自ら選択した結果です。主は『バガヴァッド・ギーター』で「すべてを捨て 去り、ただ私に服従せよ」とおっしゃっています。他のすべてを放棄し、ただ主に服従す おのおの ることによって、誰もが至上主を理解することができるのです。しかし、各々の生命体 が主のこの提案を受け入れるかどうかは各自の選択にかかっています。「バガヴァッド・ いと ギーター』の最後の部分で、主クリシュナはアルジュナに対して「愛しいアルジュナよ、 これまでお前にすべてを語ってきた。今や、お前がそれを一受け入れるかどうかにすべて お がかかっている」と非常に率直におっしゃっています。物質界に堕ちて来た生命体は、 みずか 物質界を楽しむことを自ら選択したのです。何もクリシュナが私たちを無理矢理にこ の世界にお送りになったのではありません。物質界とは、主への永遠の奉仕を捨てた生 命体に「最高の享楽者」として楽しむ機会を与えることを目的として創造された場所で す。ヴァイシュナヴァ哲学によれば、感覚満足を求めて主への奉仕を忘れてしまった生 命体は、自分の意志にしたがって「自由」にふるまうことができるように、物質界に送ら みずか れます。このように自らを束縛し、苦楽を味わう原因を作り出したのは、各自の選択な のです。主も生命体も、ともに認識力を永遠に持っています。このことは忘れてはなりません・物質界が戯造されたことによって生命体が生まれたのではないのです。主は物 質界を創造し、そして、生命体に対してクリシュナ意識の段階に昇ることができるよう おん.吟ようかえり に十分な機会をお授けになっています。主の恩寵を顧みない束縛された魂は、物質界が 破壊された後、ナーラーヤンの体の中に入れられ、再び創造が行なわれる時まで深い眠つ りに就かされるのです。 

これについては、雨期の例で説明することができます。雨期の後、雨を十分に含んだ たと 地面からは様々な植物が豊かに実るので、雨期は創造者に例えることができます。主の いふbくつ 一瞥が物質自然に投げかけられるやいなや、あたかも雨期の後、植物が豊かに育つよう に、生命体がただちに様々な姿を取って生まれ出てきます。雨は一つですが、その雨か ら様々な種類の植物が育ちます。雨は地面全体に平等に降りますが、それぞれの地にど のような種があるかによって、色々な姿形の植物が芽を出します。私たちの望みを種に たと 例えるなら、その種も十人十色と言えます。誰もがそれぞれに様々な望みを持っていて、 その望みが種となり、各々の生命体が特定の姿形を取って生まれ出てくるのです。ルー パ・ゴースワーミーはそのことをパーパ・ビージャという語で説明しています。パーパ とは罪という意味です。物質的な望みはすべてパーパ・ビージャ、すなわち「罪深い望み の種」とされます。『ハガヴァッド・ギーター』は、罪深い望みとは至上主に服従しないことであると説いています。また、主は同書で「罪深い望みの結果からお前を守ってあげ よう」とおっしゃっています。これらの様々な罪深い望みがそれぞれの体の中にあるた めに、至上主がそれぞれの生命体に対して様々な体をお与えになったのです。したがっ おのおの て、主を非難すべきではありません・八百四十万種類の生命体の体は各々の生命体の こころ 思惟にしたがって生じたものです。バガヴァーン・プルショーッタマがそれぞれの生命 おのおの 体に、各々の望みにしたがって行動できるような機会をお授けになり、そして、生命体 は主から授かった便宜を利用して行動しているのです。

それと同時に、生命体は主の超越的な体から生まれ出た存在です。主と生命体との関 係についてヴェーダ文典では「至上主は主の子供たちすべてを養い、子供たちの望むす べてのものをお授けになる」と説かれています。『バガヴァッド・ギーター』でも主は同 じように「私は全生命体に種を与えた父である」とおつしやっています。父は子供に誕 生の機会を与え、そして子供は自分の望みにしたがって生きていきます。それは誰にで も理解できる簡単なことです。したがって、子供の将来がただ父親だけの責任だとは言 えません・子供は父親から財産を相続し、教えを授かることができます。しかし、父親の 恵みがすべての子供に等しく分かち与えられたとしても、子供たちは各自の望みにし たがって人生を切り開き、それぞれの喜びや苦しみを味わうのです。

同様に『バガヴァッド・ギーター』の教えもすべての人に平等に授けられたものです、 つまり、誰でも至上主に服従しさえすれば、主からの保護により罪の報いから解放され るのです。全生命体には等しい機会が授けられているので、誰もが主によって創造され た世界で暮らすことができます。地上にある物、水中にある物、そして空中にある物な ど、すべての物が等しくすべての生命体に与えられています。全生命体はすべて至上主 の息子なので、主から授かった物質資源を享受する権利を持っています。しかし不幸な ことに、生命体が互いに争い合っているために、望ましくない状況ができ上がってしま いました。生命体同士が争い合って自分で自分の首を絞めている原因は、バガヴァーン にではなく、生命体各自にあります。したがって生命体は、『バガヴァッド・ギーター』に はぐく 説かれている主の教えを守りクリシュナ意識を育むなら、人生が崇高なものとなり、精 め 神界に召されるのです。 

物質界は主によって創造されたものなので、物質界がどのような状況になるかは主 の責任だ、と議論する人もいるでしょう。確かに主は物質界の創造・維持・破壊に間接的 な形で関与していらっしやいます。しかし、各生命体がどのような状況にいるかについ ての責任は主の側にはありません・主が物質界を創造されたことは、ちょうど雲が植物 を作り出すのに似ています。雨期には雲によって様々な植物が作られます。雲は地面に雨を降らせますが、雲自体は地面には直接触れません・それと同じように、主はただ物初 いふbくつ 勘付Ⅳ 質エネルギーを一瞥するだけで物質界を創造されました。ヴェーダ文典に説かれていいるように、主が物質自然に視線を投げかけられたことによって、創造が行なわれ吠如で稚 す。『、ハガヴァッド・ギーター』にも述べられているように、主はただ物質自然を一瞥す|エ るだけで、動くもの、動かないもの、生あるもの、そして無生物を創造されたのです 。

したがって、物質界の創造は主の遊戯の一つと言えます。主の望みにしたがって物質師 リーーフー 宇宙が創造されるので、まさに遊戯と呼ぶにふさわしいものです。バガヴァーンが物質 界の創造をお望みになることは、主の比類のない慈悲でもあります。物質界が創造され よみがえ たなら、束縛された魂は本来の意識を再び蘇らせて、精神界に帰る機会を手にすること ができるからです。したがって、至上主が物質界を創造されたからといって、主を非難 することはできません。 

今ここで行なっている議論によって、マーヤーヴァーデイーとヴアイシュナヴアの 両哲学の違いが明らかにされます。非人格的な哲学概念では至上存在に没入すること が奨められ、虚無主義哲学では物質的多様性を皆無にすることが奨められています。こ の二つがマーヤーヴァーダ哲学と呼ばれるものです。物質界が破壊された後、生命体はっ 主ナーラーヤンの体の中に没入し、再び創造が行なわれる時まで深い眠りに就きます。その間は確かに物質宇宙が終止し、無となっています。その状態を非人格的状況と呼ぶ解 ことはできますが、それは永続するものではありません。物質界の多様性が停止し、生イー 命体が至上者の体の中に没入している期間は永遠ではありません。なぜなら、再び宇宙 よみがえ 創造が行なわれるからです。クリシュナ意識を蘇らせることができずに、至上者の体の 中に没入していった生命体は次の宇宙創造が行なわれる時に再び物質界に現われ出 てきます。『バガヴアッド・ギーター』に述べられているように、物質界は永遠に創造と 破壊を繰り返すものであり、物質界が現われている状態では、クリシュナ意識を持たな い束縛された魂は何度も繰り返しこの世界に戻って来るのです。束縛された魂がこの はぐく 機会を利用し、主から直接授けられた教えにしたがってクリシュナ意識を育むなら、精め 神界に召され、そして物質創造に再び戻って来る必要がなくなります。したがって、主 すぐ の蓮華の御足に保護を求めない虚無主義者や非人格主義者の知性は、あまり優れたも とぽ のではないと言えます。虚無主義者や非人格主義者は知性が乏しいために様々な苦行 を行ない、それぞれニルヴァーナ(物質的状態の生活が終止した状態)に入ることや主 の体に没入して一体となる状態を達成します。しかし虚無主義者も非人格主義者も、両ナ ユ 者とも再び堕落します。なぜなら、主の蓮華の御足を無視しているからです 。

クリシュナダース・カヴイラージ.、コースワーミーは、すべてのヴェーダ文典を研し、そして権威者から聞いた上で、「クリシュナが唯一の至上支配者であり、その他の生 命体はすべてクリシュナの永遠の召使である」と著作『チャイタンニャ・チャリターム リタ』で説いています。ヴェーダ権化の祈りの中でも、このクリシュナダース・カヴイラー ジの言葉と同じ内容が語られています。したがって、「バガヴァーンがすべての者を支 配していらっしゃって、すべての者は主の至上の指示のもとで主に仕えている。そして、 誰もがバガヴァーンを恐れている」と結論することができます。至上主を恐れるがゆえ に、生命体は正しい行動をするのです。全生命体は至上主に従属する立場にありますが、 主はどのような生命体に対しても平等で、差別的な態度は決してお取りになりません。 主はまさに、無限の空のようなお方です。炎の中で火の粉が踊るように、すべての生命 体は無限の空を飛んでいる烏です。烏には様々な種類があり、大空高く舞うものもいれ ば、地面近くの低空を飛ぶものもいます。様々な烏が様々な高度で飛ぶのは、それぞれ ひ.しょうのうりよく が異なった飛朔能力を持つためです。しかし烏の飛朔能力は空自体とは無関係です。主 クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』で、「私はそれぞれの者の服従の程度に応じて 能力を授ける」とおっしゃっています。バガヴァーンが各生命体の服従の態度に応じて 能力をお授けになるからといって、主が不平等であるとは言えません。生命体は、各自 各様の生活状況や生命形態の中でそれぞれの立場が与えられているのですが、常にバガヴァーンの支配下にあります。しかし、それぞれの生命体が様々な生活状況に置かれ卵 ていることは、主の責任ではありません。したがって、自分と至上主が対等な立場にあイー ると考えるのは愚かで不自然なことです。さらに愚かなことは、自分は至上主を見たこ となどないと考えることです。全生命体が主の様々な様相を見ているのです。ただ一つ の違いは、主を信じる者は主を最愛なる至上主クリシュナと見るのに対し、無神論者は 絶対真理を究極的な死と見ることです。

ヴェーダ権化は祈りを続けます。 「親愛なる主よ、ヴェーダの教えから理解できるように、御身は至上支配者として全 生命体を支配していらっしゃいます。そして主も生命体もともにニッテャすなわち永 遠者であり、両者は質的には同じです。しかし、一人のニッテャなる至上主が支配者で あり、他の多数のニッテャは被支配者です。一つの物質の体の中には、被支配者である 個別生命体が住んでいると同時に、至上支配者もまたスーパーソゥルとして住んでい らっしやいます。しかし、ヴェーダ文典によれば、スーパーソウルは個別魂の支配者で す。個別魂がスーパーソウルに支配されていないなら、生命体が過去の活動に応じて苦ナ ユ 楽を経験しながら様々な体を転生するというヴェーダの結論は、説明がつかなくなりシ リ ます。生命体は時には高水準の生活状況に達し、また時には低い段階へと落とされますしたがって、束縛された魂はただ至上主に支配されているばかりではなく、物質自然に も支配されているのです。生命体と至上主は被支配者と支配者の関係にあります。この 関係はスーパーソゥルがすべての場所に遍在しているのに対し、個別魂は決してそう そな ではないことが証明しています。個別魂も主と同じように遍在性を具えているなら、支 配されることはないはずです。したがって、スーパーソウルと個別魂が対等であるとい けが しり上ふんべつ ぅ理論は汚れに満ちた結論であり、思慮分別のある人ならそのような理論は受け入れ るべきではありません。私たちは、至上永遠者と従属的永遠者の違いを理解するように 努めなければなりません」 。

ヴェーダ権化たちは、「おお主よ。御身も、有限者であるドウルヴア(生命体)も、とも とら に永遠の存在です」と結論しました。無限永遠者(至上主)の姿は時に宇宙体として捉え られます。それに対してゥパニシャッドなどのヴェーダ文典では、有限永遠者(個別生 命体)の大きさが髪の先の一万分の一であることが明らかにされています。精神は最大 物より大きいと同時に、最小物よりも小さいと言われています。至上主の永遠の部分体 である個別生命体は最小物よりも小さいのです。私たちには物質的な感覚しかないのと。b で、最大物よりも大きい至上主を知覚することも、最小物よりも小さい個別魂を捉える もと ことも不可能です。最大者と最小者を知るには、ヴェーダ文典に基づいて理解しなければなりません。ヴェーダ文典には、スーパーソウルは生命体の体の中にお座りになって いて、その大きさは親指大であると述べられています。すると、いかにしてアリの心臓 の中に親指大のものが入ることができるのか、と議論する人もいるかも知れません。し かし、その親指大というのは、それぞれの生命体の体に比例した親指の大きさなのです。 いずれにせよ、スーパーソウルと個別生命体が同じものであると考えてはなりません。 心臓の中に住んでいるスーパーソウルは、個別生命体に指示を与え、個別魂を支配して いらっしやいます。両者ともにドゥルヴァ(永遠者)ですが、生命体は常に至上永遠者の いら入一しやレ土手す 支配下にあります。 

生命体は物質自然から生まれ出たものなので、至上主の部分体ではなく、すべて平等 で独立的な存在であると議論する人もいるかも知れません。しかしヴェーダ文典はパ ガヴアーンが物質自然を受胎させた後に生命体が生まれ出ると述べています。したがっ て、個別生命体はただ物質自然によってのみ生まれ出るのではありません。それはちょ うど、子供は女性から生まれますが、ただ女性の力だけによって子供が生まれるのでは かいにん ないのと同じです。まず女性が男性によって懐妊させられた後、子供が生まれるのです。 ですから、女性から生まれた子供は男性の部分体です。それと同じように、生命体は物 質自然から生まれて来ますが、ただ物質自然だけが生命体を生み出す要因ではありません・生命体が存在しているのは、至上の父である至上主が物質自然を受胎させられた ことによるものです。したがって、個別生命体が至上主の部分体ではないという議論は 根拠のないものです。たとえば、体の一部と体全体が同じものであるとは言えません。 むしろ、全身は体の部分を支配しています。それと同じく、至上主の部分体は常に至上 主に依存し、部分体を生み出した源である至上主に支配されています。『バガヴアッド・ ギーター』で述べられているように、生命体はクリシュナの部分体です。したがって思 慮のある人なら、スーパーソウルと生命体が同じ立場にあるという理論は決して受け 入れません。スーパーソゥルと生命体は質的には同じですが、量的にはスーパーソウル が常に至上者で、個別魂はいつもスーパーソウルに従属する立場にあります。ヴェーダ 文典は以上のように結論しています。
 

それに関して「ヤン・マヤ」と「チン・マヤ」という重要な語が使われています。サンス クリット文法では「マヤット」という語には変形と充足性という二つの意味があります。 マーヤーヴァーディー哲学者はヤン・マヤやチン・マヤという語が生命体と至上主がい つも対等な立場にあるという意味だと解釈しています。しかし、この「マヤット」という 接尾辞が変形、充足性という意味を持つことを注意深く考え直さなければなりません。 生命体がバガヴァーンと同じ分量を持つことはまったく不可能です。したがって、この接尾辞「マヤット」は個別生命体が主と同じく完全な自己充足性を持つことを意味する ものではないのです。個別生命体は十分な知識を持っていません。十分な知識があるな おちい らマーヤー(物質的エネルギー)に陥らないはずです。したがって「充足性」という語は、 そな 個別生命体が具えている量に応じて理解されるべきです。至上主と生命体が精神的に 同一であるということは、決して、あらゆる面で同一であることを意味するものではあ りません・全生命体は個別の存在です。すべての生命体が一つであるという議論を受け 入れるなら、一人が解放を達成すれば他のすべての者がただちに解放を得るはずです。 しかし実際には、すべての個別生命体は物質界の中でそれぞれの幸と不幸を味わい続
けています。 

「マヤット」という語には、変形や副産物という意味もあります。非人格的哲学の理論 リーーフー は「ブラフマン自身が様々な種類の体を受け入れる。しかし、それはブラフマンの遊戯 デーヴァ である」というものです。しかしながら生命形態には、人間、神々、動物、烏や獣など、八 百四十万種類あり、もしそれらすべてが至上絶対真理の拡張体であるなら「解放」とい う語には意味がなくなります。なぜならブラフマンはすでに解放の段階にあるからで す。またマーヤーヴァーデイーがよく持ち出す理論として、各時代毎に様々な種類の生 命形態が現われ、そして時代が終わる時にはすべての形態(すなわちブラフマンの拡張 体)が多様な顕現を終了させて二つに戻るというものがあります。この理論によれば、和 # ブラフマンは次の時代の到来とともに再び様々な形態を発現させることになります。砂それでは、ブラフマンが変化するということになってしまいます。したがって、これを蝿 1 受け入れることはできません。また『ヴェーダーンタ・スートラ』の記述から理解できる一エ ように、ブラフマンは本来喜びに満ちています。したがって、ブラフマンが苦しみを余ヴ みずか 儀なくされる形態に自らを変化させることは起こり得ません。実際には生命体はブラ師 フマンから現われ出た極微小の拡張体ですが、極めて微小であるために幻想エネルギー に覆われる傾向を持っています。以前にも述べたように、ブラフマンの部分体は本来、 炎の中で喜びに満ちて踊っている火の粉のようなものです。しかしながら、火の粉は炎 から煙の中(煙もまた炎の一状態)に落ちてしまうこともあります。物質界は煙に、そし たと て、精神界は炎に例えられます。無数の生命体は、幻想エネルギーに影響されて、精神界 お はぐく けが から物質界へと堕ちて来る傾向があります。しかし、真の知識を育んで物質界の汚れか ら完全に浄化された時、再び解放の段階に到達することができるのです。 

アスラの理論によれば、生命体はプルシャとプラクリテイ(物質自然)の接触によっ てプラクリティから発生したとされます。しかし、この理論もまた受け入れることはで きません。なぜなら、物質自然とバガヴァーンは永遠に存在するものであり、決して誕生することがないからです。至上主と物質界はそれぞれアジヤとアジャー(両者はとも に『誕生しないもの』の意)と呼ばれます。物質自然も至上主も誕生することがないので、 生命体を生じさせることはできません。ちょうど、水と空気が混ざり合えば多くの泡が 生じるように、生命体は物質自然と至上主の組み合わせにより物質自然の影響を受け て様々な姿を取って出現してきます。したがって、物質界に現われている生命体は、人 デーヴァ 間、神々、動物、烏類や獣など、様々な肉体を持っていますが、すべて各自の様々な望み にしたがって各自が体を得たのだと結論できます。生命体が最初に欲望を持ち始めた 時点は誰にもわかりません。したがって、アナーディ・カルマすなわち二生命体が物質界 さかのぽ に住むようになった歴史を遡ることはできない」と言われています。しかしながら、生 命体が最初に物質界にやって来た時点が存在するということは確かです。なぜなら全 生命体は本来精神的な火の粉だからです。火の粉が炎から地面に落ちれば、確かに落ち お た時点は存在します。それと同じように、生命体がはじめて物質界に堕ちて来た時点も 確かにあります。しかし、その時点を正確に知ることは誰にもできません。宇宙が破壊 とど つ されている期間、生命体は主の精神的体の中に留まって、あたかも深い眠りに就いてい るかのような状態になります。しかしその間、決して物質界に対する支配欲が消え去っ ているわけではありません。宇宙が再び始まる時、生命体は主の体から出て来て、その 欲望をかなえるために再び活動を開始します。そのようにして、様々な物質的身体が与 えられるのです。

破壊の時に至上主の体の中に留まっている生命体は、蜂蜜に例えられます。蜂の巣の 中には様々な花や果物の香りが溶け込んでいますが、蜂蜜を飲んだだけでは、どんな花 の蜜が入っているかを識別することはできません。しかし蜂蜜が一種類の蜜からでき たのではなく、様々な味わいが組み合わさっていることは明らかです。また川を例にあ げます。川は最後には海に流れ込みますが、しかしながら個々の川自体がなくなるわけ ではありません・ガンジスとヤムナーは海に注ぎ込みますが、それぞれの川がなくなる わけではないのです。物質界の生命体は破壊時にブラフマンの中に入っていきますが、 それはただ様々な体が消滅するだけで、生命体自身が消滅するわけではありません・各 生命体は物質界が再び創造される時まで、それぞれが個別の味わいを保ったままブラ フマンの中に留まります。海の塩水とガンジスの甘い水はそれぞれ個別に存在し続け、 塩味と甘さがなくなることはありません。それと同じように至上主と生命体は、破壊の 際に両者が一つに混ざるように見えたとしても、それぞれが永遠に存在し続けます。し けが たがって、生命体が物質的束縛の汚れから解放されて精神王国に入って行った時でさ えも、各生命体と至上主の関係に基づく個別の味わいは決して消滅することがないと結論できます。

ヴェー、ダ権化たちは祈りを続けます声》ひきつ 「おお親愛なる主よ、すべての生命体が御身の物質エネルギーに惹付けられていると 結論できます。束縛された魂が御身との永遠の関係を忘れ、物質の体を次々と転生して いるのは、自分が物質自然の産物であると誤解しているためです。このように、生命体 は無知によって自分が様々な種の生命形態であると誤って考えているのです。束縛さ れた魂が人間として生まれた時は特に、自己本来の立場が御身の永遠の召使であるこ とを忘れ、各自の所属する階級、国、民族や宗教が自分の真の属性であると考えるよう になります。生と死の繰り返しを余儀なくされるのは、正にその間違った人生観による ものです。何百万人もの内のわずか一人だけが十分な知性に恵まれ、そのような人だけ が純粋な献身者との交際を得て、クリシュナ意識を理解し、誤った物質的人生観から解放されるのです」  。

『チャイタンニャ・チャリタームリタ』で主チャイタンニャがおつしやっているよう に、生命体は宇宙の中を様々な生命形態の姿を取って放浪し続けているのですが、グル とバガヴァーン。クリシュナの慈悲によって十分な知性を授けられた時にはじめて、ク リシュナ意識の献身生活を始めることができるのです。バガヴァーンの助けがなければ:生と死の繰り返しから解放されることは不可能だと言われています。束縛された魂 を生と死の繰り返しから解放できるのは至上主・バガヴァーンだけです。 

ヴェーダ権化たちは「過去・現在・未来という時間の影響、過度の寒暑、そして生老病 まゆ 死という物質的な苦しみは、すべて御身の眉の動きにすぎません。すべては御身の指示 のもとに動いております」と祈りの言葉を捧げました。『バガヴァッド・ギーター』に述 べられているように、物質的な活動はバガヴァーン・クリシュナの指示のもとに動いて います。さらに、ヴェーダ権化たちは「物質界の様々な状態は御身に服従しない者にとつ つ、い て辛いものですが、服従したクリシュナ意識の魂にとって、それは恐れの対象にはなり 得ません」と祈っています・主ヌリシンハデーヴァが出現された時、プララーダ・マハー ラージはまったく主を恐れませんでした。しかし、彼の父は無神論者であったために、 ただちに死の権化と直面することを余儀なくされ、殺されてしまったのです。主ヌリシ ンハデーヴァはヒランニャカシプなどの無神論者の前には死の権化としての姿をお現 わしになりますが、プララーダ・マハーラージのような献身者に対しては、いつも心侵 しく、すべての喜びをお授けくださいます。したがって、純粋な献身者は生老病死を恐 れないのです。

シ『一リーだIダ.シ一一リータラ・スワーミーは一おお主よ私たちはい(一も物質界の様々な様相に苦しめられております。物質界がすべてを破壊し尽くす車輪に例えられるな らぢ くだ ら、私は幾度と言えずへその車輪に千々に打ち砕かれ、踏み荒らされて参りました・物質 界で犯した罪は数知れず、その報いの炎に焼かれて参りました。しかしどうしたわけか、 御身の蓮華の御足に保護を求めることができました。どうか私を受け入れ、お守りくだ しる さい」という美しい一節を記しています。またシュリー・ナローッタマ・ダース・ダーク bと ルも「おお主よ、ヴリシャバーヌの娘と楽しんでおられるナンダ・マハーラージの愛し 子よ。物質的な生活に苦しみ抜いた後、やっと御身に保護を求めに参りました。どうか 慈悲をお授けくださいますよう、お祈り申し上げます。この私を救ってくださるお方は 御身の他に誰もいません。どうか私を追い払わないでください」と祈っています。 結論として、バクティ・ョ-ガ(献身奉仕)以外の道を進むなら、真の自己を知り至上 主を悟ることは極めて困難であると言うことができます。特にこの時代においては、ク ゆだ けが リシュナ意識に満ちて主への奉仕に身を委ねることが、汚れた物質的生活から自由に なる唯一の方法です。クリシュナ意識でない者はただ時間を無駄にしているのです。そ のような人々には精神生活の発展は保証されません。 

結論として、バクティ・ョ-ガ(献身奉仕)以外の道を進むなら、真の自己を知り至上 主を悟ることは極めて困難であると言うことができます。特にこの時代においては、ク ゆだ けが リシュナ意識に満ちて主への奉仕に身を委ねることが、汚れた物質的生活から自由に なる唯一の方法です。クリシュナ意識でない者はただ時間を無駄にしているのです。そ のような人々には精神生活の発展は保証されません。 

主ラーマチャンドラは「私に服従し、私の永遠の召使であることに揺るがい信念を持 つ者に対して、私は自信と安全を授ける」とおっしゃっています。主クリシュナもまた 『パガヴァッド・ギーター』で「物質自然の影響は克服し難い。しかし、私に服従する者は たやすくその影響を克服する」と述べていらっしやいます。献身者は時間を無駄にせず、 常にクリシュナ意識に満ちて主に超越的な愛情奉仕を捧げているので、非献身者を論 破することにはあまり関心がありません。 

ヴェーダ権化たちは「親愛なる主よ、偉大な神秘ョIギーが思惟という象を抑え、感 覚という嵐を止めることができたとしても、正統なグルに保護を求めない限り、物質自 然の影響力のいけにえとなり、自己の悟りを達成することはできません。グルの導きを 受けない者は、船長のいない船に乗るようなものです」と祈りを続けています。彼らの言葉にあるように自分一人の努力では物質自然の束縛から自由になることは不可能 です。正統なグルを受け入れ、グルの指示にしたがうことによって、物質的束縛の無知 を渡り切ることができるのです。シュリーパーダ・シュリーダラ・スワーミーはその点 しる に関して美しい一節を記し、「おお、慈悲の海なるお方、グルよ・バガヴァーンの代表者 たるお方よ。わが想いが御身の蓮華の御足に完全に服従するのはいつのことでしょう か。その時、ただ御身の慈悲によってのみ精神生活の障害がすべて取り除かれ、私は喜びに満ちた生活に入ることができましょう」と歌っています。 

こうこってき 洗惚的なサマーディ(バガヴァーンに没頭すること)の段階に到達する方法は献身奉仕を行なうことです。献身奉仕をいつも行なうためには、常にグルの教えにしたがうこ おさ とが必要です。したがって、献身奉仕の科学を修めるためには正統なグルに服従しなけ ればならない、とヴェーダは説いています。正統なグルとは師弟継承を受け継ぎ、献身 奉仕の科学に精通している人のことであり、この師弟継承はシユロートリヤンと呼ば れます。師弟継承を受け継ぐグルの特徴はまず第一にバクティ・ョ-ガの原則からまっ たくそれないことです。自己の悟りを得ようとしながらもグルを受け入れず、神秘ョ- ガの道によって完成を達成しようとする人もいますが、それは危険な道です。ヴィシュ ヴァーミトラのような偉大なョ-ギーでさえも失敗したのです。アルジュナは『バガ こころ ヴァッド・ギーター』で、思惟を抑えることは荒れ狂う嵐を押えるのと同じように難し こころ たと いと述べています。思惟は狂った象に例えられます。グルの教えにしたがわない限り、 こころ おうぎ 思惟と感覚を抑えることはできません。ョIガの奥義を修めたとしても、グルを受け入 むだづか れないなら、それは貴重な時間の無駄遣いにすぎません。なぜなら、いつか必ず失敗す るからです。ヴェーダの教えによれば、アーチャーリャの導きを受け入れない限り完全 な知識を得ることはできません。アーチャーリャを受け入れた人はすべてをありのま まに知っています。いくら議論を重ねても、絶対真理を理解することはできません。完 おの 全にブラーフマナの段階に達した人は自ずから物質的な執着がなくなるので、物質的な利益を求めて努力するようなことはありません。なぜなら、精神的な知識によって、 この世界に欠けている物は何一つないと悟っているからです。すべてはバガヴァーン から授けられ、不足しているものは何もありません。したがって、真のブラーフマナは 物質的な保護を決して求めず、ただ正統なグルに近づいて、グルからの命令を受け入れ ます。グルたる者の資格はブラフマ・ニシュタ、すなわち献身奉仕以外の活動をすべて 捨て去り、ただバガヴァーン・クリシュナだけに人生を捧げることです。正統な弟子は 正統なグルに近づき、「おお主人よ、どうか弟子としてお受け入れください。他の自己の 悟りの方法をすべて捨て去り、クリシュナ意識の献身奉仕に専心できますように、どう つつ かお導きください」と慎ましく祈るべきです。 

グルの導きにより主への超越的な愛情奉仕を行なう献身者は「愛しいわが主よ、御身 は喜びの源でいらっしゃいます。そのような御身がいてくださることに比守へれば、社会. 友情・愛情から得られるはかない喜びなど一体いかほどの価値がございましょう。御身 を知らない者たちは感覚満足に喜びを見出そうとしていますが、それはただ幻のよう にはかないものです」と考えます。これに関して偉大なヴァイシュナヴァ詩人である いと ヴィッデャーパティは「愛しい主よ、社会・友情・愛情の中には、物質的な喜びではあり ますが、いくらかの喜びが確かにございます。しかしそのようなもので砂漠のような私のこころを満たすことはできません」と語っています。砂漠には大量の水が必要です。 一滴の水だけしかなければ、まさに焼け石に水で何の価値もありません。同じように、 けが 汚れたハートの中には数多くの欲望が渦巻いていて、物質的な社会、友情や愛情によっ ては決して満足を得ることができないのです。クリシュナこそが最高の喜びをお授け くださるお方です。クリシュナからから喜びを授かる人は、真の満足を得ることができ ます。その超越的な満足感はクリシュナ意識に満たされた献身奉仕の中だけにしかありません。

ヴェーダ権化たちは祈りを続けますs 「親愛なる主よ、御身はサッチダーナンダ・ヴィグラハ、すなわち知識と喜びに満ちた 永遠の姿でいらっしゃいます。すべての生命体は御身の部分体として、常に御身を完全 に意識しているべきです。物質界でクリシュナ意識を修めた者は、物質的な生き方に関 心を示さず、家族生活や裕福な暮らしには興味がありません。生きていくためにごくわ ずかな物を受け入れるだけで、もはや感覚満足には関心がないのです。人間生活の完成 を達成するには知識と放棄が必要ですが、家庭生活を行なっている限り、その段階に到 達しようと努めても非常に難しいものがございます。したがって、クリシュナ意識の人 ゆだ は献身者との交際に身を委ね、巡礼の聖地に保護を求めます。純粋な献身者はクリシュナと個別生命体の永遠の関係を理解し、物質の体が自分ではないことを悟っています。 そして、御身をいつもハートの中で完全に意識しているので、どこに行っても、すべて の場所を巡礼の聖地に変えてしまいます。そんな純粋な献身者の御足を洗った水は、物 質界を放浪する多くの人々を救うことができるのです」  。

プララーダ・マハーラージはかつて父親から「今まで学んだ内で最も重要な教えは何 か」と尋ねられた時、「物質的な人々は一時的、相対的な真理を求めているので、いつも さいな 不安に苛まれています。そんな人々にとって最も良いことは、家庭生活という闇井戸を ゆだ 捨て去り、森に行き、バガヴァーンに完全に身を委ねることです」と答えました。純粋な 献身者はマハートマー(偉大な聖者、完全知識を持った人物)と称えられるのですが、彼 らは決して寺ハガヴァーンを忘れず、主の蓮華の御足をいつも想っています。したがって、 自動的に解放を達成するのです。しかも自分一人だけで解放を得るのではありません。 主の想像を絶したエネルギーに充たされているために、その教えにしたがう人々にも 解放を与えることができるのです。クリシュナ意識の人はいつも精神的エネルギーで 充電されています。したがって、純粋な献身者に触れ、保護を求めるなら、同じように精 神エネルギーで充たされるのです。純粋な献身者は物質的な富を手に入れても決して 思い上がりません。一般に、良い家柄、教養、美しい容姿や財産が物質的な富とされますが献身者はこれらの富を持(一たとしても我を忘れてしまうことは決してありませ〆』./、 ん・偉大な献身者は世界中の巡礼の聖地を巡り、多くの束縛された魂に会って交際を授 け、超越的知識を教えます。そのようにして多くの者たちを救うのです。彼らはヴリン ダーヴアン、マトゥラー、ドワーラカー、ジャガンナータ・プリー、そしてナワドヴィー パなどの地に住んでいます。なぜなら、献身者だけがそれらの聖地に集まるからです。 そのようにして、献身者との聖なる交際の恩恵に浴すのです・偉大な献身者はクリシュ ナ意識の人々がやって来れるように寺院を建立しアーシュラムを開き、どのような生 命体にもクリシュナ意識の交際を得ることができる機会を与えます。献身者はそれら はぐく の場所でクリシュナ意識をより大きく育んでいきます。普通の世帯生活にはクリシュ ナ意識がないので、そこでクリシュナ意識を育むことは不可能です。 

ヴェーダ権化たちは祈りの言葉を続けます。 「おお親愛なるわが主よ、超越主義者には、マーヤーヴァーディーとヴァイシュナヴァ の二種類があります。マーヤーヴァーディーは、物質界は虚であり、絶対真理のみが真 であると主張しています。一方、ヴァイシュナヴァの世界観はそれとは異なり、この世 界は一時的であったとしても決して虚ではなく、真の世界であるとしています。この二 つの超越主義者たちは、それぞれの論点を固めるために様々な議論を展開しています。しかし実際には、物質界は真であると同時に真ではありません。万物は至上絶対真理か ら現われ出たものであるという点において、この世界は真です。一方、物質界にあるも のはすべて一時的であり、創造と破壊を繰り返すものであることを見れば、物質界が真 の世界でないことが理解できます。宇宙というものは常に様相を変え続け、決して一定 とど の状態には留まりません」 マーヤーヴァーディーが好む「ブラフマ・サッテャン・ジャガン・ミテャー」という言 葉は「物質界の万物は物質からできたものである」という意味です。たとえば、粘土で作 こわ みずがめ られた器や皿などは、壊れた後に粘土以外の物には決してなり得ません。粘土で水瓶を 作った後、それを壊して皿にすることもできます。けれどもその実体が粘土でなくなつ みザがめ てしまうことはありません。マーヤーヴァーディーの見解によれば、水瓶、器や皿など の姿は虚であり、粘土が真であるとされます。物質宇宙は絶対真理から生まれ出たもの ですが、一時的存在であるために虚であるとされているわけです。マーヤーヴァーデイー は心永遠の絶対真理だけが唯一の真であるとしています。一方ヴァイシュナヴァの見解 によれば、物質界は絶対真理から現われ出たものであるので、これもまた真の存在です。 マーヤーヴァーディー哲学者は物質界が真ではないことの論拠として、精神魂から物 質が生み出される場合や、物質から精神が発生する場合があることをあげています。彼らはその証拠として、無生物である牛の糞からサソリが生まれてくることと、爪や髪な どの物質が生命体から発生してくることをあげています。マーヤーヴァーディー哲学 よ 者はこの議論を拠り所として、宇宙は絶対真理から生じたものでありながらも真実を うた 含んでいないと証っています。この論理によって、絶対真理ブラフマンこそが真であり、 物質界は絶対真理から発現したものでありながらも、真ではないと結論しているので

しかし「アスラたちの考えによれば、宇宙が献造されたのは物質の相互作用によるも ので、支配者も至上主も存在しない」という『バガヴァッド・ギーター』の記述によれば、 マーヤーヴァーディー哲学者の見解がアスラ的世界観であることがわかります。その 悪魔的見解は誤りです。「ハガヴァッド・ギーター』の第七章では、五大元素(土、水、火、 こころ 空気、空間)と細妙元素(思惟、知性、自我意識)が至上主から分離した八つのエネルギー であることが説かれています。上位エネルギーは、これらの下位エネルギー(物質エネ すぐ ルギー)よりも優れていて、生命体がそれに属します。全宇宙は上位エネルギーと下位 エネルギーの組み合わせで構成されていて、その両エネルギーはバガヴァーンから発 そな 現したものです。主は多種多様なエネルギーを具えていらっしゃるのです。この点につ いてヴェーダ文典は「主の超越的エネルギーは多様なものであり、至上主から発現した多様性は虚ではない」と述べていますf永遠なる主から発現したエネルギーもまた、永 遠の存在です。エネルギーの中には一時的なものもありますが、姿を隠すからといって、 そのエネルギーが偽の存在であるというわけではありません。たとえば、人は怒った時、 き」よ。めい 普段現わすことのない行動様式を示しますが、怒りが去来するものだからといって、怒 りのエネルギーが幻であるとは言えません。したがって、ヴァイシュナヴァ哲学者は、 物質界を虚の世界とするマーヤーヴァーダ哲学を受け入れません。物質界には根本原 因がなく、至上主も存在せず、万物が物質の相互作用によって創られたものであるとい う見解は、主自身がおっしゃっているようにアスラ的世界観です。 

マーヤーヴァーディー哲学者はよく蛇とロープの例をあげます。夕方の暗がりの中 では、何も知らずに丸まったロープを蛇と勘違いすることもあります。しかし蛇とロー プを勘違いしたからといって、蛇もロープも本来存在しないものだとは言えません。マー あか ヤーヴァーディIは物質界の虚偽性の一証しとしてこの例をあげるのですが、これは適 切な例とは言えません。虚偽とは、まったく存在しない物を存在する物として受け入れ ることです。ある物を見て、それが別の物であると知覚することは虚偽ではありません。 ヴァイシュナヴァは物質界全体を粘土の器にたとえます。粘土の器が突然なくなった り、姿を変えて何か別の物になることはありません。粘土の器は一時的なものですが、水を入れるなど実際的な用途に用いることができます。粘土の器を使っている最中にぐ 気がつくと器が別の物になっていた、などということは起こり得ません。確かに粘土の 器は一時的な物体であり、元の土ではありません。しかし、粘土の器が虚偽であり幻で あるとは言えません。したがって粘土の器は、確かに元の土とは別の物ですが、真の存 在であると結論できます。なぜなら、粘土の器は土から作られたものだからです。『バガ ヴァッド・ギーター』によって理解できるように、宇宙が破壊された後、エネルギーはバ ガヴァーンの中に入って行きます。バガヴァーンは多種多様なエネルギーとともに永 遠に存在し続けます。物質界は主から発現したものであって、無から発生したものでは ありません。クリシュナは無ではありません。私たちがクリシュナのことを話す時、主 そつきん はいつも超越的な姿、質、御名、側近や持ち物とともにその場にいてくださるのです。ク リシュナは非人格的な存在ではありません。万物の根本原因は無ではなく、また非人格 的存在でもありません。至上主こそが万物の根本原因でいらっしゃいます。アスラ(悪 魔)は物質界には支配者が存在しないと主張していますが、そのような議論は最終的に はまったく根拠がありません。 

爪や髪などの無生物が生命体から現われ出るというマーヤーヴァーディー哲学者の 例は、深い議論とは言えません・爪や髪は疑いなく無生物ですが、生命体から生じたのではなく含物質の体章すなわち無生物から現われ出たものです。同じように、牛の糞から サソリが出て来る例も深い議論ではありません・牛の糞から出て来るサソリは確かに 生命体ですが、牛の糞が生命体を生んだわけではなく、ただサソリの体が牛の糞の中か たと ら出て来ただけです。『バガヴァッド・ギーター』では、生命体は火の粉に例えられてい て、物質界に注ぎ込まれた後に出て来ると説かれています。つまり、様々な生命形態の 物質的体は物質自然から授けられたものであるのに対し、生命体自身は父なる至上主 によって物質界に注ぎ込まれたものです。父親と母親は子供の世話をします。生命体は こころ 各自の望みにしたがって様々な体を転生し続けます。彼らの様々な望みは細妙体(思惟、 知性、自我意識)の中に蓄積されていて、様々な体を転生していく中でも生命体から決 して離れません。生命体は至上主の計画にしたがって特定の生命形態の胎内に入れら れ、特有の体が授けられます。したがって、精神魂は物質から生まれるのではなく、至上 主の取り決めにしたがって特定の体を授けられて生まれて来るのです。誰でも経験し ているように、物質界は物質と精神の組み合わせであり、物質を動かすのは精神魂です。 精神魂(生命体)も物質も至上主のエネルギーであり、その両者は至上永遠者すなわち 至上真理から生まれ出た存在として、虚偽ではなく真の存在です。生命体は至上者の部 分体なので永遠に存在し続けます。したがって、生まれることも死ぬこともありません。

物質界については様々な議論がなされていますが、ヴァイシュナヴァ哲学の結論が 寸く 最も優れています。土の器の例は適切なたとえです。粘土の器の姿は一時的なものです が、粘土の器には実用的な用途があり、水を入れて運ぶことができます。同じように、物 質の体も確かに一時的なものですが、特有の用途があります。生命体は太古の昔から様々 たくわ な望みを蓄え続けていて、物質宇宙が始まったまさに最初から、その望みにしたがって、 様々な物質の体の中をしだいに進み続けています。その中でも、人間として生を受ける ことは特別な機会であって、発達した意識を利用することができるまれな機会なので

マーヤーヴァーディー哲学者は、物質界が真であるなら世帯者が物質界との関係をた 絶ち、サンニャースを取ることにどんな意味があるのか、と議論することもあります。 しかしながら、ヴァイシュナヴァ哲学者は、世界が虚偽であるために物質的活動を放棄 すべきだと考えているのではありません・彼らがサンニャースを受け入れる目的は、す』bよわ くてを本来の目的にしたがって用いることです。シュリーラ・ルーパ・ゴースワーミーは物質界と関わるための二つの公式を与えています。ヴァイシュナヴァが物質的な人 生を捨て去り、サンニャースを受け入れるのは物質界が虚偽であるからではなく、主へ みずか の奉仕に自らを捧げ尽くすためです。そこでルーパ・ゴースワーミーは、物質的執着は 無意味なものであり、物質界に執着してはならないという公式を授けています。全物質 界、全宇宙はすべて主クリシュナの所有物です。したがって、すべてはクリシュナの奉 仕に用いられるべきで、献身者は物質的な物事に執着すべきではありません。物質的な 人々が感覚満足を求めて物質界に執着するのに対し、ヴァイシュナヴア・サンニャーシー は自分個人の感覚満足のためには何も受け入れないにもかかわらず、すべてを主の奉 仕に用いる方法を熟知しています。したがって、ルーパ・ゴースワーミーはマーヤー ヴァーディー・サンニャーシーを批判して、彼らはすべてを主の奉仕に用いることがで きることを知らないと語っています。マーヤーヴァーディー哲学者は物質界が虚偽で けが あり自分自身は物質界の汚れから解放されていると考えています。しかし、すべては主 のエネルギーが拡張したものなので、至上主が真の存在であるのと同様に、他のすべて も真の存在であるのです。 

宇宙は確かに一時的ですが、虚偽であるとは言えません。宇宙の起源が真であるなら 宇宙自体も真です。重要なのは用途を知ることです。また再び粘土の器の例をあげましよう・粘土の器は士からできたものですが、正しい用途に用いれば虚偽ではありません。 ヴァイシュナヴァ哲学者は物質界という一時的な巨大構造物の用途を知っています。 ちょうど十分な知性を持つ人が粘土の器をどのように使うかを知っているのと同じで す。粘土の器は、間違った使い方をすれば虚偽となってしまいます。それと同様に、人間 の体も物質界も、感覚満足という虚偽の目的に用いれば虚偽となってしまいます。しか し至上主の奉仕のために使うなら、それは虚偽ではありません。『バガヴァッド・ギー ター』で明らかにされているように、物質の体や物質界をほんのわずかでも主の奉仕に 用いるだけで、最大の危険から救われるのです。バガヴァーンから発現した上位エネル ギーも下位エネルギーも、正しい使い方をするなら虚偽ではありません。 

果報的活動というものは、基本的に感覚満足に基づくものです。したがって、クリシュ ナ意識の高い段階にある人は果報的活動を行ないません。果報的活動を行なえば、その 結果として高位の惑星系に行くことができます。しかし『バガヴァッド・ギーター』に 述べられているように、天界の王国に行こうとするのは愚かな人々です。彼らは天界の けいけん 惑星で敬虐な活動の結果を消費した後、再びこの地上に戻されるのですが、また天界に えき」 昇ろうと努力するのです。ただ行って戻ることの他には、何の益するところもありませ ん。それは、現代科学者たちが月に行き、戻って来るために、無駄な努力をしている姿に似ています。ヴェーダ権化たちは果報的活動を行なう者をアンダパランパラー、すなわ ち盲目的ヴェーダ儀式追従者と呼んでいます。ヴェーダ文典には様々な儀式が述べら れていますが、儀式というものは知識ある人々のためのものではありません。物質的な 快楽にあまりにも執着している人が高位の惑星系に昇るためにヴェーダ儀式を行なう のに対し、知性のある人すなわち正統なグルに保護を求める人は、果報的活動を行ない ません。ただ超越的な愛情奉仕を主に捧げるのです。 

献身者でない人々は物質的な恩恵を求めてヴェーダ儀式を行ない、その結果、当惑さ せられてしまいます。これに関して、次のような例をあげることができます。何億円も の紙幣を持っている人は、もちろん紙幣がただの紙の束にすぎないことは十分知って います。しかし、紙の束にすぎないからといって紙幣を使わないなら、それは愚かなこ とです。何億円もの紙幣を持っているということは、ただ紙の束を大量に持っているこ もち とにすぎないのですが、紙幣を正しく用いれば、その紙の束が役に立つのです。それと 同じように、物質界がちょうど紙切れのように虚偽の場であったとしても、正しい用途 さえ知っていれば無駄なものとはなりません。紙幣は確かにただの紙切れですが、政府 ユ」か仏 が発行したものであるために経済的価値が具わっています。同様に物質界は一時的で あったとしても、至上主から発現したものなので完全な価値があります。ヴァイシュナヴァ哲学者が物質界の完全な価値を認め正しく用いることができるのに対しマーヤー ヴァーデイー哲学者は、紙幣がただの紙切れだと勘違いして適切な用途を知らない人 と同じで、物質界の正しい使い方を理解していないのです。物質界には主への奉仕を行 なう場所としての重要性があります。それを知らずにただ放棄するだけの態度はほと んど価値がない、とシュリーラ・ルーパ。ゴースワーミーは語っています。真の放棄を行 なう人とは、主への奉仕の場としての物質界本来の重要性を知り、物質界に執着せず、 そして物質界を自分の感覚満足の目的に用いない人のことです。物質界は主の物質エ ネルギーが拡張したものです。蛇とロープの例から結論されるような虚偽の場所ではあり/ません。

ヴェーダ権化たちは一宇宙は一時的な存在であり二定したものではないので知性 とぽ に乏しい人にとっては虚偽の場所に思えます」と祈りの言葉を続けます。物質界は一時 的な場で、その中には永続する物がないので、虚偽の場所である、とマーヤーヴァー デイー哲学者は主張しています。ヴェーダの結論によれば、物質界は創造以前には存在 せず、破壊後は顕現しません。虚無主義者はその点を根拠にして、物質界が無から生じ たものであると結論しています。しかし、ヴェーダ文典によればそれは正しい理論では ありません。ヴェーダによれば、創造の起源は「この宇宙を発現させたお方、そして破壊 後に全宇宙を体内に吸収されるお方」であると説かれています。それと同じ事が『ヴェー ダーンタ・スートラ』および『シュリーマド・バーガヴァタム』の第一章で「万物を発現さ せたお方」という言葉によって説明されています。これらのヴェーダの教えにより、宇 宙は絶対者バガヴァーンによって現わされたものであり、破壊後は主に没入していく ことが理解できます。また『バガヴァッド・ギーター』でも、宇宙は創造と破壊を繰り返 すものであり、破壊後は至上主の中に入っていくと記述されています。このことから明 らかなように、バヒランガー・マーヤー(外的エネルギー)は一時的ですが、至上主のエ ネルギーとして虚偽の存在ではありません。ただ虚偽のように見えるだけです。物質界 は創造以前と破壊後には存在しないために虚偽である、とマーヤーヴァーデイー哲学 者は結論しています。しかし、ヴェーダの本来の結論は粘土の器の例によって表わされ ています。すなわち、絶対真理の副産物が一時的であったとしても、至上主のエネルギー .かめ は永遠なのです。粘土の鍋や瓶は壊れたり皿や器に形を変えることはありますが、その 素材である土は変わりなく存在し続けます。宇宙の根本原理ブラフマンすなわち絶対 真理は常に変化しません・ですから、宇宙が虚偽であるというマーヤーヴァーデイー哲 学者の理論は、ただ人間の思索によって作り出されたものにすぎません。宇宙が一時的 で常に変化するということは、宇宙が虚偽であることを意味するわけではありません。虚偽の定義とは「まったく存在しないにもかかわらず、ただ名称だけが存在するもの」 つの です。たとえば、馬の卵、空の花や兎の角などはただ名前だけしか存在しません。そのよ うな例は他にも数多くありますが、それが虚偽の意味するところです。物質界が一時的 な世界で破壊と創造を繰り返すからといって、ヴァイシュナヴァは物質界を虚偽の存 とら 在であるとは捉えません。 

ヴェーダ権化は祈りの言葉を続けながら一本の木にとまっている二羽の烏の例をあ げました。スーパーソウル(パラマートマー)と個別魂(ジーヴァートマ-)は二羽の烏 のように同じ体の中に入っているのですが、いかなる状況においても対等ではあり得 ません・二羽の烏が一本の木にとまっている例はヴェーダにも説かれています。一方の 烏は他方をただ観察しています。この観察者がパラマートマーです。他方は木の実をつ いばんでいて、これがジーヴァートマlです。宇宙が顕現している間、ジーヴァートマI は過去の果報的活動にしたがって物質自然の法則により様々な姿が与えられます。そ して、自分の真の姿を久しく忘れているために、物質の体が自分であると思っています。 物質的な体を与えられた生命体は、物質自然の三様式に影響されて、物質界に存在し続 けます。そのような無知に覆われているため、生命体が本来持っている富は、ごくわず かには現われていますが、そのほとんどが消えたようになっています。しかし、バガヴァーンはスーパーソウルとして物質界に現われながらも、その富は減少することが ありません・主はす、へての富とあらゆる完成を完全にお現わしになっていて、物質界の とら 苦しみが主に触れることはできません。束縛された魂は物質界の中にあって囚われの 身となっていますが、スーパーソウルはちょうど蛇が皮に執着しないのと同じように とら 物質界に囚われません。スーパーソウルと束縛された魂の違いは、スーパーソウルすな わちバガヴァーンがシャッドアイシュヴァリャ、アシュタ・シッデイ、アシュタ・グナと 呼ばれる主の本来の富を決して失われないことです。 

マーヤーヴァーディー哲学者は乏しい知識しか持っていないので、クリシュナが常 に六つの富、八つの超越的な質、八つの完成を具えていらっしやることを忘れています。 とみ 六つの富とは財、力、美、名声、知識、放棄においてクリシュナに優る者は誰もいないと けが いうことです。クリシュナの六つの超越的な質とは、まず第一に物質存在の汚れが主に 触れることは決してないということです。このことは『イーショーパニシャッド』でも、 けが アパーパ・ヴィッダンという語によって説明されています。いかに汚れた物でも太陽を けが けが 汚すことはできません。それと同じように、どのような罪も主を汚すことはできないの ふけいけん です。クリシュナは一見すると不敬虐なふるまいをされるような場合もありますが、主 けが がそれによって汚されることは決してありません。超越的な質の第二とは、クリシュナは決して亡くならないということです。『バガヴァッド・ギーター』の第四章で主はアル ジュナに「私もお前も以前から繰り返しこの世界に現われて来た。しかし、私は過去・現 在・未来にわたってすべての出現を覚えているが、お前はそれらを忘れている」とおっ な しやっています。このことは主が決して亡くならないことを意味しています。忘却は死 がもたらすものです。死ねば体が変化し、その結果忘却が生じます。しかし、クリシュナ は決してお忘れになりません・主は過去に起こったすべてを覚えていらっしゃいます。 『バガヴァッド・ギーター』のヨーガ体系をまず最初に太陽神ヴィヴァスヴァーンに授 けたことを覚えていらっしやるのも、そのためです。主には死も老いもありません。ク リシュナはクルクシェートラの戦場にお立ちになった時、すでに曾孫がいたのですが、 けが 老人の姿ではありませんでした。クリシュナが罪によって汚されることはありません。 め なげ お亡くなりになることはありません・年を召されることはありません・お嘆きになるこ かわ とはありません。空腹になることはありません・喉の渇きに雲われることはありません。 主の望みは決して規範にそれることがありません。そして、主が決定されたことは決し て誰も変えることができません。以上がクリシュナの超越的な質です。

その他にも、主 クリシュナはョ-ゲーシュワラとも呼ばれ、アニマ・シッディ(最小物よりも小さくな る術)などの神秘力をすべて身に着けていらっしゃいます。『ブラフマ。サンヒター』に述季へられているように雲クリシュナは原子の中にさえお入りになります。またガルボー ダカシャーイー・ヴィシュヌとして巨大な宇宙の中にも入っていらっしゃいます。そし てマハー・ヴィシュヌとして原海に横になってもいらっしやいます。このマハー・ヴイ シュヌの姿は非常に巨大であり、主の呼気とともに無数の宇宙が主の体から発現しま す。このように巨大な姿を取ることはマヒマ・シッデイと呼ばれます。またクリシュナ はラギマーの術も完成していらっしゃって、体の重さを無限に小さくすることができ ます。『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、すべての惑星が宇宙空間に 浮いているのは主が宇宙の中や全原子の内部にお入りになっているからです。これが 無重力の説明です。クリシュナはプラープティの術の完成によって、望む物すべてを獲 そな 得されます。また主はイシター(支配力)の術も具えているので、至上支配者すなわちパ ラメーシュワラと呼ばれています。その他にも、クリシュナは誰をも自分の支配下に置 くことができます。これはヴァシターと呼ばれる神秘ョIガの完成です。

クリシュナはすべての富、超越的な質、神秘力を具えていらっしやるので、普通の生 命体は主の比較の対象とはなり得ません。したがって、スーパーソウルと個別魂が等し い立場にあるというマーヤーヴァーディー哲学者の理論は単なる誤解にすぎません。 崇拝されるべきはクリシュナであり、その他の生命体はすべてクリシュナの召使であると結論できます。それを理解することが自己の悟りと呼ばれるものであり、生命体が うた クリシュナの永遠の召使であることを躯わない悟りは、マーヤーにただ踊らされてい たわごと わな る者の戯言にすぎません。マーヤーは、最後の良として、守ハガヴァーンと対等な立場に 立つ誘惑を生命体に与えると言われています。マーヤーヴァーディー哲学者は自分が お 至上主と対等であると主張していますが、なぜ物質界の束縛に堕ちて来たのかという ふけいけんとら 問いに答えることができません。もし彼らが至上主であるなら、なぜ不敬度な活動に捕 われて、カルマの法則にしたがって苦しめられているのでしょうか。マーヤーヴァー デイーはこの問いにうまく答えることができません。自分がバガヴァーンと対等であ ると思索することは罪の象徴の一つです。すべての罪から解放されない限り、クリシュ ナ意識を始めることはできません。マーヤーヴァーディーが至上主と一体であると主 張していること自体が、彼らがまだ罪から自由になっていないことを証明しています。 『シュリーマド・バーガヴァタム』は、そのような者はアヴィシュッダ・ブッディである みずか と述。へています。それは、絶対真理と対等であると考えながら、自らが解放されている けが と思っていることを意味します。彼らの知性はまだ汚れに満ちています。ヴェーダ権化 たちは、ョ-ギーやジュニャーニーが罪の欲望から解放されない限り、その悟りの道は 決して成功しないと述べています。

さらに、ヴェーダ権化たちは「親愛なる主よ。スーパーソウルは個別魂のすぐ隣に座っ ていらっしゃいます。しかし聖者は、罪の欲望の根本的な部分を根絶しようとしない限 り、スーパーソゥルを経験することはできません。サマーデイ(膜想)を得るには、まず みずか 自らの内にスーパーソウルを見い出すことが必須事項であり、罪の報いから自由になっ ていない者がスーパーソウルを見ることは不可能です。もし宝石の。ヘンダントを胸に かけている人が.ヘンダントのことを忘れてしまえば、それは.ヘンダントを持っていな いのと同じです。同様に、個別魂が膜想しても、スーパーソウルの存在を自分の内に経 験することができないなら、スーパーソウルを悟っていないのと同じです」と祈ってい けが ます。したがって、自己の悟りの道に入った人は、マーヤーの影響に汚されないよう十 分に気をつけなければなりません。

シュリーラ・ルーパ・ゴースワーミーは、献身者は完 全に物質的な欲望を捨てるべきだと述べています。献身者はカルマやジュニャーナの 結果に影響されてはならず、ただクリシュナを理解し、主の望みを遂行するべきです。 それが純粋な献身の段階です。さらに、ヴェーダ権化たちは、「神秘ョIギーがョIガ行 けが みずか 法に努めたとしても、感覚満足の汚れた欲望がある限り、その結果は実らず、また自ら の内にいるスーパーソウルを悟ることも不可能です。したがって、いわゆるョIギーや ジュニャーニーが限られた神秘力を発揮したり思索を行なったとしても、いずれにせ
よ何らかの感覚満足に時間を無駄にしているにすぎず、決して束縛からの解放を得る ことはできません。ただ生と死を繰り返すのみなのです。そのような者たちにとって、 今世も来世もただの苦しみの源にしかすぎません。そんな罪人はすでに今世でさえ苦 しみをなめさせられていて、しかも自己の悟りを完成していないために、来世でも苦し みを余儀なくされるのです。そのようなョ-ギーは完成を達成しようといかに努めて けが みても、感覚満足の欲望に汚されているために、今世でも来世でも苦しみ続けるのです」 と祈っています。

シュリーラ・ヴイシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークルはこれに関して 「自己の悟りのために家を離れたサンニャーシーが主の献身奉仕を行なわず、ただ博愛 デーヴァ 的活動(神々の寺院、僧院、学校、病院の建築など)のみを行なうなら、今世での苦しみが 訪ねて来るばかりか、来世での苦しみも余儀なくされる。人生の使命に目覚めずクリシュ ナを悟ろうとしないサンニャーシーは、ただ時間を無駄にしているだけであり、それは サンニャースの原則に背くものである」と述べています。献身者がヴィシュヌ寺院を建 てることは決して無駄な労働ではありません。そのような努力はクリシュナールテー・ アキラ・チェータサ(クリシュナを喜ばせるための諸活動)と呼ばれます。博愛主義者が 学校を建てることと献身者が寺院を建てることは、段階がまったく異なります。博愛主義者が教育機関を開くことは確かに敬虐な活動ですが、それはカルマの法則の支配下 にあります。それに対してヴィシュヌのために寺院を建てることは献身奉仕です。 

献身奉仕はカルマの法則を越えています。『バガヴァッド・ギーター』に述べられてい るように、献身者は物質自然の三様式の反動を超越し、ブラフマンの悟りの段階に立っ ています。また『バガヴァッド・ギーター』では、バガヴァーンの献身者は物質自然の三 様式の反動を完全に超越し、超越的ブラフマンの段階に達していると説かれています。 献身者は今世でも来世でも解放されているのです。物質界の中では、ヤジュニャ(ヴイ シュヌもしくはクリシュナ)のために行なわれた活動は、どのようなものであれ、解放 むびゆうしや された活動と見なされます。アチュータ(無謬者バガヴァーン)との結び付きがなけれ おんちょう ば、カルマの法則の働きを止めることはまったく不可能です。献身者が主の恩寵によっ て今世でも来世でも解放されているのに対し、カルミー、ジュニャーニーやョ-ギーは 今世でも来世でも決して解放を得ることができません。

ヴェーダ権化は「親愛なる主よ、御身の恩寵によって御身の蓮華の御足の栄光を理解 できた者は、物質的な幸福や不幸には関心がありません」と祈りを続けます。物質界に いる限り、物質的な苦しみは不可避です。しかし、物質界での活動とその反動によって 献身者が献身奉仕から注意をそらすことは決してありません。物質界の幸福や不幸は、すべて敬虐な活動や不敬虐な行ないの結果です。また献身者は一般の人の賞賛や非難 うちようてん に有頂天にならず、落胆もしません・超越的な活動を行なった献身者に対して、盛大な やおもて 称賛が寄せられることもあります。また、正当な理由なしに批判の矢面に立たされる場 合もあります。しかし、純粋な献身者は一般の人々の富〈賛や批判には気を取られません。 献身者は超越的な段階に立っているので、物質的な活動を行なっている人々からの賞 賛や非難には関心がないのです。そのように献身者が超越的な立場を維持することが できるなら、バガヴァーンによって今世や来世での解放が保証されます。献身者がこの 世界で超越的な段階に留まることができるのは、とりもなおさず「聞くこと」によるも リーラー のです。様々な時代に様々な化身で主が繰り広げられた栄光ある遊戯を純粋な献身者 とど との交際の中で聞くならば、物質界の中でさえ超越的な段階に留まることができるのです。 

クリシュナ意識運動はまさにその原理に基づいています。シュリーラ・ナローッタマ・ い‐と ダース・タークルは「愛しい主よ、偉大なアーチャーリャがお示しになった御身の超越 的愛情奉仕を私が行なえますように。そして純粋な献身者との交際の中で暮らすこと ができますように・何度生まれ変わっても、これが私の望みです」と歌っています。つま り献身者は解放自体にはさほど関心がありません・彼らが求めるものはただ一つ、献身奉仕だけです。献身奉仕とは「アーチャーリャの許可なしに自分勝手なふるまいを行な わない」という意味です。クリシュナ意識の活動はシュリーラ・ルーパ・ゴースワーミー を筆頭とするアーチャーリャの指示にしたがうものです。これらの原則にしたがって いる献身者と交際することにより、超越的な段階に留まることができるのです。 

『バガヴァッド・ギーター』で主がおっしゃっているように、主を完全に知る献身者が いと けいけん 主にとって最も愛しい献身者です。献身奉仕を始めるのは四種類の敬度な人々です。敬 虐な人が苦しみに直面する時、苦悩の緩和を求めて主に近づきます。敬度な人が物質的 な援助を必要としている場合には、助けを求めて主に祈ります。敬度な人が主の科学に 関して好奇心を持ったなら、バガヴァーン・クリシュナに近づきます。同じように、敬度 な人がクリシュナの科学を知りたいと真剣に思えば、至上主に近づきます。これらの四 種類の人のうち、最後の人が『バガヴァッド・ギーター』で主自身から称賛されています。 至上主の科学に精通している過去のアーチャーリャにしたがい、完全な知識と献身を 持ってクリシュナを理解しようと努める者は、賞賛に値します。そのような献身者は、 束縛された生活が(自分にとって好都合なものであれ、不都合なものであれ)すべて主 の計画にしたがって授けられたものであることを知っています。主の蓮華の御足に完 全服従している献身者は、束縛された生活が自分にとって不都合であるのか好都合であるのかは、まったく気にしません。献身者は自分に不都合な状況さえもバガヴァーン の特別な恩恵として受け入れます。献身者にとって、実際には不都合な状況など存在し ません。献身者はすべてが主の好意的な意志によって授けられたものであると受け止 め、どのような境遇にあっても献身奉仕をただ熱心に行なうのみです。この献身的な態 度について『バガヴァッド・ギーター』では「献身者は逆境にあって苦悩せず、順境にあつ う,ちようてん て有頂天にならない」と説かれています。そして献身奉仕の高い段階に達した献身者は、 教典に説かれている奨励事項や禁止事項にさえも関心がありません・そのような高水 そくせき 準の段階に留まることは、アーチャーリャの足跡にしたがうことによってのみ可能と なります。純粋な献身者はいつもアーチャーリャの足跡にしたがっているので、彼らが 献身奉仕の実践のために行なった活動はすべて超越的段階にあるものだと理解するべ きです。したがって、主クリシュナはアーチャーリャが批判を越えた存在であるとおつ しやっています。初心の献身者は自分がアーチャーリャの段階にあると考えてはなり ません。むしろ、アーチャーリャがバガヴァーンと同じ段階にあると受け入れなければ ならないのです。したがって初心の献身者はクリシュナ自身やクリシュナの代理者で あるアーチャーリャを批判の対象とすべきではありません。 

このようにして、ヴェーダ権化たちは様々にバガヴァーンを崇拝しました・祈りによってバガヴァーンを崇拝するということは、主の超越的な質、遊戯や活動を思い出すとい リーラー う意味です。しかし、主の超越的な遊戯や質は限りがありません。主の質をすべて思い 出すことはまったく不可能です。したがってヴェーダ権化たちは能力の許す限り最善 を尽くして主を崇拝した後、次のように祈りました。

「親愛なる主よ、最高惑星ブラフマローカの主宰神である主ブラフマー、天界惑星の つかさど 主宰神であるインドラ王、そして太陽や月などの星々の主宰神はすべて物質界を司る 崇高な方々であるにもかかわらず、御身についてはほとんど何も知りません。したがっ て普通の人々や思索家が御身を知らないのは言うまでもありません。御身の無限の超 デーヴァ 越的な質を数え尽くすことは誰にもできません。思索家や高位惑星の神々でさえも、御 身の姿と質がいかに深遠であるかを計ることができないのです。御身の超越的な質に ついては、御身が無限者なるがゆえに、御身自身も完全にはお知りでないのではござい ませんでしょうか。御身がご自身をお知りではない、などと言うべきではないかも知れ そな ませんが、御身は無尽蔵の質とエネルギーを具えると同時に無限の知識を持っていらっ しゃるので、御身の知識とエネルギーが無限の競争を行なっていると言えるのではご ざいませんでしょうか」 

みずか つまり主自身と主の知識が無限なので、主が自らのエネルギーを知覚された瞬間に、主のエネルギーが増加し、その瞬間に主の知識によって主のエネルギーの増加が捉え られるということです。そのように主の知識とエネルギーが無限に拡張していきます。 両者とも無限なので、主のエネルギーも、そして、そのエネルギーを知覚する主の知識 も、際限がありません・主は疑いなくすべてを知り尽くしていらっしゃいますが、ヴェー みずか ダ権化たちは、主自身が自らのエネルギーを知り尽くしてはいないと語っています。そ れは主が全知でないことを意味するものではありません。無知すなわち知識の欠乏と は、何か知らないものがあるということです。しかし、それは主にはあてはまりません。 主は自分自身を完全にご存じなのですが、主のエネルギーと活動が主の知識よりも大 きくなります。すると主が自分の知識を増して、それらを理解されるのです。その両者 が無限に増加し、果てることがありません。その意味においてなら、主自身が主のエネ ルギーと質を知り尽くしていないと言うことができます。 

主の質と活動が無限に増加することは、正常な人なら誰でも理解できます。ヴェーダ つ 文典で述べられているように、無限の宇宙は、ヨーガ・ニドラーの眠りに就いているマ ハー・ヴイシュヌの呼気とともに主の体から現われ、そして吸気とともに再び主の体の 中に入って行きます。これらの宇宙はあまりにも巨大であり、私たちの限られた知識に よれば無限の広がりがあるように見えます。宇宙の構成要素である五大要素(土、水、火、 空気、空間)は宇宙内部だけではなく七つの層となって宇宙全体を覆い包んでいて、各 層は一つ内側の層の十倍の幅を持っています。このように各宇宙はしっかりと閉じら れていて、そのような宇宙が無数に存在します。すべての宇宙はマハー。ヴイシュヌの ほこり 超越的な体の無数の毛穴の中に浮いています。無数の原子や挨の粒が空気の中に烏と ともに浮かんでいるように、無数の宇宙が主の超越的な体の毛穴の中に浮かんでいる とヴェーダに記述されています。このようにヴェーダは主が私たちの理解の範囲を越 えていると説いています。主の深遠さを知ることは思索の力を越えています。したがっ て真の学識を持つ正常な人は、自分が主であると自称することは決してなく、物質と精 神の違いを知って主を理解しようと努めます。そのように注意深く識別することによっ て、至上魂が下位エネルギーと上位エネルギーの両者に直接に関わりながら、その両者 を超越していらっしゃることが理解できるようになります。主クリシュナは『バガヴアッ ド・ギーター』で、すべてが主のエネルギーによって維持される一方、主自身はそれらの エネルギーとは同じものではなく、それらは主から分離したものであると説明していらつしやいます。

自然と生命体はそれぞれプラクリティとブルシャと呼ばれ、物質宇宙はその二つの 混合体です。自然は物質要素の素材であり、生命体がそれを操作する要因です。この二っの原因が組み合わさった結果が宇宙です。宇宙とその内部で起こる全事象について判 正しい結論に達したならば、宇宙が直接的間接的にバガヴァーンに起因していることう全 が理解できるようになります。したがって『ブラフマ・サンヒター』には、イーシュヴァ ラ・パラマ。クリシュナ・サッチダーナンダ・ヴィグラハ・アナーディラーディ・ゴーヴィ ンダ・サルヴァ・カーラナ・カーラナンと結論されています。 熟慮の後に知識を完成させた人は、至上主クリシュナが万物の根本原因である、と結 論します。私たちは、主の大きさを計るために思索や哲学を続けるよりも、『ブラフマ・ サンヒター』が説く「至上主クリシュナが万物の根本原因である」という結論に至るべ きです。それこそが知識の完成です。 

師弟継承上でヴェーダ・シュルテイ(ヴェーダ権化がガルボーダカシャーイー・ヴィ シュヌに捧げた祈りの言葉)を最初に語ったのは四人のクマーラの一人サナンダナで あり、それを聞いたのがサナンダナの兄弟たちでした。この四人のクマーラは宇宙創造 のはじめにブラフマーから最初に生まれた息子たちで、プールヴァ・ジャータと呼ばれ ています。「ハガヴァッド・ギーター』が述べているように、パランパラー(師弟継承)はナ ユ クリシュナ自身から始まったものです。そしてヴェーダ権化の祈りにおいても、パランシ リ ・ハラーがバガヴァーンであるナーラーヤン・リシから始まったものであることが理解できます。このヴェーダ・シュルティは四人のクマーラの一人であるサナンダナによっ て語られ、そして後にバダリーカーシュラムでナーラーヤン・リシによって再び語られ たものです。ナーラーヤン・リシはクリシュナの化身であり、ヒマラヤ山中で厳しい苦 行を行なうことによって、自己の悟りの道を人類に示されました。今の時代では、主チャ みずか イタンニャが自ら純粋な献身者としてお現われになり、純粋な献身奉仕の道をお示し くださいました。サナンダナがヴェーダ・シュルテイの中で語った内容をナーラーヤン・ リシがナーラダ・ムニにお伝えになり、主が至上者でありその他の者はすべて主の召使 であることが明らかにされました。 

『チャイタンニャ・チャリタームリタ』に説かれているように、クリシュナこそが唯一 の至上主であり、他の者すべては主の召使です。生命体がそれぞれ様々な才能や性質を 持つのは、至上主が全生命体にそれぞれ様々な活動をさせられるからです。このヴェー ダ・シュルティの祈りは、生命体とバガヴァーンの関係に関する根本的な教えです。生 けが 命体にとっての最高の悟りとは、献身生活の段階に到達することです。物質的な汚れか ら完全に自由にならない限り、献身生活すなわちクリシュナ意識を行なうことはでき ません。ナーラーヤン・リシはナーラダ・ムニに、全ヴェーダとヴェーダ文典(すなわち エッセンス 四ヴェーダとウパニシャッドおよびプラーナ)の神髄は主への超越的愛情奉仕の知識である、とお話しになりました。それに関してナーラーヤン・リシは特にラサという語 を使っています。ラサとは献身奉仕の中で主と生命体の間の関係を交換するための媒 介もしくは基本的原理です。ラサについては、ヴェーダにおいても「至上主はすべての 喜びの源である」と記述されています。プラーナ、ヴェーダ、ウパニシャッド、そして 『ヴェーダーンタ・スートラ』を含む全ヴェーダ文典では、ラサの段階に到達する方法が 生命体に教えられています。『バーガヴァタム』の中でも、マハープラーナ(『シュリーマ エッセンス ド・バーガヴァタム』)には全ヴェーダ文典のラサの神髄が含まれていると説かれてい ます。「バーガヴァタム」こそがヴェーダ文典という樹木の最も熟した果実なのです。 私たちが理解しているように、四ヴェーダ(『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤ ジュル・ヴェーダ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』)や歴史書『マハーバーラタ』や全プラーナ (世界史書)は、バガヴァーンの呼吸から現われ出たものです。これらプラーナや『マハー バーラタ』などのヴェーダ歴史書は、第五のヴェーダ文典と呼ばれています。 

私たちが理解しているように、四ヴェーダ(『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤ ジュル・ヴェーダ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』)や歴史書『マハーバーラタ』や全プラーナ (世界史書)は、バガヴァーンの呼吸から現われ出たものです。これらプラーナや『マハー バーラタ』などのヴェーダ歴史書は、第五のヴェーダ文典と呼ばれています。

ヴェーダ・シュルテイの祈りは全ヴェーダ知識の神髄とされています。四人のクマー ラや権威ある聖者たちは、クリシュナ意識の献身奉仕こそが全ヴェーダ文典の神髄で あることを聞き知り、全宇宙を旅しながら様々な惑星でその教えを説いてまわってい ます。ここに述べられているように、ナーラダなどの聖者は地上を歩くことはほとんど なく、いつも宇宙を飛んでいるのです。 

ナーラダやクマーラをはじめとする聖者たちは全宇宙を旅し、束縛された魂たちに つ‐と 対して「この世界での務めは感覚満足を行なうことではない。本来の立場に戻ってバガ たと ヴァーンに献身奉仕を捧げることなのだ」と教え導いています。しばしば例えられるよ うに、生命体は火の粉でありパガヴァーンは炎です。炎から落ちこぼれた火の粉は、本 お 来の輝きを失ってしまいます。生命体が物質界へと堕ちて来たのは、まさに炎から火の 粉がこぼれ落ちるようなものです。生命体は、クリシュナをまねて物質自然を支配しよ うとすると、直ちに自己本来の立場を忘れてしまい、光り輝く力つまり精神的な本来の 姿を失ってしまいます。しかし、クリシュナ意識を受け入れるならば、再び本来の立場 に戻ることができます。ナーラダやクマーラのような聖人聖者たちは全宇宙を旅し、人々 には教えを授け、弟子たちには説教を行なうように指示します。指示を与えられた弟子 たちもまた、束縛された魂に献身奉仕の方法を説き、本来の意識であるクリシュナ意識 はぐく を育み、物質的な生活の悲惨な苦しみから自由になれるように導くのです。 

シュリー・ナーラダ・ムニはナイシュティカ・ブラフマチャーリーです。ブラフマチャー リーには四種類あります。サーヴィトラは入門と聖紐の儀式の後、少なくとも三日間禁 欲するブラフマチャーリーです。ブラジャーパッテャは入門後、少なくとも一年間厳格に禁欲生活を行なうブラフマチャーリーです。次に、ブラフマ・ブラフマチャーリーは 入門時からヴェーダ学習終了時まで禁欲生活を行ないます。最後に、ナイシュティカは 生涯を通じて禁欲生活を行なうブラフマチャーリーです。この中で最初の三つはゥパ クルヴァーナと呼ばれ、ブラフマチャーリー期の後に結婚します。しかし、ナイシュティ カ・ブラフマチャーリーはあらゆる性生活を完全に拒否します。クマーラやナーラダは このナイシュテイカ・ブラフマチャーリーとして有名です。ブラフマチャーリー制度は 特に記憶力と決意を強化します。記憶力に関して、ナーラダはグルから聞いたことをす べて記憶し、決して忘れなかったと言われています。このようにすべてを決して忘れな い人はシュルタ・ダラと呼ばれます。シュルタ。ダラ・ブラフマチャーリーにはメモを取 ることも本を読み返すことも不必要で、一度聞いた言葉は正確に繰り返すことができ ます。偉大な聖者ナーラダはそのような力を持っていたので、ナーラーヤン・リシから 教えを授かった後、全世界に献身奉仕の哲学を教え伝えました。博覧強記の偉大なリシ・ ナーラダは思慮深く、自己の悟りを忘れず、そして主への奉仕から決してそれなかった ために、グルであるナーラーヤン・リシから聞いた後、教えを完全に理解し、真理から決 してそれませんでした。そのために大きな幸福を得た彼は、ナーラーヤン・リシに祈りを捧げました。

ナイシュティカ・ブラフマチャーリーはヴィーラ・ヴラタとも呼ばれます。ナーラダ. ムニはナーラーヤン・リシをクリシュナの化身と称え、束縛された魂の最高の友である と賞賛しました。『バガヴァッド・ギーター』に述謬へられているように、主クリシュナは 献身者を保護し非献身者を滅ぼすために各時代毎に降誕されます。ここでは、ナーラー ヤン・リシはクリシュナの化身であり、すべての束縛された魂の友であると述べられて います。『バガヴァッド・ギーター』にあるように、クリシュナほど好意的な友は他にい ません。クリシュナが最高の友であり、クリシュナに服従すべきであることを万人が理 解すべきです。そうすれば、あらゆる保護を授けてくださるお方がいることを理解し、 自信と満足を得ることができます。クリシュナ自身、クリシュナの化身、そしてクリシュ ナの完全拡張体は、いずれも束縛された魂の最高の友です。そればかりか、クリシュナ は悪魔に対してさえ友でいらっしゃいます。なぜなら、クリシュナを殺そうとヴリンダー ヴァンにやって来た悪魔でさえも主から解放を授かったからです。悪魔を滅ぼすこと も献身者を保護することも、クリシュナにとってはまったく同じです。したがって、主 の福祉活動は絶対的なものです。プータナーはクリシュナの母と同じ立場に昇ったと 言われています。悪魔がクリシュナに殺されることによって素晴らしい恩恵を授かる のに対し、純粋な献身者は常にクリシュナの保護を受けています。

ナーラダ・ムニはグルに敬意を捧げた後葺弟子のヴィヤーサデーヴァのアーシュラム に行きました。そこで歓迎を受け心地好く座った後、ナーラーヤン・リシから聞いた教 エッセンス えをすべて語りました。シュカデーヴァ・ゴースワーミーはヴェーダの神髄について、 そしてヴェーダ知識の目的についてマハーラージ・パリークシットから尋ねられて、以 上のように答えました。人生の最高の目的は、バガヴァーンから最高の恩恵を得て、主 への愛情奉仕を行なうことです。私たちは、シュカデーヴァ・ゴースワーミーや師弟継 承上の全ヴァイシュナヴァの足跡にしたがって、主クリシュナすなわちバガヴァーン・ ハリに尊敬の礼を捧げるべきです。ヴァイシュナヴァの四つの師弟継承(マドヴァ・サ ンプラダーヤ、ラーマーヌジャ・サンプラダーヤ、ヴィシュヌスワーミー・サンプラダー ヤ、ニンバールカ・サンプラダーヤ)はヴェーダ文典の結論にしたがって万人がバガ ヴァーンに服従すべきことを受け入れています。 

ヴェーダ文典はシュルティとスムリティに分類され、シュルティは四ヴェーダ(リグ、 サーマ、アタルヴァ、ヤジュル)とウパニシャッドを指し、そしてスムリティは『マハー バーラタ』(この中には『バガヴァッド・ギーター』が含まれる)などのプラーナを意味し ます。これら全ヴェーダは、シュリー・クリシュナをバガヴァーンとして受け入れるべ きだと結論しています。主クリシュナはパラマ・プルシャすなわち物質界の創造・維持.破壊を司るバガヴァーンであり、宇宙創造の後、ブラフマー、ヴイシュヌ、シヴァに化身 つかさど されます。この三化身は物質自然の三様式を司るのですが、最終的な指示は主ヴィシュ ゆだ ヌの手に委ねられています。三様式の支配下にある物質自然は、バガヴァーン・クリシュ ナの指示のもとに動いています。このことは『バガヴァッド・ギーター』(マヤーデャク シェーナ)と、ヴェーダ(サ・アイクシャタ)にも明らかにされています。 

無神論的サーンキャ哲学によれば、物質宇宙はプラクリティとプルシャによるもの で、自然と物質エネルギーが物質宇宙の素材かつ動因であるとされています。しかし実 際には、万物の根本原因なるお方クリシュナこそが素材であると同時に動因でいらっ しゃいます。プラクリティとプルシャは究極的な原因ではありません。皮相的には両親 の和合によって子供が生まれるように見えるかも知れませんが、その父親と母親の究 極的な原因はクリシュナです。したがって『ブラフマ・サンヒター』に述べられているよ うに、クリシュナこそが根本原因であると結論されます。 

物質自然の中には、至上主と生命体が入っています。至上主クリシュナは完全拡張体 であるカラノーダカシャーイー・ヴィシュヌすなわちマハー・ヴィシュヌ(原海に横た わる巨大なヴィシュヌ)の姿をお取りになります。次に巨大なマハー・ヴィシュヌから ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌが各宇宙に拡張体として現われます。そしてガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌからブラフマー意ヴイシュスシヴァが拡張体として 出現します。クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌは各生命体の心臓の中のみならず 原子をも含む万物の中に入ります。『ブラフマ・サンヒター』にあるように、主はこの宇 宙内にいると同時に全原子の中にもいらっしゃるのです。

生命体には、様々な生命形態の姿を取った小さな物質の体が与えられています。それ と同じように、全宇宙はバガヴァーンの巨大な物質的身体であると言えます。シャース トラには、主の宇宙としての体がヴィラート・ルーパであると述べられています。個別 の生命体が各自の体を維持しているように、バガヴァーンも宇宙の中に入ることによっ て、宇宙を維持されます。個別の生命体が体から去った瞬間に体が滅び去るように、主 ヴィシュヌが宇宙からお去りになると、万物はすべて破壊されてしまいます。『バガ ヴァッド・ギーター』に述べられているように、物質界からの解放は個別の生命体がバ ガヴァーンに服従した時にのみ保証されます。ただバガヴァーンに服従することによっ てのみ、解放を得ることができるのです。生命体がバガヴァーンに服従することによっ てのみ物質自然の様式から解放されることについて、部屋で眠っている人の例をあげ ることができます。眠っている人以外は、寝ている人の体を部屋の中に見ることができ ます。しかし眠っている本人は体の中にはいません。なぜなら、起きている人は寝ている人の体が見えるのですが、眠っている本人は自分の体を忘れているからです。同じよ うに、主への奉仕を行なって解放を達成した人が、他人の目には世俗の世帯者としてふ るまっているように見えたとしても、本人の意識はクリシュナから決してそれること がなく、物質界には住んでいないのです。眠っている人が経験している事柄が物質の身 体とはまったく無関係であるのと同じように、解放された人のふるまいは俗的な目で はけっして理解できません。『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、主へ の超越的愛情奉仕を常に行なっている献身者は、すでに物質自然の三様式の影響を超 越し、たとえ物質の体の中にあって物質界に住んでいるように見えたとしても、精神的 悟りのブラフマンの段階に達しているのです。 

シュリーラ・ルーパ・ゴースワーミーは著書『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』で、 バガヴァーンに仕えることを唯一の望みとする人は、物質界の中でどのような状況に 置かれていたとしても、ジーヴァン・ムクタ段階(物質の体や物質界の中に住んでいな がら解放されている状態)にあると述べています。そのような人は実際には物質界とは 何の関わりもありません。クリシュナ意識でない人はカルミーやジュニャーニーと呼 とど ばれ、身体的段階や思索的段階に留まっているために解放に達することができません。 そのような段階はカイヴァリャ・ニラスタ・ョI二と呼ばれます。しかし『バガヴァッド.ギーター』の第四章にも説かれているように、超越的段階に到達した人は生と死の繰り 返しから解放されています。バガヴァーン・クリシュナの超越的な性質をただ知るだけ で、生と死の繰り返しから自由になり、現在の体を離れた後、精神界へと帰って行くこ とができるのです。これが全ヴェーダの結論です。ヴェーダ権化たちの祈りを理解した ならば、主クリシュナの蓮華の御足に服従するべきです。

以上『クリシュナ』第八十六音三ヴェーダ権化の祈り」に関するバクティヴェーダンタ 解説終了。

« Previous Next »