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第89章

クリシュナの非凡な力 

はるか昔のこと、サラスヴァティー川のほとりで偉大な聖者たちの会合が開かれ、サ トラヤジュニャと呼ばれる大供儀祭が行なわれたことがありました。普通そのような 聖者の会合では、ヴェーダの様々な話題や哲学的主題について議論が行なわれますが、 この会合では物質界の三主宰神(主ブラフマー・主ヴィシュヌ・主シヴァ)についての質 問がなされました。この三主宰神は物質宇宙の管理運営を行なっていますが、その内の 誰が至上者なのでしょうか。この問題に関して討論が行なわれた後、三神をすべて試し た上で誰が最も偉大であるかを報告するように選ばれたのが、主ブラフマーの息子で ある偉大な聖者ブリグでした。 

偉大な聖者ブリグ・ムニは代表者に選ばれると、まず父を訪ねてブラフマローカに行 つかさど きました・三主宰神は物質自然の三様式(徳・激情・無知)を司っています。ブリグはその 三主宰神の内で誰が徳の様式を完全に身に着けているか調べる使命を持っていたので、 父親の主ブラフマーに会っても尊敬の礼も祈りの言葉も捧げず、まったく敬意を払い ませんでした。息子や弟子が父やグルに近づく際は、敬意を表わして祈りの言葉を捧げ なければなりません。しかし、ブリグ・ムニは故意に敬意を示さず、主ブラフマーがどの ような反応をするか試そうとしました・主ブラフマーは息子の無礼に激怒し、その怒りは誰の目にも明らかなほどで、ブリグに呪いをかけんばかりでした。しかしながら、ブ リグが自分の息子であったために、主ブラフマーは知性をもって怒りを抑えました。こ のことが示しているように、主ブラフマーは激情の様式を顕著に持ちながら、それを抑 える力も持っています。主ブラフマーの怒りとその抑制力は、ちょうど火と水のような ものです。水は火から生じたものですが、水は火を消すことができます。同じように、主 ブラフマーは激情の質のために激しく怒ったのですが、ブリグ・ムニが息子であったた めに、怒りを抑えることができました。 

主ブラフマーを試した後、ブリグ・ムニは主シヴァが住んでいるカイラーサ惑星を訪 ねました。ブリグ・ムニと主シヴァは兄弟にあたります。主シヴァは兄弟の来訪を大い に喜び、歩み寄ってブリグ・ムニを抱きしめようとしました。しかしブリグ・ムニがそれ こぱ いし」 を拒みます。「愛しい兄弟よ、どうしていつもこんなに不浄なのですか。体が灰にまみれ ていて、清潔ではありません。あなたにだけは触られたくありません」と嫌がると、主シ たけ ヴァは怒りに猛り狂いました・

侮辱には、想いによる侮辱と言葉による侮辱と体による 侮辱の三段階があります。最初、ブリグ・ムニはブラフマーに対して想いによる侮辱を 働きました。次に主シヴァに不潔であると批判したことは、言葉による侮辱です。主シ ヴァは無知の様式が顕著であったために、ブリグから侮辱の言葉を聞くと、ただちに両の目が怒りで紅色に染まりました。主シヴァは怒りを抑え切れず、三叉を手に取り、今 にもブリグを殺そうとしました。ちょうどその場に居合わせた妃のパールヴァテイー が主シヴァの徳の質を呼び覚まして、事態を収拾しました。パールヴァテイーは主シヴァ の足元にひれ伏し、優しい言葉でブリグ・ムニを殺さないように願ったのでした。

ブリグ・ムニは主シヴァの怒りから救われた後、シュヴェータドヴイープを訪ねまし た。シュヴェータドヴィープでは主ヴィシュヌが花のベッドに横になっていらっしやつ そば て、その側には妃である幸運の女神が主の蓮華の御足をマッサージしています。そこで、 おか ブリグ・ムニは主ヴィシュヌに対する身体的侮辱という最大の罪をあえて冒しました。 おか 彼はまず最初に想いによる侮辱を働き、次に言葉で侮辱し、今回は身体的侮辱を冒そう としています。これらの侮辱はしだいに侮辱の度合が大きくなっています。想いによる 侮辱も確かに侮辱です。その想いを口に出して言えば、さらに侮辱の程度が大きくなり おか ます。そして体を使って冒した侮辱は最も重いものです。ブリグ・ムニの侮辱は、幸運の け 女神の面前で主の胸を蹴るというものでした。もちろん、主ヴイシュヌは慈悲の海なる お方です。ブリグ・ムニが偉大なブラーフマナであったので、主ヴイシュヌはブリグの そのようなふるまいをまったくお怒りになりませんでした。ブラーフマナが時に侮辱 を働いたとしても、それは許されるべきです。したがって、主ヴィシュヌはその模範をお示しになったのです。しかしながら、ブリグ・ムニが主の胸を蹴った時から幸運の女神ラクシュミーはブラーフマナにあまり好意的ではなくなりました。それ以来、ブラー まず フマナは幸運の女神の恵みを受けることができず、貧しい暮らしをするようになった と言われています。ブリグ・ムニが主ヴィシュヌの胸を蹴ったことは確かに偉大な侮辱 です。しかし、主ヴイシュヌはそれにもまして偉大なお方なので、まったく気になさい ませんでした。カリ・ユガの自称「ブラーフマナ」たちは主ヴィシュヌの胸に足で触れ ることができると自慢していますが、ブリグ・ムニが主ヴィシュヌの胸を蹴ったことは、 それとは話が別です。なぜなら、蹴るということは最大の侮辱なのですが、主ヴィシュ ヌは非常に寛大なお方なので、それが重大なことだとはお考えにならなかったからです。

主バワイシユヌ片 の女神とともにべ 捧げられました。たず 「親愛なるブラーフマナよ、私ごときをお訪ねくださるとは身にあまる光栄でござい ます。どうかこの座に腰をおかけくださいませ。おおブラーフマナよ、御身が最初お入 りくださった時にお出迎えも申し上げず、無礼千万、誠に申し訳ございませんでした。ヌはブリグ・ムニに怒りもせず、呪いもかけられませんでした。妃の幸運 にベッドからお立ちになると、ブラーフマナのブリグ・ムニに尊敬の礼を ↑か‐しk・7 不肖私の何と侮辱的なことでございましょう。どうかお許しくださいませ・御身はたい へんに清らかで偉大なお方でいらっしゃいますゆえ、御身の御足を洗った水に巡礼の 聖地さえも清められます。私が交際者たちと住んでいるこのヴァイクンタ惑星も、どう か御身の御足で浄化して頂けませんでしょうか。おお父よ、偉大なる聖者よ。御身の御 かた 足はたいへん柔らかく蓮の花のようですが、それに比べ、私の胸は稲妻のような堅さで す。御身の御足が私の胸に触れて、痛みをお感じにはなりませんでしたでしょうか。痛 やわ も みを和らげるため、御身の御足をお操み申し上げましょう」と主はおつしやって、ブリ グ・ムニの足をマッサージし始められました。 

さらに主は「おお主人よ、御身の御足に触れて、この胸が清らかなものとなりました。 幸運の女神ラクシュミーも、いつまでも喜んでこの胸に住まうことでございましょう」 とさえおっしゃいました。ラクシュミーは別名チャンチャラーとも呼ばれ、それはラク とと シュミーが決して一つの場所に留まらないことを意味しています。富豪の家系が数世 代の後に貧乏人となり、貧者が資産家となることがしばしば見られるのはそのためで す。幸運の女神ラクシュミーはこの物質界ではチャンチャラーですが、ヴァイクンタ惑 星では永遠に主の蓮華の御足のもとで暮らしています。「ラクシュミーはチャンチャラー であるために永遠に私ナーラーヤンの胸で暮らすとは限らないが、ブリグ・ムニの足に触れて胸が浄化されたために、ラクシュミーが去って行くことは決してないだろう」と 主ナーラーヤンはおつしやったのです。ブリグ・ムニは自分とバガヴァーンの立場が理 解できました。ブリグ・ムニは、主のふるまいを見て驚きに打たれ、そして、主への感謝 の念に満たされました・声がつまって主の言葉に応えることができず、左右の目からは 涙があふれ、一言も口にすることができません。ただ主の御前に立ち尽くすばかりでした。

ブリグ・ムニは主ブラフマー、主シヴァと主ヴィシュヌを試した後、サラスヴァティー 川のほとりに戻り、自分の経験を語り伝えました。聖者たちはブリグ・ムニの言葉に注 意深く耳を傾けた後、三主宰神の中で主ヴィシュヌこそが徳の様式を最も身に着けた お方であると結論しました。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、この大聖者たちをブ ラフマ・ヴァーデイナーンと述べています。このブラフマ・ヴァーディナーンとは、絶対 真理について議論するがまだ結論には到達していない人のことです。一般にブラフマ・ ヴァーデイーといえば、マーヤーヴァーディー哲学者やヴェーダ研究者を指します。こ の会合に集まった聖者たちはヴェーダ文典を真剣に研究してはいたのですが、誰が零ハ ガヴァーンであるかについてはまだ結論に達していなかったのです。 聖者たちはブリグ・ムニが三主宰神(主ブラフマー・主シヴァ・主ヴィシュヌ)に会って経験したことを聞き主ヴィシュヌこそが絶対真理・バガヴァーンでいらっしやると 結論しました。『シュリーマド。バーガヴァタム』に述べられているように、ブリグ・ムニ から詳細を聞いて、聖者たちは驚きに打たれました。なぜなら、主ブラフマーや主シヴァ け がすぐに腹を立てたのに対し、主ヴィシュヌはブリグ・ムニに蹴られたにもかかわらず、 まったく怒らなかったからです。小さな炎はわずかな風が吹けば乱されますが、最も大 きな炎(すべての光の源である太陽)はいかに大きな台風がやって来ても、決して乱さ れません・人の偉大さを見るには挑発にどれだけ耐えられるかを試せばよいのです。サ ラスヴァティー川のほとりに集まった聖者たちは、あらゆる恐怖からの解放と真の平 和を望むならば、主ヴィシュヌの蓮華の御足に保護を求めるべきだ、と結論しました。 主ブラフマーと主シヴァはわずかな刺激で激怒したのですから、自分の献身者に平和 と平安を授けることがどうしてできましょうか。それに対して、『バガヴァッド・ギー ター』に述べられているように、主ヴィシュヌや主クリシュナが最高の親友であると受 け入れたならば、完壁な平安に満ちた生活を達成することができるのです。 

ヴァルナーシュラム・ダルマの制度にしたがうことによって真の完成を達成するこ とができる、と聖者たちは結論しました。しかし、特定の宗派の宗教原則に完全にした がったとしても、バガヴァーン・ヴィシュヌを理解しないならば、そのような愛の活動はまったく無駄なものとなります。宗教原匪を実践するならば誉完全知識の段階に達す るべきです。そして、完全知識の段階に達したならば、物質的な物事に関心がなくなり ます。完全知識とは、自己と至上魂について知ることです。至上魂と自己は質的には一 つですが、量的にはまったく異なります。このことを分析して理解することが完全知識 です。ただ「私は物質的な存在ではない。精神である」と理解するだけでは完全知識とは 言えません・真の宗教原則とは献身奉仕すなわちバクティです。このことは『バガヴァッ ド・ギーター』にも明らかにされていて、主クリシュナは「他の宗教原則をすべて捨て、 ただ私に服従せよ」とおっしゃっています。したがって、ダルマという語は実際にはヴァ イシュナヴァ・ダルマ、すなわちバガヴァッド・ダルマだけを意味します。ダルマにした おの がうならば、自ずとすべての良い質を身に着け、人生の完成が達成されるのです。 

完全最高の知識とは至上主について知ることです。献身奉仕以外の宗教的方法によっ て主を悟ることはできません。したがって、献身奉仕を行なえば完全知識の結果がすぐ に達成されるのです。知識を達成すれば物質界には関心がなくなります。しかし、それ は無味乾燥な哲学的思索による放棄ではありません。献身者はただ理論的な理解に基 づいて物質界に関心がないのではなく、実際的な経験にしたがって興味がないのです。 至上主との交際によって何が起こるかを知った献身者は、いわゆる社会、友情や愛情などとの関わりには自ずと無関心になります。この無執着は無味乾燥なものではなく、紹一 越的な味わいを得て、より高い段階に達したことによるものです。さらに「シュリーマ ド・バーガヴァタム』では、知識の段階に達し、物質的な感覚満足に無執着になった人は、 おの アニマー、ラギマーやプラープティ・シッディなどの神秘ョIガの完成も、自ずと達成 すると述べられています。その良い例がアンバリーシャ・マハーラージです。彼は神秘 的ョ-ギーではなく献身者でした。しかし、偉大な神秘家であるドゥルヴァーサ-は彼 の献身的態度の前に破れてしまいました。つまり、献身者は力を得るために神秘ヨーガ おん‐らよう を訓練する必要はありません・力は主の恩寵によって授けられます。それはちょうど、 幼い子供が力強い父親に服従すれば、父親の力をすべて持つことができるのと同じです。

主の献身者としての名声は決して消え去ることがありません・主チャイタンニャが ラーマーナンダ・ラーヤに「最も大きい名声とは何か」とお尋ねになると、彼はそれに答 えて、主クリシュナの純粋な献身者として有名になることが完壁な名声であると言い ました。したがって、ヴィシュヌ・ダルマ(バガヴァーンヘの献身奉仕を捧げる宗教)は 思慮深い人のための宗教であると結論できます。つまり、正しく想うことによって、し だいにバガヴァーンを想う段階に達するのです。バガヴァーンを想うことによって、物
質界の中の虚偽と汚れに満ち交際から解放され、平安を得ることができるようになり そな ます。この世界が混乱に満ちているのは、そのような穏やかな質を具えた献身者が少な いためです。非献身者は全生命体を平等に見ることができません。しかし献身者は、動 物や人間をはじめ、全生命体に対して平等です。なぜなら、全生命体を至上主の部分体 と見るからです。「イーショーパニシャッド』に明らかにされているように、全生命体を 平等に見る者は誰に対しても憎悪や偏愛を持ちません。献身者は必要以上に物を求め ることはないので、アキンチャナ(「人生のどのような状況にあっても満足している人」 の意)です。献身者は、地獄にいても天界にあっても常に心乱されず、献身奉仕以外の活 動に関心がありません。このような生活のあり方が最高完成段階であり、この段階に達 め した者は精神界に召され、バガヴァーンのもとに帰ることができます。バガヴァーンの ひきつ 献身者は、物質自然の最高の様式である徳の質に特に惹付けられています。物質自然の 三様式はすべてバガヴァーン・ヴィシュヌから発現したものなのですが、徳の様式の象 徴が正統なブラーフマナであるので、献身者はブラーフマナの段階を好み、激情や無知 の様式にはあまり関心がありません。『シュリーマド・バーガヴァタム」では献身者がニ プナ・ブッデイであると述べられていて、彼らが最も高い知性を持つことが示されてい おだ いとな ます。献身者は愛情や憎悪には影響されず、穏やかな生活を営み、そして激情や無知に 左右されることがありません↓』 

物質の様式をすべて超越しているはずの献身者がなぜ徳の様式に愛着するのか、と 疑問に思う人もいるかも知れません。それに対しては、物質自然の様式の中には様々な 種類の人々がいると答えることができます。無知の様式の人はラークシャサ、激情の様 デーヴァ 式の人はアスラ、そして徳の様式の人はスラ(神々)と呼ばれます。これら三つの様式の 人々は至上主の指示のもとに物質自然によって創造されたのですが、徳の様式の人は みもと 精神界に昇り、バガヴァーンの御許に帰る機会がより大きいのです。 

サラスヴァティー川のほとりで至上主を知ろうとした聖者たちは、こうしてヴイシュ ヌ崇拝に対する疑いをすべて晴らした後、献身奉仕を行なって望んでいた結果を達成 し、精神界へと帰って行きました。 

『シュリーマド・バーガヴァタム』はシュカデーヴァ・ゴースワーミーが語ったものな ので、それを聞く人には解放の機会が与えられる、と『シュリーマド・バーガヴァタム』 の冒頭で述べられています。物質の束縛からの真の解放を望んでいる人は、シュカデー ヴァ・ゴースワーミーのその結論をただちに受け入れるべきです。ここでまた、スータ. ゴースワーミーも同じことを語っています。あてなく宇宙を放浪するすべての者は、シュ カデーヴァ・ゴースワーミーの語った甘露に満ちた言葉をただ聞きパガヴァーンヘの献身奉仕をただ行なうだけで、輪廻転生の疲れから救われるのです。(一まり正しく聞 くことによって、ヴイシュヌヘの献身的な愛情奉仕の道から決してそれなくなり、物質 界の放浪から解放されるのです。その方法は簡単です。シュカデーヴァ・ゴースワーミー が語った甘露に満ちた言葉、すなわち『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くだけでよいのです。

さらにもう一つ重要な点として、主シヴァや主ブラフマーなどの神々を主ヴィシュ ヌと同じ段階であると考えるべきではない、と結論できます。『バドマ・プラーナ』によ れば、そのような考えを持つ人は疑いなく無神論者とされます。ヴェーダ文典の一つで ある『ハリヴァンシャ』でも、バガヴァーン・ヴィシュヌだけが崇拝される寺へきであると 述べられています。私たちは、ハレークリシュナ・マハーマントラやその他のヴィシュ ヌ・マントラをいつも唱えていなければなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』 の第二篇では、主ブラフマーが「主シヴァも私も、、ハガヴァーンの指示のもとでそれぞ れの能力に応じて働いている」と語っています。『チャイタンニャ・チャリタームリタ』 でも、主クリシュナだけが主人であり、それ以外の者はすべて主の召使であると述べられています。

主自身も『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナに優る真理はないとおっしゃっています。シュカデーヴァ・ゴースワーミーもまた、主クリシュナが地上にいらっしやっ た時の様々な出来事を語り、ヴィシュヌ・タットヴァの拡張体のうちで主クリシュナこ そが百パーセントのバガヴァーンであるという事実に人々の関心を向けました。 

かつてドワーラカーで、あるブラーフマナの妃が子供を生みました。しかし気の毒な ことに、子供は八生まれ落ちるとすぐに死んでしまいました。そのブラーフマナは死ん だ子を連れてドワーラカーの宮殿へと向かいました・赤ちやんが両親の目の前であま りにも早すぎる死を迎えたので、その父親は大いに取り乱し、悲嘆にくれていました。 クリシュナが地上にいらっしゃったドワーパラ・ユガの時代までは、王の責任は重く、 ようせい 幼い子供が両親の目の前で天逝すれば、非難されるべきは王でした。そのような王の責 任は主ラーマチャンドラがいらっしゃった時にも見られました。『シュリーマド・バー ガヴァタム』の第一篇ですでに述べたように、王は国民に快適な生活を保証する責任が わずら あり、国内が寒暑に煩わされないように配慮することさえ、王の責任だったのです。さ あやま て、ドワーラカーの王には過ちがまったくなかったのですが、子供を失ったブラーフマ せ ナは宮殿にやって来て王を責めました。 

ブラーフマナはブラーフマ・ドゥヴィシャという語を使って「ウグラセーナ王はブラー ぬた フマナを妬んでいる」と言いました・ヴェーダ、正統なブラーフマナおよびブラーフマナ・カーストを妬む者は、ブラフマ・ドゥヴイットと呼ばれます。ウグラセーナ王はブラ フマ・ドウヴイットであると非難されたばかりか、シャタ・ディー(誤った知性の持ち主) すぐ であると批判されました。国家責任者は国民の快適な生活を保証するために知性に優 つ れていなければなりません。このブラーフマナは、ウグラセーナ王は王座に就きながら、 まったく知性がないと批判したわけです。ブラーフマナはウグラセーナ王をルブダ(貧欲者)と呼びました・王や国家責任者は貧りや利己心がある限り、その地位に就いてはならないとされています。しかし、国家責任者が物質的快楽に執着するならば冨耗己的 になるのも当然です。したがって、ここではヴィシャヤートマナハという語も使われています。

ブラーフマナはウグラセーナ王をクシャトラ.、ハンドゥとも非難しました。これは クシャトリヤ(王家)の家柄に生まれながら王たる資質を欠く者という意味です。王は みずか どん ブラーフマナ文化を保護し、国民の福祉に十分気を配り、そして自らの物質的快楽に貧 よく そな 欲であってはなりません。しかるべき資質を具えず王家のクシャトリヤであると自称 する者は、クシャトリヤではなくクシャトラ・バンドゥと呼ばれます。同様にブラーーノ マナの子供として生まれながらブラーフマナの資質を持たない者は、ブラフマ・守ハンドゥ もしくはドウヴイジャ.、ハンドウと呼ばれます。これらが意味するように、ブラーフマ ナやクシャトリヤはただ特定の家柄に生まれることによってその立場を得るのではな く、ふさわしい質がない限り、ブラーフマナやクシャトリヤとは見なされないのです。 

このように、子供が死んだのはウグラセーナ王が王者たる沓{質を欠くためだ、とブラー せ うマナは責めました。ブラーフマナは、生まれたばかりの赤ちやんが死ぬのはきわめて 不自然だと考え、王に責任があるとしたのです。ヴェーダの歴史上では、クシャトリヤ 王が責任を取ることができなければ、ブラーフマナを構成員とする顧問機関が王を退 位させることもありました。これらの点を考慮すればわかるように、ヴェーダ文化では 王は非常に責任ある立場にあったのです。 

ブラーフマナは言いました。 ねたうやま 「ただ妬むことしか知らない王など、敬うことも崇拝することも必要ない。そんな王 は罪人を死刑にするか、狩りに出て森で動物を殺すことぐらいしか能がない・いや、そ ればかりではない。自己支配もできず、人格さえ疑わしいに違いない・国民がそんな王 を尊敬し崇拝しても、決して幸福にはなれない。逆に、国中が貧困にむしばまれ、人々は やまい 不幸に包まれ、病と悲しみに苦しめられるだろう」 現代政治では君主制が廃止されましたが、大統領や総理大臣は国民の快適な生活を 保証してはくれません・このカリの時代では、国家責任者は何らかの手段により票を集めてポストに就くのですが、国民生活の状況は不安、苦しみ、不幸そして不満に満ちています。

どうしたことか、ブラーフマナは二人目の子供も死産してしまいました。残念なこと に三度目も同じでした。九人の子供が生まれましたが、いずれも死産でした。その度毎 たた にブラーフマナは宮殿の門を叩き、王を非難しました。九回目にドワーラカーの宮殿を 訪ね、王を責めようとした時、ちょうどアルジュナがクリシュナとともにその場にいま しよくむたいまん した。ブラーフマナは王の職務怠慢のために子供が死んだことを責め立てると、アルジュ ナはその事態を憂慮して、ブラーフマナに近づき言いました。「親愛なるブラーフマナよ、どうして、国を守る正統的クシャトリヤがいない、などと たずさそぶ おつしやるのですか。クシャトリヤをまねて弓矢を携え、国家守護の素振りをする者さえいないとおつしやるのですか。この国の王家はただブラーフマナと供儀を行なうば かりで、武力などまったくないとおっしゃるのですか」。 

アルジュナは続けました。 「もしブラーフマナが妻子と不本意に別れることを余儀なくされ、それに対してクシャ トリヤ王が何の手段も講じることができなければ、王は舞台の俳優とどこが変わりま しょうか。俳優が舞台で王を演じたとしても、それに王たる権勢を期待する者はおりま せん。同様に、社会構造の頭部を保護することができなければ、王や国家責任者はただ 虚勢を張る者にすぎません。主人よ、お約束致しましょう。御身のご子息をきっとお守 けが り申し上げます。この誓いを果たせなければ、その汚らわしい罪を滅ぼすために、火に 飛び込む覚悟でございます」

アルジュナの言葉を聞いてブラーフマナは、「愛しいアルジュナよ、主バララーマが いらっしゃるにもかかわらず、子供たちは死んでしまったのです。主クリシュナさえも たずさ 保護をお授けくださいませんでした。プラデュムナやアニルッダなど、弓矢を携えた数 多くの英雄も私の子供たちを守ることができませんでした」と語りました。バガヴァー ンにできなかったことはアルジュナにも不可能だと暗に示したのです。アルジュナは 自分の能力以上のことを約束している、とブラーフマナは思いました。そして「あなた の言葉はまるで頼りない子供の約束のようなもので、とても信頼できない」と言いました。

アルジュナは彼がクシャトリヤ王にまったく信念を失ってしまったことを理解し 彼を励ますために親友のクリシュナさえも批判するような口ぶりで話しました・主ク リシュナや他の人々が聞いている前で、アルジュナは特にクリシュナを批判しました。 「おお親愛なるブラーフマナよ、私はサンカルシャンでもクリシュナでもございませ ん。プラデュムナやアニルッダなどのクリシュナの息子とも違います。わが名はアルジュ ナ、ガーンデイヴァの弓を持つ者でございます。主シヴァと森で狩りをしましたおり、 はずかし わが武勇は主シヴァをして驚嘆せしめるものでございました。ゆえに、わが名を辱める ごとき言動はご遠慮頂きたく存じます。かつて、主シヴァが狩人の姿となってわが前に 現われました。その際、私の武勇にいたく満足した主シヴァから、パーシュパタースト ちょうだいいた かいぎ ラという武具を頂戴致しました。どうか、わが武勇に懐疑の念をお持ちになりませんよ う。死の権化に立ち向かうとも、必ずや御身のご子息をお連れ戻し致しましょう」。

アルジュナの言葉を聞いてブラーフマナは納得し、家へと帰って行きました。 妻が次の子供を生もうとした時、ブラiフマナは「おお親愛なるアルジュナょ、ただ ちに来たりて、わが子を守りたまえ」と唱えました。アルジュナはそれを聞くとすぐに 聖水に触れ、弓矢を守るための聖なるマントラを唱え、身支度を整えました・主シヴァから授かった弓を手に取りぐ王シヴァを想い、そして授かった恩恵を膜想した後、出発 うぷやたずさ しました。産屋に姿を現わしたアルジュナはガーンディヴァの弓を携え、様々な武具に身を包んでいました。

アルジュナは、ブラーフマナとの約束を果たすためにドワーラカーに留まっていた のですが、このようにして、子供が生まれる夜にブラーフマナに呼ばれました。出産に うぷや 立ち合うために産屋に向かうアルジュナは、友人のクリシュナではなく主シヴァを想っ ていました。クリシュナがブラーフマナを守ることができなかったので、主シヴァに助 デーヴァ けを求めるべきだと考えていたのです。これが神々に保護を求める例の一つです。この とぽどんよく ことは『バガヴァッド・ギーター』に、知性の乏しい人は貧欲と欲望のためにバガヴァー かみがみ ンを忘れ、神々に保護を求める、と説かれています。もちろん、アルジュナは普通の人間 ではありません。そのブラーフマナを守ることができるのは主クリシュナではなく主 シヴァであると考えたのは、クリシュナが友だと考えていたからです。ですから、アル ジュナは主シヴァを膜想したわけです。アルジュナがクリシュナではなく主シヴァに ゆだ 身を委ねたことは、後に明らかにされるように、良い結果をもたらしませんでした。い うぶや ずれにせよ、アルジュナは最善を尽くして様々なマントラを唱え、弓を手にして産屋か ら全方角を見張っていました。すると時が満ちてブラーフマナの妻が男児を出産しました・赤ちやんの産声が響き渡ります。しかしその数分の後、赤ちゃんもそしてアルジュ ナの矢も、空の彼方へとむなしく消えて去って行きました。 

ブラーフマナの家はクリシュナの宮殿の近くにありました・主クリシュナは自らの 権威に挑戦するこの出来事をどうやら楽しんでいらっしゃったようです。赤ちゃんと たく 矢が奪われたのは、実はクリシュナの巧みな技によるものでした。クリシュナの技によっ て、アルジュナの誇る主シヴァから授かった矢さえもなくなってしまったのです。『ハ とぽ まど デーヴァ ガヴアッド・ギーター』にあるように、知性の乏しい者は惑わされているがゆえに神々 に保護を求め、その結果得られるものに満足するのです。 

ブラーフマナは主クリシュナや大勢の人たちの前でアルジュナを責めました。 むいむさくからやくそく 「無為無策で空約束の男、アルジュナの言葉を真に受けてしまったなんて、自分が馬 いまいま 鹿だと宣伝しているようなものだ。アルジュナを信じたなんて、われながら実に忌々し い。アルジュナは、プラデュムナ、アニルッダ、主、ハララーマや主クリシュナでさえでき なかったことをやると約束したが、偉大な人々が私の子を守れなかったのだ。他の誰に からやくそく そんなことができス平ものか・アルジュナの空約束もガーンディヴァの弓も、もうたくさ んだ。主令ハララーマ、主クリシュナ、プラデュムナやアニルッダよりも偉大であるなど と口走ったあの無礼な態度が諸悪の根源だったんだ。わが子はみんな他の星に行った 一体誰が救えよう。アルジュナが他の星に行った者を救えるなんて、馬鹿も休み休み言え」 

責め言葉を甘んじて受けたアルジュナは、実はョ-ガを修得していて、どこにでも行 きたいところに行く神秘力を身に着けていたのです。アルジュナはまず死の監督者ヤ マラージが住んでいるヤマローカに行き、赤ちゃんを捜したのですが、見つけ出すこと ができませんでした。その後、ただちに天界の王、インドラが住む惑星に行きました。そ こにも赤ちゃんは見つからず、火神の惑星へも行きました。次にナイルリティ神の惑星 や、月へと向かいました。またヴァーュの星やヴァルナローカにも行きました。これら の惑星にも赤ちゃんを見出すことができず、最下位にあるラサータラ惑星へと降りて 行きました・星から星へと渡り歩いた後、神秘ヨーギーでさえも行くことのできないブ おんち上う ラフマローカを訪ねました。アルジュナは主クリシュナの恩寵によって力を授かって いたので、天界を越え、ブラフマローカに達することさえできたのです。しかし残念な がら、できうる限り惑星を捜し回っても、赤ちゃんは見つかりません。約束通りアルジュ ナは火に飛び込んで命を絶つ意を固めました。しかし主クリシュナは、最も親しい友で けが あるアルジュナに大きな好意をお示しになり、「名を汚されたからといって、火に飛び つ』b 込む必要はない。お前は私の親友だ。お前が死ねば私も辛い・自殺なんて、愚にもつかないことだ」とアルジュナを説得されました・主クリシュナは私自身が赤ちゃんを見つけ 出そうとおつしやって、アルジュナをお止めになりました。 

主クリシュナは、アルジュナにそのようにお話しになった後、超越的な馬車をお呼び になり、アルジュナとともに乗り込むと、北に向かって進んで行かれました。バガヴァー ン・クリシュナは全能者なので、子供たちを連れ戻すため自分自身で特に何かをする必 要はありませんでした。しかし、主はあえて人間としてふるまっていらっしゃるのです。 このことは決して忘れてはなりません。普通の人間なら、何かをするには必ず何か努力 しなければなりません。したがって主は普通の人間のように、つまりアルジュナのよう に、赤ちやんを連れ戻しにドワーラカーを出発されたのです。主クリシュナは人間社会 に現われ人間としてふるまいながらも、主より偉大な者は誰一人いないことを明らか にされました。「神は偉大である」と言われますが、それがバガヴァーンの定義です。少 すぐ なくとも、主がいらっしゃった間の物質界には主よりも優れた者がいなかったことは、 主自身がお示しになっています。 

アルジュナとともに馬車に腰を下ろされたクリシュナは、数多くの惑星系を越え、北 へ北へと進んで行かれました。『シュリーマド・今ハーガヴァタム」では、これらの惑星は サブタドヴイープと記述されています。ドヴィープとは島という意味で、ヴェーダ文典では惑星はドヴィープとも呼ばれ、私たちが現在住んでいるこの惑星はジャンブード ヴィープと呼ばれています。宇宙空間は空気の大海とされ、その中には数多くの惑星が あり、島となっています。そして各惑星には、山々の他に、塩海、乳海、酒海、油海やギー の海など、多種多様な海が存在しています。このように各惑星にはそれぞれの環境があ るのです。

クリシュナはこれらの全惑星を越えて、宇宙の殻に到達されました。『バーガヴァタ ム』はこの殻を偉大な闇と述べています。ヴェーダ文典によれば、物質界全体が闇です。 開かれた場所は陽光に照らされていますが、閉じられた場所は光がないために当然闇 に包まれています。クリシュナが宇宙の殻に到達された時、シャイビャ、スグリーヴア、 メーガプシュパ、そしてバラーハカの四頭の馬は闇に入って行くことをためらいまし リーラー た・クリシュナの馬は普通の馬ではないので、このためらいもまた遊戯の一つです。普 通の馬が宇宙の端まで行き、宇宙の殻にまでたどり着くことなど可能ではありません。 クリシュナが超越者であるように、主の馬車、馬、そして主に関するすべてが超越的で、 物質界の様式を完全に越えています。クリシュナがあえて普通の人間としてふるまっ ていらっしゃることを常に念頭に置くべきです。したがって四頭の馬も主の意志にし たがって普通の馬としてふるまい、闇に入って行くことをためらったのだと理解す令へきです。

クリシュナはョIゲーシュワラとしても知られています。『パガヴァッド・ギーター』 の最後の部分で述べられているように、すべての神秘力はクリシュナの支配下にあり ます。ョIガの神秘力を修めて不思議な術を行なう人がいますが、その力の支配者はク リシュナです。四頭の馬が闇の中に入って行くのをためらうと、それをご覧になった主 がスダルシャン・チャクラを取り出されました。たちまち、空全体が陽光の何千倍もの 明るさで照らされました。宇宙の殻の闇も主クリシュナによって創られたものです。常 に主に付き従うスダルシャン・チャクラが、立ちふさがる闇を照らし出していきます。 主ラーマチャンドラがシャールンガの弓で矢を放つとラーヴァナの軍勢が圧倒された ‐しつこ/、 ように、スダルシャン・チャクラが漆黒の闇を貫いていった、と『シュリーマド・黍ハーガ ヴァタム』に述べられています。「ス」は非常に素晴らしいという意味で、「ダルシャン」 おんちょう とは観察という意味です。主クリシュナのスダルシャン・チャクラの恩寵により視野が とど 鮮明になり、闇の中に留まるものは何一つなくなります。このようにして、主クリシュ ナとアルジュナは物質宇宙を覆う闇の領域を越えて行ったのです。 

次に、アルジュナはブラフマジョーティの光輝を見ました。ブラフマジョーティは物 質宇宙の殻の外側にあり、物質の目では見ることができないので、アヴィヤクタとも呼ばれます。この精神的光輝はヴェーダーンタ主義者として知られるマーヤーヴァー ディー哲学者にとっての究極の目的地であり、アナンタ・パーラン(深遠無限)とも呼ば れています。主クリシュナとアルジュナがブラフマジョーティの領域に達した瞬間、ア せんこう ルジュナはその閃光に耐えることができず、思わず目を閉じました・主クリシュナとア しる ルジュナがブラブマジョーティに到達したことが『ハリヴァンシャ』に記されています。 いと そこでは、クリシュナがアルジュナに、「愛しいアルジュナよ、お前が見ているこの超越 斗衣つ・えい 的光輝が私の体から発せられたものであることを知りなさい。おおバラタ王の末喬よ、 このブラフマジョーティは私自身である」とおっしゃっています。太陽自体と陽光が分 割できないように、クリシュナ自身と主の体から発せられるブラフマジョーテイも不 可分です。したがって主はブラフマジョーティが自分自身であるとおつしやったので す。このことを主は『ハリヴァンシャ』で「アハン・サハ」という言葉によって明確に語っ ていらっしゃいます。ブラフマジョーティは生命体(チット・カナと呼ばれる)の精神的 スパークで構成されています。「ソー・ハン」というヴェーダの言葉は「われはブラフマ ジョーティなり」という意味で、これは生命体にも当てはまります。つまり、生命体は自 分自身がブラフマジョーティに属するものであると主張することができるのです。ク リシュナは『ハリヴァンシャ』でさらに「このブラフマジョーテイは私の精神的エネルギーの拡張である」とおっしゃっています。 

クリシュナはアルジュナに「ブラフマジョーティは、私の外的エネルギーであるマー ヤー・シャクテイの範囲外にある」とおっしゃいました。物質界の中にいる限り、ブラフ マンの光輝を経験することは不可能です。ブラフマンの光輝が現われているのは、物質 界ではなく精神界です。このことはヴィヤクタ・アヴィヤクタという語が物語っていま す。『バガヴァッド・ギーター』では、その両エネルギーは永遠に現われていると述季へられています。

その後、主クリシュナとアルジュナは巨大な精神的な海に入って行きました。この海 はカーラナールナヴァ海もしくはヴィラジャーと呼ばれます。この海は物質界創造の 起源となっているために、カーラナールナヴァと呼ばれ、また、物質界の三様式の影響 がまったくないために、ヴイラジャーとも呼ばれます。ヴェーダ文典『ムリチュンジャ ヤ・タントラ』にカーラナ海(ヴィラジャー)についての詳しい記述がありますが、そこ では、物質界の最高惑星がサッテャローカ(ブラフマローカ)であり、その上にはルドラ ローカとマハー・ヴイシュヌロー力があると記されています。このマハー・ヴィシュヌ ローカに関しては『ブラフマ・サンヒター』に「主マハー・ヴィシュヌはカーラナ海に住 む。主の呼気とともに無数の宇宙が誕生し、主の吸気とともに無数の宇宙が主の中に没 入する」と記述されています。物質宇宙はこのように主から発現し、再び主に帰着する ものです。主クリシュナとアルジュナが海に入ると、あたかも超越的光輝の嵐が吹き荒 おんちよう れたかのようになり、カーラナ海の水が激しくうねりました・主クリシュナの恩寵によっ てアルジュナは非常に美しいカーラナ海の様子を見ることができたのです。 

クリシュナに付き添われたアルジュナは、海中に大宮殿を見ました。宝石でできた柱 が何千本もあり、その光り輝く様子がたいへん美しく、アルジュナは魅了されてしまい ました・アルジュナとクリシュナはその宮殿にシェーシャ(アナンタデーヴァ)の巨大 な姿を見ました・主ァナンタデーヴァは蛇の姿で巨大な何千もの鎌首を持ち、その一つ ひとつが光り輝く宝石で飾られ、美しい光を発しています。それぞれの首には二つの目 があり、恐ろしい光を発しています。主アナンタデーヴァの肌の色は白く、万年雪に覆 われたカイラーサ山の頂きのようでした。そして、首も舌も青みがかかっています。ア ルジュナはこのようなシエーシャナーガの姿を見ました。そしてその柔らかく白い体 の上には、主マハー・ヴィシュヌが心地好さそうに横になっていらっしやいました。主 はすべての場所に遍在する力強い姿をお現わしになっていて、アルジュナはそのお姿 の、ハガヴァーンがプルショーッタマと呼ばれるお方であることを理解しました。宇宙 の中で、マハー・ヴィシュヌの姿からガルボーダカシャーイー・ヴイシュヌが現われるのでマハー・ヴィシュヌはブルショーッタマすなわち最高者バガヴァーンと呼ばれて います。主のマハー・ヴィシュヌ(プルショーッタマ)の姿は物質界を超越しています。主はまた、ウッタマとも呼ばれます。タマは「闇」、ウトは「越えた」という意味で、ウッタ マとは「物質界の闇の領域を越えたお方」という意味です。アルジュナはプルショーッ タマ(マハー・ヴィシュヌ)の肌の色が、雨期の雲のような黒っぽい色であるのを見まし め た・主は黄色の衣装を召し、顔には美しい微笑を浮かべ、そして蓮華の花びらのような いろど 目が魅力的です。マハー・ヴィシュヌの宝冠は豪華な宝石に彩られ、美しいイヤリング が主のカールした髪の美しさを引き立てています。主マハー・ヴィシュヌの八本の腕は ひざ いずれもたいへん長く、膝まで届くほどです。主の首はコウストゥバの宝石で飾られ、 胸にはシュリーヴァッッァ(「幸運の女神の住む場所」の意)のしるしがあり、膝まで届 くヴァイジャヤンティー(蓮華の花輪)が首にかかっています。 

主の脇には交際者のナンダとスナンダがひかえ、スダルシャン・チャクラも人格的な そば 姿を現わして、主の側に立っています。主には無数のエネルギーがあるとヴェーダに述 べられていますが、それらがそれぞれ人格的な姿で立っています。それらの中で最も重 要なのが、プシュティ(生命力維持のエネルギー)、シュリー(美のエネルギー)、キール ティ(名声のエネルギー)、そしてアジャー(物質創造のエネルギー)です。これらのエネルギーは、物質界を司る主ブラフマー、主シヴァ、主ヴィシュヌ、天界の王インドラ、チャ デーヴア ンドラ、ヴァルナや太陽神などに授けられています。つまり、すべての神々は主から様々 なエネルギーを授けられて、超越的な愛情奉仕を主に捧げているのです。『ブラフマ・サ ンヒター』にも明らかにされているように、マハー・ヴィシュヌはクリシュナの体の拡 張体です。クリシュナの拡張体はクリシュナ自身と何ら変わるところがありませんが、 主はこの物質界に出現し人間としてふるまっていらっしゃったので、アルジュナとと もにすぐに主マハー・ヴィシュヌに尊敬の礼をお捧げになりました・主クリシュナがマ ハー・ヴィシュヌに尊敬の礼を捧げたと『シュリーマド・バーガヴァタム』に述べられて いますが、これは主クリシュナが自分自身に尊敬の礼を捧げたということです。なぜな ら、主マハー・ヴィシュヌは主自身と変わりがないからです。しかし、クリシュナがマ ハー・ヴィシュヌに尊敬の礼をお捧げになったことは、アハングラホーパーサナーの崇 拝ではありません。このアハングラホーパーサナーとは知識の供儀を行なうことによっ て精神界に昇ろうとしている人々に奨められている方法です。そのような人々は『バガ ヴァッド・ギーター』に「知識を発展させることによって至上主への供儀を行なう者」と述べられています。

クリシュナは尊敬の礼を捧げる必要がなかったのですが』あえてお捧げになったのは、マハー・ヴイシュヌに尊敬の礼を捧げるべきであることを師としてアルジュナにお 示しになるためでした。しかし、アルジュナは万物の巨大な姿、物質界では決して経験 せんりつ できない不可思議な姿を見て戦懐しました。アルジュナはクリシュナがマハー・ヴィシュ がつしkう ヌに尊敬の礼をお捧げになるのを見て§王マハー・ヴィシュヌの前に立ち、合掌しまし た。すると、巨大な姿のマハー・ヴィシュヌはおおいに喜び、快い微笑みを浮かべておっ-しや●卜吐士エーした。

「親愛なるクリシュナとアルジュナよ・かねてからお会いしたいと存じておりました。 ブラーフマナの子供たちを連れ去り、この宮殿に隠しておいたのもそのためです。お二 人をこの宮殿にお招きしたいと前々から思っておりました。御身お二人はわが化身と して物質界に現われ、世界を苦しめる悪魔の軍勢を滅ぼされました。もはや、これらの 悪魔は全滅したのですから、どうか私のもとにお戻りください。御身お二人は偉大な聖 みずか 者ナラ・ナーラーヤンの化身であり、自らの内に完全に満ち足りていらっしゃるにもか かわらず、献身者を守り悪魔を討たれます。そして、特に御身は世界に永遠の平安をも たらす宗教原則を確立されます。その基本的な真の宗教の教えによって、人々は御身に 導かれ、社会には平和と繁栄がもたらされるのです」 

主クリシュナとアルジュナは主マハー・ヴィシュヌに尊敬の礼を捧げました。そして、ブラーフマナの子供たちを取り戻すと、もと来た道のりを戻ってドワーラカーヘと帰っ て行きました。ドワーラカーに戻った主クリシュナとアルジュナは、もう大きくなって いた息子たちをブラーフマナのもとに戻されました。 

アルジュナは主クリシュナの恩寵により精神界を訪ねて驚きに打たれただけではな く、この物質界の中にある富はすべて主から現われたものであることを理解しました。 物質界で得ることができる富は、すべてクリシュナの慈悲によるものです。私たちが持っ ているすべてはクリシュナの慈悲によるものなので、私たちは常にクリシュナ意識を 保ち、クリシュナヘの感謝の念を決して忘れてはなりません。 

アルジュナがクリシュナの慈悲によって素晴らしい経験をしたことは、主クリシュ リーラー リーラー ナが物質界にいらっしゃった間に行なわれた無数の遊戯の一つです。主の遊戯はまつ ひってき たくユニークなもので、世界の歴史上でもこれに匹敵するものがありません。クリシュ リーーフー ナがバガヴァーンでいらっしゃることはこれらの遊戯によって明らかなのですが、主 は物質界にいらっしゃる間は、あたかも物質的な義務を背負う普通の人のようにふる まっていらっしゃいました・主は理想的な世帯者を演じられ、一万六千百八の妃と一万 六千百八の宮殿、そして十六万一千八十の子供たちがいながらも、人類の幸福のために どのように物質界の中で生きるべきかを王族たちに示すために、様々な供儀も行なわれました・主は理想的なバガヴァーンとして、ブラーフマナ(人間社会の中での最高の 人々)から最低級の人間ばかりではなく、すべての生命体の望みをかなえらました・イ ンドラ王が雨を送って全世界のすべての者を満足させるように、主クリシュナはいわ れのない慈悲を降り注いで、す、へての者を満足させられるのです。主の使命は献身者を 守り、悪魔的な王を滅ぼすことです。主が何十万もの悪魔を殺されたのはそのためです。 悪魔にはクリシュナに直接殺された者も、クリシュナの代理人アルジュナに殺された けいけん 者もいました。そのようにして、主クリシュナは1ディシュティラなどの敬度な王を世 界の指導者の座に即位させられました・主は神聖な取り計らいによって1ディシュティ ラ王の善良な政治を確立し、平和と平安を確かなものとされたのです。

以上『グリシュナ』第八十八章「クリシュナの非凡な力」に関するバクティヴェーダンタ解説終了。

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