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(三十五)

35.小さな水たまりが、残暑の強い陽ざしにやけると蓮大家族を連れた哀れな生き物は、おおいに苦しむ。あたかも、子だくさんの貧しい家庭が経済的に苦しみながら、それでも感覚を自制できず子供を作り続けるごとく。

人生は感覚を制御するためにあります。というのも、抑えのきかない感覚が、物質的束縛の原因としなるからです。しかし愚か者にとっては、感覚的快楽が人生の中心となります。ほとんどの人々は、一年中朝晩汗水ながしながら働きます。それもただ自分の仲間と一緒に感覚を楽しむためだけに。これらの愚かな者たちは、この他の楽しみがあることを知らないのです。無神論的な社会では特に、教養とか哲学といった名前で装った感覚の満足が、かけがえのないものとなっています。そして、このような楽しみに取りつかれてしまった者たちは、kṛpaṇas(クリパナ)と呼ばれます。

クリパナたちが、必要以上に子供をつくり過ぎたとき、家庭生活の焦げつくような熱に苦しめられます。そこで、程度の同じ人間なのに指導的立場にたっている人は、家族計画を勧めます。この手の計画は、感覚的な喜びは減らす必要はないが、不自然な方法を用いてでも産児制限すべきである、といった内容のものです。これはbhrūṇa-hatyā(ブルーナハティーヤ 胎児を殺すことと呼ばれ、このような殺人行為は非常に罪深く、そしてそれを犯した者のために、特別な地獄が用意されていると、聖典には記述されています。

精神修業とは、人生においてよりよい時を過ごせるよう追求することです。そのような教養ある生活をすれば、性欲は自然に消えうせます。そしてこのとき、コントロールのきかない家庭生活の苦しみは、不自然な方法をとらなくても、最小限にとどめられます。

その結果人間の集中力は、人間精神を養う方向へ向けられるべきです。そうすることによってひとは、徐々にあらゆる失敗から自由になれ、そして人格を持つ神々の中の最高の神、主シュリー・クリシュナと個人的な関係を持つという、真実で永遠なる楽しみのための、より高位の生活へと導かれるでしょう。

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