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(四十一)

41. 澄み切った秋空には、星々の間に姿を現す美しい月が、賛美の的となる、あたかも主シュリー・クリシュナが、ヴリシニ王朝やヤドウ王朝の人々の魅力の中心であるごとく。

人格を持つ神々の中の最高の神、主シュリー・リシュナは、 Yadu王朝の家系に生まれ、それ以来というものその王朝は、秋の月のように光り輝いています。主の降誕と他界は、日の出と日の入りに似ています。日の出のとき、始めは東の地平線に太隅があるように見受けられるのですが、それは太陽が東の方角から生まれたことを、意味するわけではありません。太陪は独自の軌道を持ち、昇りもしなければ沈みもしないのです。しかし、最初に東の地平線に太陽を見るので、東から日が出たというのでしょう。同様に、ある特定の家系に最高神が現れることは、主がその家系にのみ恩恵を与えることを意味しないのです。主は完全に独立していて、至るところに自由自在に現れます。というのも、主はすべてに広がっていらっしゃるからです。

知性の劣る人は、主が化身として出現したり消滅したりすることを理解しがたいのですが、同時にそれを否定する確かな理由もまた、持ち合わせません。もし神が電気のように、至るところに存在するならば、主は自分が創造なさったいかなるところにでも、現れることができるのてす。主が内に存在するとき、彼を見ることはできず、主が外に現れると、人々は見ることができます。それでもなおかつ、彼を最高主として理解できるのは、ごく少数の人に限られています。多くの人々が毎日太賜を見ているのですが、だからといって、彼らが実際に太賜の正体を知っているかというと、そうではありません。同様に五千年前に主シュリー・クリシュナがいらしたとき、はとんどの人は、彼が本当はだれなのかを理解できませんてした。

主をありのままに理解できる者はだれでも、すぐに物質界から解脱します。そしてこのような知恵ある人は、身体から離れると神の王国へと帰るのです。彼らはこの苦しみであふれる宇宙に、決して戻りません。『バガヴァッド・ギーター』(四章九節)て、主は次のように確証しています。

janma karma ca me divyam
evaṁ yo vetti tattvataḥ
tyaktvā dehaṁ punar janma
naiti mām eti so 'rjuna

"私の出現と活動の超越性を理解する者は、その肉体を離れた後に、再び物質界に誕生することなく‘我が永遠の神の王国へと来たる。"

しかし、主の超越的な性質を理解できずに、主を普通の人のように考えている、愚かな人たちもいます。『バガヴァッド・ギーター』(九章十一節)において、主は次のように断言しています。

avajānanti māṁ mūḍhā
mānuṣīṁ tanum āśritam
paraṁ bhāvam ajānanto
mama bhūta-maheśvaram

"私が人間の形をもって降誕するとき、愚か者たちは私をあざ笑う。私の超越的な性質や、ありとあらゆるすべてにおける支配権を、知らないがために。"

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