(四十四)
44. 私ともなれば、池には蓮の花が咲き乱れる。連の花に似てはいるが、別の科に属するクムドウとうい花もある。太陽が昇るとクムドウ以外の花は一斉に安き誇る。同じように蓮の花のような人は、責任感のある王の到来を喜び楚クムドウのような人は王の存在を好まない。
このカリ時代でば王族たちが堕落してしまっているので、人々は国民たちの政府を望みますが、以前はそうではありませんでした。王の息子たちは、資格のある善良なブラーフマナ・アーチャーリヤのもとで、訓練されました。ちょうどパーンダヴァ兄弟と、カウラヴァ兄弟が、資格のあるブラーフマ、シュリードローナーチヤーリヤ師のもとで教えられたように。王子たちは、政治学、経済学、兵法、道徳や倫理、科学、そしてとりわけ主への献愛奉仕について、厳しく訓練させられたのでした。これらの訓練を完全に終了したときだけ、王座につくことが許されたのでした。このような王子は王になった後も、善良なブラーフマナの忠告などによって、導かれていました。マハーラージャチャンドラグプタは中年になっても、学識のあるブラーフマナ、チャナキャパンディットの指導を受けました。
君主国では、十分に訓練された者ならば、国の政治を一人で指揮していけるに足る能力があります。しかし民主主義国では、だれも以前の王子たちのようには訓練されておらず、その代わりに政治家たちは、外交的手段を用いて、主要な地位に選ばれるのです。一人の王や、最高の行政官がいるべきところに、民主主義体制では、何人もの準王たちがいます。大総領、大臣、副大臣、長官、補佐官、秘書官、次官、国会議員といったぐあいに。そして、政治的団体、社会的団体、民間のグループ、またさまざまな派閥など、いろいろな組織があります。しかし治められる側の本当に必要なことを世話するほどには、訓練されていません。いわゆる民主主義政府では、独裁政治や君主政治よりも、その堕落には目をみはるものがあります。
人民に仕えている、とつくろいながら自分の成功を望む者は、国を指揮するよい国王の存在を望みません。そのような人々は、太陽が昇ることを喜ぱない、クムドゥの花のようです。クというのは〃悪い〃を意味し、ムドゥとは〃楽しみ〃を意味しています。利己的な欲のために、政治力を利用しようとたくらむ人は、善良な国王の存在を喜びません。民主主義、と口では言ってるのにもかかわらず、本当は自分たち自身が王になりたいのです。ですから、相手の悪口を言うことで選挙争いをし、王のいない政治を持つことで楽しみます。もちろん泥棒や強盗たちも、善良な王の存在を喜ぶはずがありません。しおきかし、よく訓練された王を、国の長に持つということは、国民にとっての利益となるのです。