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唱名の方法とクリシュナを知ること

ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ、クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー/ハレー ラーマ ハレー ラーマ、ラーマ ラーマ ハレー ハレー。この神聖なひびきを持つことばには精神的力がこめられています。このマントラは、心の鏡に積もった埃(ほこり)を洗いながしてくれます。物質的な心をたとえるなら、あまりの車の多さで埃や煤(すす)だらけになったここニューヨークの二番街です。物質的なことをしてきた結果、もともと純粋なはずの心の鏡に大量の埃が積もり、そのために物事を正しく映してくれません。この超越的な音響・ハレー・クリシュナ・マントラは積もった埃を拭きとり、自分本来の状態をはっきり映してくれます。「私は体ではなく、精神魂であり、その兆候は意識である」と悟れば、ほんとうの幸せが实感できます。ハレー・クリシュナを正しく唱えて心が純粋になれば、物質的なけがれはすべて消えていきます。俗界には苦しみの炎が燃えつづけ、だれもがその炎を必死に消そうとしていますが、自分本来の状態、すなわち精神生活に戻らなければその炎を消すことはできません。

主クリシュナが物質界に降誕する理由の一つは、ダルマ(dharma)を確立させ、物質存在という炎を消すことで物質界に住む全生命体を救うためにことにあります。

ヤダー ヤダー ヒ ダハルマッシャ
グラーニル バハヴァティ バハーラタ
アビュッタハーナンム アダハルマッシャ
タダートゥマーナンム スリジャーミャハンム

パリトゥラーナーヤ サードゥーナーンム
ヴィナーシャーヤ チャ ドゥシュクリターンム
ダハルマ・サンムスタハーパナールタハーヤ
サンバハヴァーミ ユゲー ユゲー

「バラタの末裔よ。わたしは、宗教活動が衰退するとき、また無宗教が台頭するとき、いつどこでも降誕する。敬虔な人々を救い、邪悪な人間たちを抹殺するために、また宗教原則を再確立させるために、わたしは各時代をとおして自ら降誕する」(『バガヴァッド・ギーター』第4章・第7-8節)(Gītā 4.7–8)

この節で使われているdharma(ダルマ)にはさまざまな英語訳が当てられています。時には「信念」と訳されますが、ヴェーダ辞典を調べると、別の意味が含まれていることがわかります。信念は変わることがありますが、ダルマは変わりません。水はつねに液体です。液体からなにかに変わったとしたら――たとえば、水が固体になったら――それは水本来の状態ではなく、特定の条件下だけで存在するものに変化しています。ヴェーダ経典が説いているように、私たちのあるべき姿は「至高者の部分体」です。ですから、全体者である至高者に意識を結びつけ、そして身をゆだねることが私たちの本来の姿・ダルマといえます。

私たちは、至高の完全体である神に崇高な奉仕をする立場にあるのに、物質とかかわっているためにその立場を忘れています。仕えること――それが私たち本来の立場です。だれもが召使いであり、主人ではありません。だれでもだれかに仕えています。総理大臣は国の最高人物ですが、同時に国民に仕えています。ところが国民は、その人物の奉仕が気に入らなければ見切りをつけます。「もうあなたは必要ない」と。「私は、自分の目に見える物すべての主人である」と考えるのは、幻想・マーヤーです。そのため、物質的な人がする奉仕は、さまざまな名称のもとで間違った方向に向かっています。このような名称と自分を切りはなし、心の鏡から埃を取りのぞけば、「私はクリシュナの永遠の召使いである」という自分本来の立場が正しく見つめられるようになります。

物質界での奉仕と精神界での奉仕をおなじ次元で考えてはなりません。「解放されても召使いのままでいなくてはならないのか」と考えて、思わずぞっとしてしまう人がいるかもしれません。なぜか? それは、召使いは虐げられるもの、という不愉快な思いをこの世界で経験しているからです。しかし、超越的な奉仕は違います。精神界では、主人も召使いも違いがありません。こちらの世界ではもちろん違っていますが、絶対的な世界ではすべてひとつです。たとえば『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナはアルジュナの召使いとしてアルジュナの馬車の御者になっています。アルジュナはクリシュナの召使いですが、ときにはクリシュナが召使いの召使いになることがあります。ですから、精神的な物事を理解するのに物質的な考えで判断してはなりません。物質的な体験はすべて、精神生活の物事が歪んで現われたものです。

私たち本来の立場であるダルマが物質のけがれのために堕落したとき、主が自ら降誕したり身近な召使いを送ったりすることがあります。イエスキリストは自らを「神の子」と呼んでいるように、至高者の代表者でもあります。またモハメッドも自分を至高者の召使いと呼んでいます。このように、私たち本来の立場に矛盾が生じたときには、至高主が自ら現われたり召使いを送ったりして、生命体が本来どうあるべきかを説きます。

ですから、ダルマのことを「作られた信念」と考えてはいけません。正しい意味では、ダルマと生命体は切り離せないものです。いわば、甘いものは砂糖、塩辛いものは塩、また固いものは石であるという条件とおなじです。それはどんな状況でも私たちと切りはなすことはできません。生命体のダルマは「仕えること」にあり、それは、だれでも自分や他人のために仕える気質をそなえていることを見れば、すぐにわかります。どうやってクリシュナに仕えるか、どうやって俗な奉仕とのかかわりから離れるか、どうやってクリシュナ意識に到達するか、そしてどうやって俗な肩書きから解放されるかが、シュリー・クリシュナによって『バガヴァッド・ギーター』で科学的に説明されています。

Sädhu(サードゥ)ということばが上記の節で使われています。Paritrāṇāya sādhūnām(パリトゥラーナーヤ サードゥーナーンム)は、神聖で高尚な人物を指しています。聖者は忍耐強く、だれも敵と思わず、心はいつも穏やかです。神聖な人物を指す気質には26 あり、『バガヴァッド・ギーター』でシュリー・クリシュナが次のように説明しています。

アピ チェートゥ スドゥラーチャーロー
バジャテー マーンム アナニャ・バハーク
サードゥル エーヴァ サ マンタヴャハ
サミャグ ヴャヴァシトー ヒ サハ

「もっとも忌まわしいことをしても、献愛奉仕をしている人物であれば神聖な気質を持っている。正しい境地にいるからである」(『バガヴァッド・ギーター』第9章・第30 節) (Gītā 9.30)

一般社会でも言えることですが、ある人には道徳的だと思えても別の人には不道徳的としか思えなかったり、逆に不道徳的なことが道徳的に思われたりすることがあります。ヒンドゥー教は飲酒を不道徳とするいっぽう、西洋では飲酒は不道徳どころか常識です。このように道徳の基準は、時代・場所・状況・社会的立場で変わります。それでも、道徳や不道徳の観念がどの社会にもあることに変わりありません。この節でクリシュナは、不道徳なことをしても、それが完全にクリシュナ意識の行動であれば、その人はサードゥ(sädhu)・聖者であると言っています。ことばを変えると、不道徳な習慣の中で生きてきたとしても、完全なクリシュナ意識で生きるようになれば、そのような習慣はそれほど重12大な問題ではなくなるということです。どんな場合でも、クリシュナ意識になりさえすればやがて清い心になり、やがてはサードゥになります。クリシュナ意識を高めれば、悪い習慣をやめるようになり、神聖な境地に到達するということです。

このことに関連して、ある泥棒の話があります。この男はほかの人たちに混じって聖地を巡礼し、旅の途中で宿屋に泊まりました。いつもの盗み癖で、1人の巡礼者の荷物を盗もうとしました。それでもふっと考えなおしました。「俺はいま巡礼の途中だ。これを盗むのは巡礼中にすべきことじゃない。今日はやめておこう」。ところが、身にしみついた習慣はおそろしいもので、どうしても手が勝手に荷物を盗もうとするのです。ということで、だれかの荷物を盗んだかと思うと、それを別の場所に置き、また別の荷物をつかむとそれを別の場所に置く、といったことを繰りかえしました。そんな調子で一晩中荷物を動かしたり置いたりしていたのですが、良心がとがめるものですから、結局1個も盗みませんでした。朝になって巡礼者たちが目を覚まします。やがてそれぞれ自分の荷物がないのに気づき、あたりを探すのですが、どうしても見つかりません。やがて巡礼者の間でけんかが始まって大騒ぎになりましたが、そうこうしているうち、まったく別の場所でそれぞれ荷物が見つかりました。無事にすべてもどったとき、張本人の泥棒が説明をはじめました。「みなさん、私は盗みを仕事にしている者です。夜になって盗み癖がでて、みなさんの荷物に手を出したくなりました。しかし、いくらなんでも聖地では、と考えて思いとどまりました。それでも手が勝手に動いて、皆さんの荷物の場所をあちらこちらと変えてしまったのです。どうかお許しください」。これが悪い習慣の特徴です。もう泥棒はしたくないと考えても、癖になっているのでどうしてもやってしまう。そのためクリシュナは、クリシュナ意識を高めるためにこのような不道徳な習慣を捨てる決心をした人はサードゥである、と言っています。過去の悪癖のためになにかのはずみで過ちを繰りかえしたとしても。次の節でシュリー・クリシュナが言います。

クシプランム バハヴァティ ダハルマートゥマー
シャシュヴァッチャーンティンム ニガッチャティ
カウンテーヤ プラティジャーニーヒ
ナ メー バハクタ プラナッシャティ

「その人物はすぐに正義の人となり、永遠な平安をつかむ。クンティーの子よ、わたしの献愛者は決して滅びないことを力強く宣言せよ」(『バガヴァッド・ギーター』第9章・第31 節)(Gītā 9.31)

クリシュナ意識に身をゆだねれば、やがて神聖な気質をそなえた人間になる、とシュリー・クリシュナがこの節で宣言しています。扇風機のコンセントを抜いても羽根はしばら13く回りつづけますが、いつか止まることはわかっています。ひとたびクリシュナの蓮華の御足に身をゆだねれば、カルマを引きおこす行動のスイッチを切ることができ、たとえ昔の悪癖がしばらくつづいても、やがてなくなってしまいます。クリシュナ意識に身をゆだねた人はだれでも、善人になるための努力をする必要がないのは事实です。あらゆる良い質が自然に高まってくるのですから。『シュリーマド・バーガヴァタム』でも、クリシュナ意識に到達した人物は良い質すべてを同時に得る、と言われています。いっぽう、良い質をたくさん持っていても、神を思う気持ちがまったくなければ、その善人たる質もまったく役に立ちません。なぜ? 悪癖をやめる可能性がないからです。クリシュナ意識を持たなければ、物質界では必ず悪いことをするはずです。

ジャンマ カルマ チェ メー ディヴャンム
エーヴァンム ヨー ヴェーッティ タットゥヴァタハ
テャクトゥヴァー デーハンム プナル ジャンマ
ナイティ マーメーティ ソー ルジュナ

「アルジュナよ。わたしの降誕と行動の超越的質を知る者は、肉体を去ったあとに物質界にはもどらず、わたしの永遠なる住居に達する」(『バガヴァッド・ギーター』第4章・第9節)(Gītā 4.9)

クリシュナが降誕する使命について、さらに詳しく述べられています。主がある使命のために降誕すれば、主が何をするかも見ることができます。もちろん、神が化身として降誕することを信じない哲学者もいて、「神がこんなに堕落した世界に降りてくるものか」と言います。しかし、『バガヴァッド・ギーター』には別の教えがあります。献愛者は「『バガヴァッド・ギーター』のことばをすべて受けいれなくてはならない。そうでなければ読む意味がない」と考えるべきです。『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナは、「化身となって使命を果たすために降誕する」と言い、じっさいにその行動もしめしています。たとえば、クリシュナはアルジュナのために御者となり、クルクシェートラの戦場でいろいろなことをしました。戦争では国や人物がどちらかの味方に付きますが、主クリシュナはアルジュナ側に付きました。じっさいはだれにでも公平に行動する方なのですが、一見アルジュナの味方になったように見えます。しかし、この行動をふつうの贔屓(ひいき)として見てはいけません。

この節で主クリシュナが指摘しているのは、主の物質界への降誕は超越的だという点です。Divyam(ディヴャン)は「超越的」という意味です。主の行動に俗な質はまったくありません。今でも、インドでは8月末になると宗派の違いを問わずクリシュナの誕生日を祝います。西洋でイエスキリストの誕生をクリスマスの日に祝うのとおなじです。クリシュナの降誕日をジャンマーシュタミー(Janmāṣṭamī)といい、この節でも「わ14たしの誕生」をjanma(ジャンマ)ということばで表現しています。「誕生」すれば「行動」するものです。クリシュナの誕生と行動が超越的であるという言い方は、ふつうの誕生や行動と違うことを表わしています。行動が超越的とはどういうことか、と尋ねる人がいるかもしれません。主は誕生し、戦争でアルジュナの側に付き、ヴァスデーヴァという父を持ち、デーヴァキーという母を持ち、また家族も持っている――では、どこが超越的なのでしょう? クリシュナは言います、evaṁ yo vetti tattvataḥ(エーヴァン ヨー ヴェーッティ タットゥヴァタハ)。私たちは主の誕生と行動を正しく理解しなくてはなりません。クリシュナの誕生と行動を真に理解すれば、その結果はtyaktvā dehaṁ punar janma naiti mām eti so'rjuna(テャクトゥヴァー デーハン プナル ジャンマ ナイティ マーメーティ ソー アルジュナ)――現在の物質の体を出たあと、ふたたび生まれることなくクリシュナの元にそのまま帰っていきます。解放された魂になるのです。永遠の精神界に行き、至福と知識と永遠性にあふれた自分本来の境地にもどるということです。これが、クリシュナの誕生と行動の超越的な質を正しく知るだけで達成されるのです。

魂は、ある体を終えると次の体に入ります。自分の行動に忚じて一つの肉体(衣服)から別の肉体に変わる生涯を繰りかえすのです。これが魂の転生です。今私たちは、肉体をまるで自分自身のように考えていますが、体は衣服とおなじです。ほんとうは、真实の体、すなわち精神的な体を持っています。肉体は、精神的な体と比べれば表面的な覆いにすぎません。体が古くなって使えなくなったら、あるいは事故にあって動かなくなったら、ちょうど着古して汚れた衣服を捨てるように別の新しい物質の体を受けいれるのです。

ヴァーサーンシ ジールナーニ ヤタハー ヴィハーヤ
ナヴァーニ グルフナーティ ナロー パラーニ
タタハー シャリーラーニ ヴィハーヤ ジールナーニ
アニャーニ サンムヤーティ ナヴァーニ デーヒー

「古くなった衣服を捨てて新しい衣服を着るように、魂は、使えなくなった古い物質の体を捨てて新しい体をまとう」(『バガヴァッド・ギーター』第2章・第22 節)(Gītā 2.22)

肉体は、最初に作られたときはエンドウ豆ほどの大きさしかありません。やがて赤ん坊として生まれでて、子どもになり、尐年になり、青年になり、成人になり、そして老人へと変化し、やがて最終的に使えなくなったときに、体の中にいた生命体は別の体に移っていきます。ですから、体は絶えず変化しているのであり、死とは、現在の体が最終的に変わる瞬間にすぎません。

デーヒノー アスミン ヤタハー デーヘー
カウマーランム ヤウヴァナンム ジャラー
タタハー デーハーンタラ・プラープティル
ディーラス タトゥラ ナ ムヒャティ

「肉体をまとった魂が、肉体の中を、尐年期から老年期へと絶えず肉体の中を移動しつづけるように、魂も、死ぬときに別の体に入っていく。自己を悟った魂は、この変化に惑わされない」(『バガヴァッド・ギーター』第2章・第13 節)(Gītā 2.13)

肉体は変化しても、その中に住む者(魂)はおなじ状態で生きつづけます。尐年が青年になっても、肉体の中に住む魂は変わりません。尐年期にいた魂がどこか別のところに行ったわけではありません。医学も、肉体が毎瞬間変化していることを認めています。魂がその変化に惑わされていないように、自己を悟った人物は、臨終のときの最後の変化に惑わされません。しかし、物事を正しく理解していない人は悲しみます。魂は、物質的な環境の中でいつも体を変えつづけています。これが私たちの病気です。そして、いつでも人間の体に生まれ変わるわけでもありません。来世で得る体は現世の行動で決定され、動物や半神の体を得たりします。『パドマ・プラーナ』は、肉体の種類には840 万種類あると定義しています。死んだ魂はそのひとつに入ります。しかし主クリシュナが約束しています、主の誕生と行動を真に理解した者はこの輪廻の繰りかえしから解放される、と。

どうすればクリシュナの誕生と行動を正しく理解できるのでしょうか。このことが、『バガヴァッド・ギーター』の第18 章で説明されています。

バクテャー マーンム アビヒジャーナーティ
ヤーヴァーン ヤシュ チャースミ タットゥヴァタハ
タトー マーンム タットゥヴァトー ギャートゥヴァー
ヴィシャテー タドゥ・アナンタランム

「最高人格主神は献愛奉仕だけによって理解できる。そのような献愛奉仕をとおして至高主を完璧に意識することができる人物は、神の国に入っていく」(『バガヴァッド・ギーター』第18 章・第55 節) (Bg 18.55)

この節ではふたたびtattvataù(タットゥヴァタハ)「真に」ということばが使われています。献愛者になれば真にクリシュナの科学を理解できます。献愛者でなければ、つまりクリシュナ意識を求めて努力する人でなければ理解できません。第4章の始め(第3節)でクリシュナはアルジュナに、「この科学を教えるのは、君がわたしの献愛者で友人であるからだ」と言います。『バガヴァッド・ギーター』を学術的な視野だけから学ぼうとする人にとって、16クリシュナの科学は神秘のベールに包まれています。『バガヴァッド・ギーター』は、書店で買ってひとりで学んでも理解できるものではありません。アルジュナは、偉大な学者でも、ヴェーダを研究するヴェーダーンティストでも、哲学者でも、ブラーフマナでも、また放棄階級の人間でもありませんでした。家族を持つ軍人でした。それでも、クリシュナはアルジュナを『バガヴァッド・ギーター』を授ける相手として、また師弟継承の最初の人間に選びました。なぜでしょうか。「なぜなら君はわたしの献愛者だから」。これが『バガヴァッド・ギーター』やクリシュナをありのままに理解する資格です――クリシュナ意識にならなくてはならない、ということです。

では、クリシュナ意識とは? それは、ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ、クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー/ハレー ラーマ ハレー ラーマ、ラーマ ラーマ ハレーハレーの唱名をとおして心の鏡に積もった埃(ほこり)を取りのぞく方法です。このマントラを唱え、『バガヴァッド・ギーター』を学ぶことで、尐しずつ着实にクリシュナ意識に高められていきます。Īśvaraḥ sarva-bhūtānām(イーシュヴァラハ サルヴァ・ブフーターナーンム)――クリシュナはいつも私たちの心の中にいます。個々の魂と至高の魂は、肉体という木にいっしょに住んでいます。個々の魂(ジーヴァ・jīva)は、その木の实を食べていますが、超霊魂(パラマートマー・Paramātmā)はその様子を黙って見ています。個々の魂が献愛奉仕を始め、尐しずつクリシュナ意識を高めると、心の中に住んでいる超霊魂は、心の鏡に積もっているあらゆる埃を取りのぞくことができる力を貸してくれます。クリシュナは神聖な人すべての友であり、クリシュナ意識になろうとする努力も神聖です。Śravaṇamkīrtanam(シュラヴァナン キールタナン)――唱えることと聞くことでクリシュナの科学が理解でき、その結果クリシュナのことがわかるようになります。クリシュナを理解すれば、死ぬときに精神界・クリシュナの住居に入ります。精神界については『バガヴァッド・ギーター』に述べられています。

ナ タドゥ バハーサヤテー スーリョー
ナ シャシャーンコー ナ パーヴァカハ
ヤドゥ ガトゥヴァー ナ ニヴァルタンテー
タドゥ ダハーマ パラマンム ママ

「わたしのその住居は、太陽や月や電気で照らされているのではない。その地に辿りついた者は、物質界には決してもどってこない」(『バガヴァッド・ギーター』第15 章・第6節) (Gītā 15.6)

物質界はいつも暗闇に包まれています。だから太陽、月、電気の光を必要としています。ヴェーダは私たちに、「いつまでも暗闇の中にいてはいけない、精神界という光あふれる世17界に入らなくてはいけない」と教えています。暗闇ということばには2つの意味がこめられています。「光のない状態」と「無知」です。

至高主は無数の力をそなえています。主は、物質界でなにかをするために降誕するのではありません。ヴェーダも「至高主にすべきことは何もない」と言っています。『バガヴァッド・ギーター』でシュリー・クリシュナも言いました。

ナ メー パールタハースティ カルタヴャンム
トゥリシュ ローケーシュ キンチャナ
ナーナヴァープタンム アヴァープタヴャンム
ヴァルタ エーヴァ チャ カルマニ

「プリターの子よ。三天体系の中でわたしに課せられた活動は何もない。また、なにかに不足していることも、なにかを得なくてはならないということもない――それでも、わたしは活動をしている」(『バガヴァッド・ギーター』第3章・第22 節) (Gītā 3.22)

クリシュナは、物質界に降りてなにかをする必要があったわけではありません。クリシュナに等しいか、クリシュナを超える者はいません。主はあらゆる知識をそなえた方です。苦行をして知識を授かったわけではありません。どんな時でもどんな状態でも、主は完璧な知識に満たされているのです。アルジュナに『バガヴァッド・ギーター』を語りましたが、だれかにその内容を教わったわけでもありません。クリシュナがそういう方であることを理解した人は、物質界にもどって生と死を繰りかえすことはありません。私たちは眩惑されているため、自分たちの生活環境を調節することに一生を費やしていますが、それは人間生活のほんとうの目標からはずれています。私たちの生涯は、クリシュナの科学を理解するために用意されているのです。

物質生活では、食べる問題、性生活の問題、睡眠の問題、身を守る問題などを解決し、感覚を満たす必要があります。それは人間にも動物にも言えることです。動物は、この問題を解決するために忙しく動きまわっていますが、私たちがおなじことをしているのであれば、動物と変わらない生活をしていることになります。人間には崇高なクリシュナ意識に高められる特別の資質がそなわっていますが、それを活用しない人は動物とおなじです。現代文化の欠点は、このような生存競争の問題の解決に重点が置かれすぎていることにあります。私たちは精神的な存在ですから、生と死の束縛から自分を救うことは義務でもあります。そのためにも、人間生活という特別な機会を逃さないよう心がけなくてはなりません。シュリー・クリシュナも『バガヴァッド・ギーター』を教えるために自ら降誕し、私たちが神の意識になれるよう救いの手をさしのべています。まさに、物質創造界はこの教えを利用するために与えられているのです。せっかくこの機会や人間生活という贈り物18を授かったのに、クリシュナ意識を高めるために利用しなければ、めったに得られないチャンスを見逃していることになります。この教えを实践する方法はとてもかんたんです。Śravaṇam kīrtanam(シュラヴァナンム キールタナンム)――唱えることと聞くことです。聞くことがすべての始まりであり、注意して聞けば悟りは必ずやってきます。クリシュナは私たちのなかにいるのですから、ぜったいに助けてくれます。努力し、わずかな時間を使えばいいのです。自分が高められているかどうか、他人に聞く必要はありません。おのずとわかります。空腹だった人が、食べたあとに満足感を味わうように。

クリシュナ意識の方法、自己を悟る方法はそれほど難しいことではありません。クリシュナはその方法を『バガヴァッド・ギーター』をとおしてアルジュナに伝えましたし、私たちもアルジュナが理解したように理解すれば、難なく完璧な境地に辿りつくことができます。しかし、『バガヴァッド・ギーター』を通俗かつ学術的な見方で曲解しようとすれば、まったくの無駄骨に終わることでしょう。

先に述べたように、ハレー・クリシュナの唱名は、物質的なけがれを心の鏡から取りのぞいてくれる方法です。クリシュナ意識は私たちの内側に眠っているのですから、クリシュナ意識をよみがえらせるのに表面的な助けはいりません。自己そのものがクリシュナ意識なのです。この方法に従って自己を目覚めさせてください。クリシュナ意識は永遠に変わらない真实です。教義ではありませんし、組織に押しつけられてできあがる信念でもありません。人間や動物、すべての生命体の内にあります。主チャイタンニャ・マハープラブが500 年ほど前、南インドのジャングルを歩きながらハレー・クリシュナを唱えると、あらゆる動物――虎、象、鹿など――が主といっしょに聖なる名前にあわせて踊りました。もちろん、これは主の唱名の純粋さがあったからこそ可能になったことです。私たちも、唱名の質を高めるにつれ、純粋な境地に入っていくことができます。

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