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どこにでも、いつでもクリシュナを見る
クリシュナは、日々の生活でクリシュナ意識をどのように实践するかについても教えています。仕事をやめたり活動をすべてやめたりする必要はありません。することをクリシュナ意識に合わせてすればいいのです。だれでも職業を持っていますが、では、どのような気持ちで仕事をすればいいのでしょうか。「私は、家族のために働かなくてはならない」とだれでも考えています。社会、政府、家族を満足させなくてはならない――だれもがそのような考えに縛られています。なにかを巧みにこなすには正しい心構えが必要です。気持ちが乱れていたり、心に異常があったりすれば自分の義務は果たせません。義務は正しく实行すべきですが、クリシュナを満足させる気持ちで实行してください。仕事そのものを変えるのではなく、だれのために働くのかを理解するのです。果たすべきことは果たさなくてはなりませんが、カーマ(käma)「欲望」に駆られてやるべきではありません。サ19ンスクリット語のkäma(カーマ)は、欲情、欲望、感覚満足を指しています。シュリー・クリシュナは、このカーマ・欲情を満たすために行動してはいけないと教えています。『バガヴァッド・ギーター』のすべての教えはこの原則に基づいています。
アルジュナは、「親族と戦わない」という感情を満たしたかったのですが、クリシュナは、至高主を満足させるために自分の義務を果たすよう確信させました。王国の所有権を捨て、親族を殺さない、という考え方は一般人の目には慎ましく見えますが、クリシュナは認めませんでした。「感覚満足」ゆえの決心だったからです。仕事や義務を変えなくてもいいのです――アルジュナが変えなかったように――意識を変えるのです。しかし、変えるには知識が必要です。その知識は「私はクリシュナの部分体である。それはクリシュナの精神的力である」と知ることであり、それがほんとうの知識です。特定の知識があれば機械を修理できるかもしれませんが、ほんとうの知識とは、「私はクリシュナの精神的なエネルギーを構成する不可欠な部分体」という本来の境地を知ることです。主の部分体なら、私たちが感じる喜びも、主という「全体」に依存しているはずです。たとえば、手は体につながれて体のために使われるときにこそ、喜びを感じることができます。他人の体に使われても喜びは感じません。私たちはクリシュナの部分体ですから、クリシュナに仕えるときにこそ私たちの喜びがあるはずです。ほとんどの人は、「私は人に仕えても幸福になれない、自分に仕えたときだけ幸福になれる」と考えています。しかしその「自分」とはだれかを知りません。クリシュナがその自分です。
ママイヴァーンショー ジーヴァ・ローケー
ジーヴァ・ブフータ サナータナハ
マナ シャシュタハーニーンドゥリヤーニ
プラクリティ・スタハーニ カルシャティ
「条件づけられたこの世界にいる生命体は、わたしの永遠の部分体である。条件づけられた生活ゆえに、心を含む6種類の感覚との苦闘を強いられている」(『バガヴァッド・ギーター』第15 章・第7節) (Gītā 15.7)
私たちジーヴァ(jéva)・生命体は、物質に囚われているために今は全体者から離れています。ですから、私たちの内に眠っているクリシュナ意識とふたたび結ばれるよう努力をしなくてはなりません。私たちはクリシュナを忘れて自分だけで生きようする不自然なことをしていますが、これはできることではありません。クリシュナから離れて生きれば、物質自然の法則に縛られるだけです。「私はクリシュナに縛られない」と思う人はクリシュナの幻想エネルギーに縛られます。これは、自分は国や国の規則に縛られないと思えば、警察の力に縛られるのとおなじです。だれもが自由奔放に生きようとしていますが、それ20はマーヤー・幻想です。地域、社会、国家、あるいは世界の中で自分だけ独立した状態にはなれません。自分はなにかに依存していることに気づいたとき、知識を得ることができます。今、世界中の人々が平和のために苦闘していますが、その平和原則をどう实行していいのか知りません。国連は平和のために懸命に頑張ってきましたが、戦争は今でもつづいています。
ヤッチャーピ サルヴァ・ブフーターナーンム
ビージャンム タドゥ アハンム アルジュナ
ナ タドゥ アスティ ヴィナー ヤトゥ シャーン
マヤー ブフータンム チャラーチャランム
「アルジュナよ、わたしは全存在物の創造の源である。動く生物、動かない生物すべてが、わたし無くして存在できない」(『バガヴァッド・ギーター』第10 章・第39 節)(Gītā 10.39)
このように、クリシュナは万物の所有者、究極の受益者、すべての結果を受けとる方です。労働の結果を得るのは自分だ、と思うのはまちがっています。何をしてもその結果を享受するのはクリシュナである、という理解に達しなくてはなりません。会社で働く何百人もの従業員は、労働の利益は会社の所有者のものであることを知っています。銀行員が「私は大金を扱っている。これはすべて私のものだから、家に持ち帰っていってもいい」と考えたら、その行員は面倒なことに巻きこまれるはずです。自分で貯めた財産だから感覚満足のために自由に使える、と考えるのは、カーマ(käma)・欲望に動かされて行動しているからです。しかし、すべてはクリシュナの所有物であることを理解する人は解放されます。かせいだお金は自分のもの、と思えばマーヤーに支配されます。すべてはクリシュナのもの、と考える人がほんとうに博識な人なのです。
イーシャヴァーッシャンム イダンム サルヴァンム
ヤトゥ キンチャ ジャガテャーンム ジャガトゥ
テーナ テャクテーナ ブフンジータハー
マー グリダハ カッシャ スヴィドゥ ダハナンム
「宇宙に存在する一切の生物・無生物は、主によって支配され、所有されている。ゆえに、自分に必要なものとして割り当てられたものだけを受けとるべきであり、それ以外は、それがだれのものかをよく承知したうえで、受けとってはならない」(『シュリー・イーショーパニシャッド』(マントラ1)
Éçäväsya(イーシャーヴァーッシャ)の意識――すべてはクリシュナのものという考え方――は、一人ひとりが、そして世界中の人々が思いだすべきものです。それが達成できればほんとうの平和が訪れます。博愛主義や利他主義をかかげて、おなじ国民や家族や世界中の人々と友好関係を築こうとしても、これはまちがった観念に基づいています。ほんとうの友人はクリシュナですから、家族や国や自分が住んでいる星のために役に立ちたいのであれば、クリシュナのために働いてください。家族の幸せを思うなら、かれらをクリシュナ意識の仲間にしようとしてください。家族の幸せのために働く人はたくさんいますが、あいにくその心は満たされていません。どこにほんとうの問題があるかを知らないからです。『シュリーマド・バーガヴァタム』が説くように、自分の子どもを死や物質自然の手から救うことができなければ、父、母、教師になるべきではありません。父親はクリシュナ意識の知識を持つべきであり、自分に託された無垢な子どもを生と死の循環にふたたび転落させないよう決心しなくてはなりません。子どもが生と死という苦しみのサイクルに巻きこまれないよう育てる決意をすべきです。しかし、それを实行するには、まず自分が熟達しなくてはなりません。クリシュナ意識に熟達すれば、自分の子どもはもちろん、社会や国も助けられます。でも、自分が無知に縛られていれば、おなじように縛られている他の人たちを自由にさせられますか? 他人を自由にさせるには、まず自分が自由にならなくてはなりません。しかしじつは、自由な人はだれもいないのです。だれもが物質自然の魔法に縛られているからです。いっぽう、クリシュナに身をゆだねている人ならマーヤーには捕らわれません。ほとんどの人々が縛られているなかで、クリシュナ意識の人物は自由です。太陽の光に包まれていれば暗闇はありません。人工の光に照らされても、その光は不安定で、やがて消えてしまうかもしれない。クリシュナは太陽の光とおなじです。主がいるところには暗闇も無知もありません。賢い人物・マハートマー(mahätmä)がそのことを理解します。
アハンム サルヴァッシャ プラバハヴォー
マッタ サルヴァンム プラヴァルタテー
イティ マトゥヴァー バハジャンテー マーンム
ブダハー バハーヴァ・サマンヴィターハ
「わたしは精神界・物質界両方の源である。すべてはわたしから発生する。このことを知る賢者は、わたしへの献愛奉仕に励み、全霊をこめてわたしを崇拝する」(『バガヴァッド・ギーター』第10 章・第8節)(Gītā 10.8)
この節にはbudha(ブダハ)ということばが使われていますが、これは賢い人物や博学な人物を指しています。では、その人のきざしは? クリシュナが万物の源であることを知っている、ということです。見える物すべてがクリシュナから発出されたことを知っているのです。物質界で一番顕著に見られるのが性生活です。どの生き物の中にも性的に惹かれあう傾向が見られますが、いったいそれはどこから来ているのだろう、と尋ねる人もいるでしょう。賢い人は、それがクリシュナの内にもあり、ヴラジャの乙女たちとの間に見られることを知っています。物質界にある物事はなんでもクリシュナの内に完璧な形で存在しています。唯一の違いは、物質界では歪んだ形で現われているという点です。クリシュナの内では、このような傾向や現われが純粋な意識として、精神的な形で現われているのです。このことを完全な知識として知っている人が、クリシュナの純粋な献愛者になります。
マハートゥマーナス トゥ マーンム パールタハ
ダイヴィーンム プラクリティンム アーシュリターハ
バハジャンティ アナニャ・マナソー
ギャートゥヴァー ブフーターディンム アヴャヤンム
サタタンム キールタヤントー マーンム
ヤタンタシュ チャ ドゥリダハ・ヴラターハ
ナマシャンタシュ チャ マーン バハクテャー
ニテャ・ユクター ウパーサテー
「プリターの子よ。惑わされていない者、偉大な魂は神聖な力に守られている。わたしを最高人格主神、根源かつ無尽蔵の存在であることを知っているから、完璧な献愛奉仕をする。その偉大な魂は、いつもわたしの栄光を唱え、強い決意で努力し、わたしにひれ伏しつつ、絶えることなく熱意をこめてわたしを崇拝している」(『バガヴァッド・ギーター』第9章・第13-14 節)(Gītā 9.13–14)
だれを偉大な魂・マハートマー(mahätmä)と言うのでしょうか。優性の力の影響下にいる人物です。私たちは生命体ですから優性と务性という力の中間にいます――2つの力のどちらかに自分を位置づけられるということです。クリシュナはまったく自由の身であり、私たちも主の部分ですから、この自由な気質をそなえています。ですから、どちらの力に身を置くか自分で選ぶことができます。しかし優性の力について知らないために、务性の力に留まるしかありません。
哲学者の中には、「人間が知っている自然界のほかに別の世界はなく、問題を解決する唯一の法は、それを捨てて無になることだ」と主張する人々がいます。しかし、私たちは生命体ですから無にはなれません。肉体が変われば存在そのものが終わる、というわけではないのです。物質自然の影響から逃れるには、私たちが本来どこにいるべきか、どこへ行くべきかを知らなくてはなりません。行き先を知らなければ、「優性も务性も私たちにはわからない。わかるのは今の状態だけだから、このまま生きて朽ち果てるしかない」と考えるだけです。しかし『バガヴァッド・ギーター』は優性の力、务性の自然界について私たちに教えてくれます。
クリシュナが話すことは、すべて永遠な知識です。その中身が変わることはありません。今私たちがどんな仕事をしているか、アルジュナがどのような仕事をしていたかは問題ではありません――意識を変えるだけでいいのです。人々は自分の興味だけに導かれて生きていますが、何が本当の興味なのかを知りません。じつは、自分の興味ではなく感覚の興味に動かされています。何をするにしても感覚を満たすために行動しているのです。変えるのはこの意識です。その意識に、私たちのほんとうの興味、すなわちクリシュナ意識を植えつけなくてはなりません。
どうすれば、それができるのでしょうか。毎日暮らしていくなかで、どうすればクリシュナ意識をはぐくむことができるのでしょうか。クリシュナはそのかんたんな方法を教えています。
ラソー ハンム アプス カウンテーヤ
プラバハースミ シャシ・スーリャヨーホ
プラナヴァハ サルヴァ・ヴェーデーシュ
シャブダハ ケー パウルシャンム ヌリシュ
「クンティーの子・アルジュナよ。わたしは水の味、太陽と月の光、ヴェーダ・マントラの音節オーム(om)、空間にある音、人間の能力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第8節) (Gītā 7.8)
この節でシュリー・クリシュナは、毎日の暮らしをつづけながら完璧にクリシュナ意識になれる方法を教えています。どんな生き物でも水を飲む必要があります。水の味はすばらしく、喉が渇いているときには水でなければその渇きを癒すことはできません。どんな会社にも純粋な水の味は作れません。水がこれほどすばらしいのですから、私たちは水を飲むときにクリシュナ・神を思いだすことができます。毎日の生活に水は欠かせませんから、そのようにして神を意識することができるのです――忘れるわけがありません。
また、光る物もクリシュナです。精神界の光の源・ブラフマジョーティ(brahmajyoti)はクリシュナの体から放たれています。物質界は覆われている世界です。物質宇宙の本来の姿は暗闇であり、夜がその暗闇の表われです。太陽、月、電気という模造の光で照らされているのがこの物質界です。では、この光はどこから発生しているのでしょうか。太陽はブラフマジョーティ、すなわち精神界のまばゆい光に照らされています。精神界に太陽、月、電気などは要りません。ブラフマジョーティに照らされているからです。しかし、地球にいる私たちでも、太陽から放たれている光を見たらクリシュナを思いだすことができます。
オーム(Oà)から始まるヴェーダのマントラを唱えても、クリシュナを思いだすことができます。「オーム」ということばは、「ハレー・クリシュナ」のように、神に対する呼びかけであり、クリシュナを指しています。Śabdaḥ(シャブダ)は「音」の意味で、どんな音を聞いても、それは根源の音、すなわち純粋で精神的な音・オームあるいはハレー・クリシュナであると理解してください。この世界で聞くどんな音も、根源の崇高な音・オームから発生したものです。このように、音を聞いたとき、水を飲んだとき、光を見たときに神を思いだすことができます。これができれば、神を思いださないときはありません。これがクリシュナ意識の方法です。こうすれば、クリシュナを1日24 時間思っていられます。もちろんクリシュナはいつも私たちといっしょにいますが、このように思いだせば、主がじっさいに存在することを实感できます。
神と触れあうには9つの方法があり、最初の方法がçravaëam(シュラヴァナンム)――聞くことです。『バガヴァッド・ギーター』を読めばシュリー・クリシュナのことばを聞くことができますし、またそれはクリシュナ・神とのじっさいの触れあいにほかなりません。(献愛者が「クリシュナ」と言えば、それは「神」を指しています)。神と交流していれば、またクリシュナということばを聞きつづけていれば、物質自然のけがれが消えていきます。クリシュナを、音、光、水、またその他多くの物事そのものであると理解すれば、クリシュナを避けてとおることはできません。こうして主クリシュナを思いだすことができれば、主との交流も永遠につづくのです。
クリシュナと交流するのは、光に照らされることとおなじです。太陽の光があたるところにけがれはありません。太陽の紫外線に当たっていれば病気にはかかりません。西洋医学では、太陽の光はあらゆる病気の治療に勧められていますし、ヴェーダは、病人が太陽を崇拝して病気を治すよう勧めています。おなじように、クリシュナ意識でクリシュナと触れあえば私たちの不治の病も治ります。ハレー・クリシュナを唱えればクリシュナと交流できますし、水をクリシュナとして見、太陽や月をクリシュナとして見、音の中にクリシュナを聞き、水を飲んでクリシュナを味わうことができます。今私たちはクリシュナを忘れています。しかし今こそ、クリシュナを思いだして精神生活をよみがえらせなくてはなりません。
このśravaṇaṁ kīrtanam(シュラヴァナン キールタナン)――聞いて、唱えること――は、主チャイタンニャ・マハープラブが認めている方法です。主チャイタンニャは、友人で偉大な献愛者であるラーマーナンダ・ラーヤと話したとき、精神的な悟りを得る方法について尋ねました。ラーマーナンダは、varṇāśrama-dharma(ヴァルナーシュラマ・ダルマ)、sannyāsa(サンニャーサ)・活動の放棄、またその他多くの方法を挙げましたが、主チャイタンニャは、「どれも優れた方法とは言えない」と答えました。ラーマーナンダが意見を言うたびに主チャイタンニャは否定し、精神的に高められるもっと良い方法を尋ねました。最後にラーマーナンダは、神を理解するには不必要な推論をすべて捨てるよう勧めるヴェーダの格言を引用しました。推論では決して究極の真理に到達できないからです。たとえば科学者は、遥かかなたにある星や惑星について推測していますが、じっさいに体験しなければ結論は出せません。全生涯を推論に費やしても、結論には到達できないということです。
特に、神について学ぶときに推論は役に立ちません。ゆえに『シュリーマド・バーガヴァタム』はいっさい推論をしてはいけない、と勧めています。従順な気持ちになり、自分はちっぽけな存在であること、また地球は広大な宇宙に浮かぶ小さな点にすぎないことを受けいれるのです。ニューヨーク市は大都市に見えるかもしれませんが、地球がこれほど小さな存在であることがわかれば、また合衆国もその地球の小さな場所であること、その合衆国にあるニューヨーク市がさらに小さな点にすぎないことがわかれば、自分がどれほど小さな存在かがわかるはずです。神の宇宙と比べた私たちの存在の小ささがわかれば、知ったかぶりをするのはやめて服従心を持つべきです。カエル博士の哲学の犠牲になってはいけません。ある井戸にカエルが住んでいました。訪ねてきた友人から大西洋について聞いたカエルは、その友人に聞きました。「へぇ、大西洋とはどういうところなの?」
「とてつもない量の水が広がっているところだよ」
「広い? どのぐらい? この井戸の倍はあるの?」
「とんでもない。もっとはるかに広いよ」
「もっと広い? 10 倍ぐらい?」これがカエルの計算です。しかし、そんな頭で大西洋の深さや広さが理解できるでしょうか。私たちの能力、経験、空想力には必ず限界があります。このカエル博士の哲学と大差ありません。だからこそ『シュリーマド・バーガヴァタム』は、至高者を理解しようとする憶測をやめるよう助言しているのです。
推論がだめなら、どうしたらいいのでしょう。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、従順な気持ちで神のことばを素直に聞くよう教えています。神のことばは『バガヴァッド・ギーター』や他のヴェーダ経典、聖書、コーランなど、正しい経典ならどこにでも見つけられますし、あるいは悟った人物から聞くこともできます。大切なことは、自分勝手に想像しないこと、神について素直に聞く、という点です。素直に聞いたらどういう結果が得られるのでしょうか。貧しくても、裕福でも、アメリカ人、ヨーロッパ人、インド人、ブラーフマナ、シュードラ、いやだれであろうとも、神の超越的なことばを聞けば、どのような力にも征服されない主を、愛情によって征服できます。アルジュナはクリシュナの友人でしたが、至高主神であるクリシュナはアルジュナの御者となって召使いの立場を受けいれました。アルジュナはクリシュナを心から愛し、クリシュナもそのようにアルジュナの愛情に忚えたのです。おなじように、クリシュナは幼いころ、父親のナンダ・マハーラージャの靴を自分の頭の上に乗せ、父親に仕えました。クリシュナと一体になろうと努力する人たちがいますが、じつはその状態さえ超えることができます。神の父親になれるのですから。もちろん、神はすべての生命体の父親で、そして神に父親はいませんが、それでも自分の献愛者、愛する人を父親として選びます。クリシュナは、愛情ゆえに献愛者に服従することがあります。大切なことは、主のことばを一心に聞こうとする姿勢です。
シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の第7章で、日々の暮らしのなかで毎瞬間主を感じる方法を教えています。
プニョー ガンダハ プリティヴャーンム チャ
テージャシュ チャースミ ヴィバハーヴァサウ
ジーヴァナンム サルヴァ・ブフーテーシュ
タパシュ チャースミ タパスヴィシュ
「わたしは、土が持つ本来の香りであり、火の中の熱である。わたしは生きとし生けるものすべての命であり、あらゆる苦行者がおこなう苦行そのものである」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第9節)
Puëyo gandhaù(プニョー ガンダハ)は「香り」のことです。クリシュナだけが味や香りを作りだすことができます。私たちも似たような味や香りを作ることはできますが、自然界にある本物ほど素晴らしいものではありません。芳(かぐわ)しい自然な香りを嗅いで「これは神、クリシュナ」と感じ、自然の美しさを見て「これがクリシュナだ」と感じることができます。また、並外れたもの、力強い、あるいは驚くべきものを見れば、「これがクリシュナ」と感じることができます。あるいは、木、動物、人間など、どんな姿の生物でも、その命はクリシュナの部分体であると理解しなくてはなりません。クリシュナの部分体である精神的火花がその体から去っていけば、体は腐っていくばかりです。
ビージャンム マーンム サルヴァ・ブフーターナーンム
ヴィッデヒィ パールタハ サナータナンム
ブッデヒィル ブッデヒィマターンム アスミ
テージャス テージャスヴィナーンム アハンム
「プリターの子よ。わたしは全存在物の種であり、聡明な者の知性であり、あらゆる強靭な者の力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第10 節) (Gītā 7.10)
この節でも、クリシュナが全生物の命の源であることがはっきりと説明されています。このように理解することで、私たちは神を毎瞬間見ることができます。よく「私に神が見せられるか」と挑戦する人がいます。もちろん、できます。神はさまざまな方法で見ることができるのです。しかしそう言いながら、目を閉じて「神を見るつもりはない」と言うのであれば、見られるわけがありません。
この節のbéjam(ビージャン)は「種」という意味で、その種は永遠(sanätanam・サナータナン)と明言されています。巨大な木が立っている――では、その源は? それがその種であり、そしてその種は永遠です。全生物の内に存在の種があります。体は数多くの変化をつづけます――母親の胎内で成長し、赤ん坊として外界に出て、子ども、大人へと。しかし、その肉体の中にある存在の種は永遠です。だからsanätanam(サナータナン)ということばが使われています。肉体は、目には見えない状態で毎瞬間変化しています。しかし、béjam(ビージャン)「種」、すなわち精神的火花は変わりません。クリシュナは「わたしは存在するものすべてのうちにあるこの永遠な種である」と自ら宣言しています。クリシュナの恩寵なくして、ずば抜けた知性を授かることはありません。だれでも他人より賢くなろうと努力していますが、クリシュナの恩寵がなければそれは实現しません。ですから、ひじょうに賢い人物を見るときには、「その知性はクリシュナである」と考えるべきです。おなじように、強い影響力を見せる人もクリシュナの現われです。
バランム バヴァヴァターンム チャーハンム
カーマ・ラーガ・ヴィヴァルジタンム
ダハルマーヴィルッドー ブフーテーシュ
カーモー アスミ バハラタルシャバハ
「バーラタ王家の主(アルジュナ)よ。わたしは、激情も欲望もない力強き者の力である」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第11 節)
象やゴリラはとても力のある動物ですが、その力はクリシュナから授かっています。人間にはそのような力は出せませんが、クリシュナの恩寵があれば象よりも何千倍もの力を発揮できます。クルクシェートラの戦場で戦った偉大な兵士ビーマは、象の1万倍の力を持っていたと言われています。おなじように、欲情・カーマ(käma)も、宗教原則に反していなければクリシュナとして見ることができます。その欲情とは? 一般的には性生活を指しますが、この節にあるkäma・カーマは、宗教原則に反していない性生活、つまり、優れたクリシュナ意識の子どもをもうけるための性生活のことです。それができるのであれば、何度でも夫婦の交わりはできますが、犬や猫のような子どもしか作れないのであれば、その性生活は宗教に反しています。宗教的・文化的な社会では、結婚とは優秀な子どもを作るために夫婦が性生活をすることを指しています。ゆえに、結婚したうえでの性生活は宗教的であり、未婚でありながら性行為をするのは反宗教的です。じっさい、世帯者の性行為が宗教原則に従っていれば、サンニャーシーと世帯者に違いはありません。
イェー チャイヴァ サーットゥヴィカー バハーヴァー
ラジャサース ターマサーシュ チャ イェー
マッタ エーヴェーティ ターン ヴィッデヒィ
ナ トゥヴ アハン テーシュ テー マイ
「あらゆる存在――徳性、激性、無知――は、わたしのエネルギーの現われである。ある意味でわたしはすべてである、しかしまったく独立した存在でもある。わたしは、物質自然界のいかなる様式にもかかわっていない」(『バガヴァッド・ギーター』第7章・第12節)
クリシュナに尋ねる人がいるかもしれません。「あなたは音、水、光、香り、万物の源である種、力、カーマ・欲望である、と言っておられるが、それは、あなたが徳性の中だけに存在しているということなのか」と。物質界には徳性・激性・無知という3つの質があります。これまでクリシュナは自らを「善なる物事そのもの」と説明してきました(たとえば、既婚のセックスは宗教原則に基づいている、という点)。しかし、ほかの質ではどうでしょうか。その中にクリシュナは存在しないのでしょうか。その答としてクリシュナは、物質界で見られるものはすべて物質自然の3つの質の相互作用で起こる、と説明しています。私たちが目にするものはなんであろうと、それは徳性・激性・無知の組みあわせであり、そのすべてが「わたしによって作られた」ということです。クリシュナに作られたものですから、その存在自体はクリシュナの内にありますが、クリシュナは三様式を超えた存在ですからその中にはいません。この理由から、ある意味では無知によって作られた邪悪なことであっても、クリシュナがした場合は、それらもクリシュナである、と言えます。どうしてそんなことが言えるのでしょう。例を挙げてみます。電気技師は電気を作りだします。家庭ではその電気が冷蔵庫の冷却装置として使われ、逆に電気ストーブのように暖房装置としても使われています。しかし、その電気を出している発電所の電気は冷たくも熱くもありません。このエネルギーの現われ方は、私たちには異なっていてもクリシュナにはおなじです。そのため、クリシュナがすることは時には激性や無知の状態でおこなわれているように見えても、電気技師にとって電気エネルギーは電気以外のなにものでもないように、クリシュナにはクリシュナそのものです。電気技師は「こちらは冷たい電気」とか「あちらは熱い電気」という区別はしません。
すべてはクリシュナによって作られました。そして『ヴェーダーンタ・スートラ』もその事实を裏づけています。Athäto brahma jijïäsä(アタートー ブラフマ・ギギャーサー)、janmädy asya yataù(ジャンマーディ アッシャ ヤタハ)「すべては最高絶対究極者から発出されている」。生命体が良いとか悪いとか考えている物事は、ただ生命体だけにあてはまることです。生命体がそのように条件づけられているからです。しかし、クリシュナは条件づけられていませんから、クリシュナにとって善悪はありません。私たちは条件づけられているために二元性に苦しめられていますが、クリシュナにとってすべては完璧です。