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第16章

サナータナ・ゴスヴァーミーへの教えの結論

単に解放を望んでいる者、この物質的な存在の中にあってさえも既に解放されている者、そして実際に自己を認識している者が存在します。この世界には解放を望む多くの者が存在し、ときとして彼らはこの目的のために献身奉仕にいそしみます。シュリマッド・バーガヴァタム(1.2.26)において、実際に解放を望む者は半神たちの崇拝を放棄し、妬むこと無くして彼らの心をナーラーヤナ、すなわち至高の人格神に集中させる、と裏づけられています。そのような人々が純粋な献身者に出会うとき、彼らはクリシュナへの献身奉仕にいそしみ、解放という考えを放棄します。ハリ・バークティ・スドーダヤには、次のように述べられています。

aho mahātman bahu-doṣa-duṣṭo
  ’py ekena bhāty eṣa bhavo guṇena
sat-saṅgamākhyena āsukhāvahena
  kṛtādya no yena kṛśā mumukṣā

「おお、偉大な魂よ。この惨めな人生の中には多くの欠陥がありますが、それでも一つの栄光があります。純粋な献身者との関わりです。そのような関わりを望みなさい。それによって私たちの解放への欲求は消えます。」

シュリマッド・バーガヴァタム(11.2.37)には、恐れは人が人生に対して持っている物質的な概念、および人が自分の至高主との永遠の関係を忘れていることが原因である、と述べられています。結果として、彼は自分が歪んだ記憶だけを持っていることに気がつきます。これは物質的なエネルギーの魔力のために生じます。十分な知性を持っている者は、自らを完全な献身奉仕に携わらせ、至高主を自分の霊的指導者、および崇拝の対象となる神と見なします。結論は、誰も主への献身奉仕にたずさわることなくして意識における変革を得ることはできない、ということです。実際に物質的な汚染から自由であるとき、人はクリシュナ意識において完全に自分自身を携わらせることができます(訳注:人は完全にクリシュナ意識になることができます)。

シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)には、物事をありのままに理解するために霊的な人生に携わるけれど、クリシュナ意識に携わる意思が全く欠けている者は、その努力に対して単に労苦を得るに過ぎない、と再び明確に述べられています。(訳注:to engageを「携わる」と訳していますが、何かに関わる、従事する、などの意味です。)彼の人生には実質がありません。すべての生命体は至高主の欠かすべからざる小片であり、そして、したがってその至高の全体に奉仕することはすべての生命体の義務です。そのような奉仕がないと、生命体は物質的な汚染に堕落します。

主チャイタンニャは、6種類のアートマーラーマが何らかのクリシュナへの献身奉仕に携わるということを指摘することによって、サナータナ・ゴスヴァーミーへのご自分の教えを結論づけられました。言い換えると、遅かれ早かれ、すべての超越主義者は究極的にはクリシュナへ献身奉仕を捧げることの必要性を理解するようになり、完全にクリシュナ意識になります。たとえ人が非常に学識があったり、突飛であったりしても(extravagant、度を越えた、無茶な、浪費的な)であったりしたとしても、彼はそれでも主への献身奉仕にいそしむことができます。

超越主義者は6つの基本的な型に分類され得ます。
1、初心者の超越主義者
2、(献身的な恍惚感に)浸った超越主義者(訳注:原文は単にabsorbed)
3、実際に超越性に位置している者
4、実際に解放を望んでいる者
5、実際に解放されている者
6、その本来の立場において実際に活動にいそしんでいる者
これらのすべてはアートマーラーマと呼ばれます。人がアートマーラーマ、すなわちクリシュナ意識における偉大な思索家になるとき、彼は完全に献身奉仕にいそしみます。文法的な規則によれば多くのアートマーラーマが存在しますが、その言葉の一つの意味は他のものを代表するのに十分です。集合的な意味において、すべてのアートマーラーマは至高主クリシュナを崇拝する傾向があります。

自分の中の超魂を崇拝する神秘主義者もまた、アートマーラーマと呼ばれます。アートマーラーマ・ヨギーには2種類あります。サガルバーとニガルバーです。シュリマッド・バーガヴァタム(2.2.8)には、次のように述べられています。「一部のヨギーは、4本の腕を持ち、ほら貝、円盤、こん棒、および蓮の花という4つの象徴を持つ、自分の心臓の中にいる局地的なヴィシュヌを瞑想します。」4本の腕を持つヴィシュヌのことを考えるヨギーは献身的な恍惚感に浸るようになり、その状態の徴候を示します。時として彼は泣き、時として彼は別離を感じます。このようにして彼は超越的な喜びと一体化します。これらすべての結果は、彼は魚のように閉じ込められるというものです。

サガルバーとニガルバーのヨギーは、さらに3つの部類に分けられます。初心者、中級者(ascendent、先祖、先に行く者)、そして既に完成を得た者です。これらのヨギーはバガヴァッド・ギーターの6章に描写されています。神秘的なヨガの道に上がろうとしている者は、アールルクシュと呼ばれます。アールルクシュのヨガにおいては様々な座り方が練習され、心は集中しています。しかし、人が既にヨガの道に上ったときは、瞑想と放棄が目標となります。そして人がもはや感覚の満足のために働くことに執着しなくなったとき、彼は徐々に自由になります。その時点で彼はヨガ・アールーダーと呼ばれる恍惚の状態にも至ります。もしもこれらの神秘主義的なヨギーが何らかの理由で聖なる人と出会えば、彼らはクリシュナの献身者になります。

ウルクラマという言葉は至高主を指します。すべてのアートマーラーマはウルクラマへの献身奉仕にいそしんでいます。献身奉仕にいそしむ前は、そのような超越主義者はシャーンタ、すなわち「平穏な状態に戻った(pacified、なだめられた、問題にかき乱されない)献身者」と呼ばれます。

アートマー、すなわち自己という言葉は、時として「心」と翻訳されます。時として精神的な推量をする者たちは哲学的な理論を様々に提示しますが、彼らが献身奉仕にたずさわる聖なる人に出会うとき、彼らもまた献身者になります。

シュリマッド・バーガヴァタム(10.87.18)は、2種類のヨギーたち(サガルバーとニガルバー)を次のように描写しています。「ヨギーたちは腹部を崇拝することによってヨガの修練を始めます。そして彼らは注意を自分の腸に集中しようとします。徐々に彼らの瞑想は心臓に上がり、心と心臓に集中します。それから彼らの注意は頭のてっぺんに上がり、その位置に上がることのできる者は完全になり、もはや生と死の影響を受けない、と考えられます。」たとえそのようなヨギーたちが純粋な献身者と出会っても、彼らもまた主へのいわれなき献身奉仕を捧げます。

アートマーという言葉は、「努力をする」ということを意味します。あらゆる修練において何らかの努力が存在し、究極の努力は献身奉仕の最高の完成した水準に至るための努力です。シュリマッド・バーガヴァタム(1.5.18)には、より高い惑星系においても、より低い惑星系においても到達し得ない、最も高い目標に至ろうとすべきである、と述べられています。つまり、遅かれ早かれ(in the course of time、時間の流れの中において)物質的な幸せと悲惨さはすべての惑星系において得られるけれど、最高の達成、すなわち献身奉仕はどこであっても努力無しには得られないということです。したがって、ブリハン・ナーラーディーヤ・プラーナにおいて、献身奉仕の最高の完成の水準を理解することに関して真剣である者は、単にその努力によってすべてのことにおいて成功することができる、と述べられています。人は、個人的な努力無くして献身奉仕の最高の完成の水準に至ることはできません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように述べられています。

teṣāṁ satata-yuktānāṁ
  bhajatāṁ prīti-pūrvakam
dadāmi buddhi-yogaṁ taṁ
  yena mām upayānti te

「常に献身の念を持って、愛情を込めて私を崇拝する者に、私はそれによって彼らが私のところに来ることができるように、彼らに理解(訳注:理解力)を与えます。」(BG10.10)

アートマーという言葉は忍耐と不屈(の努力)も意味します。(訳注:patience and perseverance、「忍耐と忍耐」という基本的に同じ意味の言葉を重ねてある。)忍耐と不屈の努力によって人は献身奉仕の最高の水準に至ることができます。

ムニという言葉について言えば、さらなる意味があります。この言葉は鳥と大きな黒い蜂も指します。ニルグランターという言葉の別の意味は「愚かな人」です。このように、純粋な献身者の恩寵を受けるとき、鳥、蜂、および愚かな者でさえ至高主への奉仕にいそしみます。実に、シュリマッド・バーガヴァタム(10.21.14)には、鳥は至高主への奉仕に献身している、と述べられています。そこには(10.15.6)、黒い蜂がいつもクリシュナとバララーマに従う、ということも述べられています。このことに関して、シュリー・クリシュナは、蜂(bees and wasps、後者は大型の蜂を指す)が至高の人格神に捧げていた献身奉仕を描写することさえしていらっしゃいます。主クリシュナはおっしゃいました。

ete ’linas tava yaśo ’khila-loka-tīrthaṁ
  gāyanta ādi-puruṣānupathaṁ bhajante
prāyo amī muni-gaṇā bhavadīya-mukhyā
  gūḍhaṁ vane ’pi na jahaty anaghātma-daivam

「おお、究極的に高潔な者よ。おお、至高の人格神(バララーマ)よ。いかにこれらの蜂たちがあなたに従い、あなたの超越的な名声を讃え、あなたを崇拝しているかをご覧なさい。実際は、これらの蜂たちは見かけのままではありません。彼らは至高の魂を讃えるためにこの機会を利用している偉大な賢人たちです。

あなたは一般の人々によっては知られていませんが、彼らはあなたを知っています。そして彼らはあなたに従い、あなたを讃えています。」シュリマッド・バーガヴァタム(10.15.7)にも同様の節があります。それはヴリンダーヴァンの孔雀によってバララーマとクリシュナに捧げられた歓迎を描写しています。「おお、崇拝に値する者よ。巣に帰る途中の孔雀たちが完全な喜びをもってあなたを出迎えている様子をご覧なさい。これらの孔雀たちはちょうどヴラジャの高貴な娘たちのようです。木の枝の上のカッコウたちもまた、彼らなりにあなたをお迎えしています。ヴリンダーヴァンの住人たちはとてもすばらしいので、誰もが主への献身奉仕を捧げる用意があります。」シュリマッド・バーガヴァタムの別の節(10.35.11)には、次のように述べられています。「おお、いかに水の上の鶴と白鳥が主の栄光を歌っているかをご覧なさい!実に、彼らは水の中に立って主を瞑想し、主を崇拝しています。」シュリマッド・バーガヴァタムの別のところ(2.4.18)には、次のように述べられています。「原住民や、キラータ、フーナ、アンドラ、プリンダ、プルカシャ、アービーラ、シュムバー、ヤヴァナおよびカーサなどの非文明的な人々、そしてより低い種の中の他の多くの人類たちでさえ、単に純粋な献身者の庇護を受けることによって、皆、浄化されることができます。」したがって、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、その献身者がそれほど素晴らしい働きをすることができる主ヴィシュヌに心からの敬意を捧げました。

ドリティという言葉のもう一つの意味は「自分自身を上げられた者として認識する」というものです。自分の上昇を認識するとき、人は自分がすべての悲惨さから自由になって、人生の最高の水準に上げられている、と感じます。完全なクリシュナ意識を持ったすべてのクリシュナの献身者は、あらゆる種類の物質的な喜びと悲惨さから自由です。彼らは完全に主への奉仕に浸っており、そして彼らは、いつも主への超越的な奉仕に携わっていることの力によって、陽気です。彼らは幸福の経験を積んだ人々です。実に、彼らはとても幸せなので、霊的な惑星に上げられたいとさえ願いません。彼らは人生のすべての領域において幸せだからです。主への超越的な奉仕に満たされているので、彼らは物質的な物も物質的な感覚の喜びも欲しません。ゴスヴァーミーたちは次のように述べています。「その感覚が至高主への奉仕に固定されている者は、平和的であると呼ばれ得ます。」

このように、アートマーラーマという言葉は、鳥や獣や愚かな者さえ、つまりすべての者がクリシュナの超越的な性質によって魅了され、主への奉仕に携わり、解放されることができる、ということを示しています。

アートマーのさらにもう一つの意味は「知性」です。特別な知性のある者もまた、アートマーラーマと呼ばれます。特別な知性のあるアートマーラーマには2種類あります。一つは学識のある賢人であり、もう一つは本から得た知識のない愚かな者です。これらのうちのどちらも純粋な献身者と関わる機会を持つことができます。愚かなアートマーラーマでさえ、すべてを捨ててクリシュナ意識において純粋な献身奉仕にたずさわることができます。シュリマッド・バーガヴァタムには、主がすべてのものの源であり、すべてが主から放射する、と述べられています。実際に知性的な者は誰であれ、至高主クリシュナがすべてのものの源であるということを理解することができ、そうして主への奉仕に携わります。シュリマッド・バーガヴァタム(2.7.45)には次のように述べられています。「女性、労働者、フーナ、シャバラなどの知性において劣る人々や鳥や獣が人生の最高の水準に至ることができるとき、ヴェーダを学ぶほどの知性のある者については言うまでもありません。」前に引用したように、バガヴァッド・ギーター(10.10)も、人が非常に知性的になってクリシュナ意識に携わるとき、クリシュナはそれによってその人が至高主のお住まいに上げられることができるように、知性を授けることによって報いを与えられる、と示しています。

主はそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに、超越的な水準に上げられるためには次のことがどれも非常に大切であるとおっしゃいました。(訳注:原文は箇条書きではない。)
1、良い献身者との関わり
2、主への献身奉仕に携わること
3、シュリマッド・バーガヴァタムを理解すること
4、主の聖なる御名を唱えること
5、ヴリンダーヴァンやマトゥーラーなどの聖なる地に住むこと
人は上の5つの項目をすべて得る必要はありません。もしも人がそれらのうちのたった一つにおいてさえ熟達していれば、彼は間違いなく至高神への愛の水準に上げられるでしょう。実際に知性的な者は、すべての物質的な欲望を放棄してクリシュナへの超越的な奉仕にいそしみます。献身奉仕の影響はそれほどであるので、それにいそしむとき、人はすべての物質的な欲望を放棄して主の超越的な性質に力づけられ、クリシュナに完全に執着するようになります。主の献身者の目の中で、主の美しさはそれほどであるのです。

アートマーという言葉のもう一つの意味は「自然」です。この場合、アートマーラーマという言葉は、誰もが自分が得た特定の自然を楽しんでいる、ということを指します。しかし、究極の自然、すなわち生命体の永久にして永遠な自然は、至高主に奉仕をすることです。主の永遠の従者としての自分の本当の自然を理解することの完成に至った者は、(物質的、あるいは身体的な)自分の特定の個人としての(designative)人生の概念を放棄します。それが本当の知識です。知識を探し求め、純粋な献身者と関わりを持つ機会を得る者もまた、主への献身奉仕に携わります。4人のクマーラのような聖人たちも、愚かな者たちや鳥たちも、主への超越的な奉仕に携わることができます。クリシュナのいわれなき慈悲によって恩寵を受けることにより、全く誰でもがクリシュナ意識の水準に上げられ得ます。

クリシュナの超越的な性質によって魅了されるようになるとき、人は献身奉仕を始めます。シュリマッド・バーガヴァタム(10.15.8)は、ヴリンダーヴァンの地をこのように讃えます。

dhanyeyam adya dharaṇī tṛṇa-vīrudhas tvat-
  pāda-spṛśo druma-latāḥ karajābhimṛṣṭāḥ
nadyo ’drayaḥ khaga-mṛgāḥ sadayāvalokair
  gopyo ’ntareṇa bhujayor api yat-spṛhā śrīḥ

「このヴラジャブーミの地はあなたの足が触れることによって栄光を与えられています。あなたの指で触れられることによって、つる草もまた、あなたを讃えます。あなたが丘、川、そしてより低い動物たちを見るとき、彼らは皆、栄光を与えられます。そしてあなたの超越的な腕によって抱かれることによって、ゴピーたちもまた栄光を与えられます。」ゴピーたち(牛飼いの少女たち)は、次のような言葉でヴリンダーヴァンを讃えました。「親愛なる友人たちよ。これらすべてのヴラジャブーミの住人たちは、鳥や獣や木々も含めて、皆、主クリシュナがご自分の友人たちとバララーマと共に牧草地にいらっしゃるのを見るとき、栄光を与えられます。」

アートマーという言葉は「この体」も意味します。体を自分と考えて身体的な運動の訓練をするヨギーたちもまた、もしも純粋な献身者と関わるなら、主への超越的な奉仕に上げられます。体が自分であると信じる多くの人がいます。そして彼らは、沐浴の儀式や普通の俗世の活動を含む、結果を求める多くの活動にいそしみます。しかし、純粋な献身者と出会うとき、彼らもまた主への超越的な奉仕にいそしみます。

シュリマッド・バーガヴァタム(1.18.12)には、次のように述べられています。「おお、我が親愛なるスータ・ゴスヴァーミーよ。私たちは結果を求める活動の犠牲の煙によって陰鬱にさせられる(to darken、陰鬱にする、暗くする、目を見えなくする)に至ってしまいましたが、あなたは私たちにクリシュナの蓮の御足という蜜をくださいました。」(訳注:この場合は「煙によって(心の)目が見えなくなった」とするのが正しいのかもしれません。)シュリマッド・バーガヴァタム(4.21.31)には次のような記述があります。「ガンジス河の水はクリシュナの蓮の御足の先から流れます。そして、その水で沐浴することによって、結果を求める活動を行う者と賢人を含むすべての人が、心から汚れたものを流し去ることができます。」

体が自分であると信じる者、あるいは物質的な欲望に満ちている者でさえも、ある意味ではアートマーラーマです。主の純粋な献身者と関わるとき、彼らはその物質的な欲望を捨て、主への奉仕において完璧になります。このことの最良の例はハリ・バークティ・スドーダヤ(7.28)に見られます。そこでドルヴァ・マハーラージャは次のように言いました。

sthānābhilāṣī tapasi sthito ’haṁ
  tvāṁ prāptavān deva-munīndra-guhyam
kācaṁ vicinvann api divya-ratnaṁ
  svāmin kṛtārtho ’smi varaṁ na yāce

「我が親愛なる主よ。私はこの地上に幾らかの土地を欲していたので、あなたを崇拝しに来ました。しかし、幸運にも私は、偉大な賢人や聖なる人々の知覚さえ越えた存在であるあなたを得ました。私は幾らかの色ガラスのかけらを探しに来ましたが、その代わりにあなたのような貴重な宝石を見つけました。私は満足しています。そして、私はあなたから何も欲しいと思いません。」

ニルグランターという言葉にも別の意味があります。この言葉は「愚かな狩人」あるいは「惨めな(wretched、惨めな、卑劣な、劣った)貧しい人」も意味します。単に純粋な献身者ナーラダと関わることによって救いを得て主への献身奉仕にいそしんだ狩人の例があります。実に、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに、狩人がナーラダに出会ったときの次のような話をなさいました。

あるとき、偉大な賢人たちが主ナーラーヤナを訪れた後でヴァイクンターから帰っていたとき、プラヤーグの森の中に幸運にもナーラダ・ムニと出会った狩人がいました。ナーラダは、ガンジス河とヤムナー河の合流地点で沐浴するためにプラヤーグに来ました。森の中を通っている間に、ナーラダは地面に横たわっている鳥を見ました。鳥は矢で射抜かれて半殺しになっており、あわれに鳴いていました。さらに、ナーラダは激痛に苦しんでばたばたしている鹿を見ました。さらに、彼はイノシシが苦しんでいるのを見て、それから別のところではウサギが痛みにひきつっているのを見ました。これらすべてのことが彼に強い同情心を引き起こしました。そして彼は考え始めました。「このような罪を犯した愚かしい者は誰だろう?」主の献身者は一般に生命体の悲惨さに対して同情的です。そして、偉大な賢人ナーラダであれば言うまでもありません。彼はこの光景に非常に悲しみ(aggrieved、悲しむ、憤慨する)、そして少し行くと彼は弓と矢を持って狩りをしている狩人を見ました。狩人の肌色は非常に黒く、彼の目は血走っていました。ヤマラージャ、「死」、の仲間のように見えて、彼が自分の弓と矢を持ってそこに立っているのを見るだけでさえ危険であるように見受けられました。彼を見て、ナーラダ・ムニは彼に近づくために森にさらに深く入りました。ナーラダ・ムニが森を通り抜けると、狩人のわなにかかっていたすべての動物たちは(訳注:ナーラダ・ムニが逃がしてやったので)逃げました。狩人はこれに対して非常に怒り、彼はいまにもナーラダをひどい名で呼びそうになりました(訳注:汚い言葉で罵る)。しかし、聖人的なナーラダの影響により、狩人はそのような侮辱を口にすることができませんでした。その代わり、丁寧な物腰で彼はナーラダに尋ねました。「旦那様、なぜあなたは私が狩りをしているときにここにいらしたのですか?あなたは普通の道から外れて迷われたのですか?あなたがここにいらしたので、私のわなにかかっていたすべての動物たちは逃げてしまいました。」

「そうです。すみません」とナーラダは答えました。「私は、自分自身の道を見つけ(to find my own path)、あなたに尋ねるために(and to inquire from you)来ました。(訳注:「私は迷ったのであなたに道を聞きに来ました」。実際は道に迷っていたわけではないが、あえて迷っている振りをしている。)私は道にたくさんのイノシシと鹿とウサギがいるのを見ました。彼らは森の地面に半殺しの状態で倒れてのたうちまわっています。誰がこれらの罪深い行いをしたのですか?」

「あなたがご覧になったことは、すべてそれで良いのです(all right)」と狩人は答えました。「それは私がしたことです。」

「もしあなたがこれらすべての気の毒な動物たちを狩っているのなら、なぜあなたは彼らを一時に(いちどきに)殺さないのですか?」とナーラダは尋ねました。「あなたは彼らを半殺しにします。そして彼らは、自分の死の激痛の中で苦しんでいます。これは大いなる罪です。もしもあなたが動物を殺したいなら、なぜあなたはそれを完全に殺さないのですか?なぜあなたはそれを半殺しの状態で放置し、のた打ち回りながら死ぬにまかせるのですか?」

「我が親愛なるご主人様」と狩人は答えました。「私の名前はムリガーリ、動物の敵です。私は単に、動物を半殺しにしてのたうち回るにまかせろと私に教えた、父の教えに従っているだけです。半殺しにされた動物が苦しむとき、私はそれに大いなる喜びを感じます。」

「私はあなたにただ一つのことだけを乞い願います」とナーラダは懇願しました。「どうかそれを受け入れてください。」

「おお、もちろんです、旦那様。私はあなたに何なりとお望みのものを差し上げましょう」と狩人は言いました。「もしあなたが動物の皮をお望みなら、私の家へおいでください。私はトラや鹿を含め、多くの動物の皮を持っています。私はあなたに何でもお好きなものを差し上げます。」

「私はそのようなものは欲しくありません」とナーラダは答えました。「しかし、私は他のものを望んでいます。もしもあなたが親切にもそれを叶えてくださるなら、私はあなたに言いましょう。どうか、明日からは、動物を殺すときはいつも、どうかそれを完全に殺してください。半殺しのままにしないでください。」

「我が親愛なる旦那様、あなたは私に何を求めていらっしゃるのですか?動物を半殺しにすることと、それを完全に殺すことの違いは何ですか?」

「もしもあなたが動物を半殺しにすれば、彼らは大いに苦しみます」とナーラダは説明しました。「そして、もしもあなたが他の生命体に過度の苦しみを与えるなら、あなたは大いなる罪を犯します。あなたが動物を完全に殺すときには大きな罪が生じますが、半殺しにするときには罪はもっと大きいのです。実に、あなたが半殺しの動物に与える苦しみは、来世においてあなたによって受け入れられなければなりません。」

狩人は非常に罪深かったのですが、彼の心は柔らかくなり、ナーラダのような偉大な献身者との関わりの力によって、彼は自分の罪を恐れるようになりました。はなはだしく罪深い者は、罪を犯すことを全く恐れていませんが、ここで私たちは、ナーラダのような偉大な献身者との関わりにおいて彼の浄化が始まったので、狩人が自分の罪深い行いを恐れるようになったのを見ることができます。したがって狩人は答えました。「我が親愛なる旦那様。ほんの子供のころから、私は動物をこうやって殺すように教えられました。どうか、どうしたら私はこれまで積み重ねたすべての罪と罪深い行いを捨てることができるかを教えてください。私はあなたの足元に服従します。どうか私を、私が過去に犯した罪深い行いのすべての反応から救ってください。そして、私が自由になれるように、私を正しい道へ導いてください。」

「もしもあなたが実際に私の教えに従いたいなら、私はそれによってあなたが罪深い反応から自由になる本当の道を教えます。」

「私は躊躇せずに何であれあなたがおっしゃることに従います」と狩人は同意しました。

それからナーラダは彼に、まず弓を壊すように言いました。そうして初めて彼は解放への道を教えるのです。

「あなたは私に弓を壊すようにとおっしゃいます」と狩人は抗議しました。「しかし、もしも私がそれを壊せば、私の生計の道は何になりますか?」

「あなたの生計について心配してはなりません」とナーラダは言いました。「私はあなたに生きるのに十分な穀物を送ります。」

それから狩人は弓を壊し、ナーラダの足元にひれ伏しました。ナーラダは彼を立たせ、彼に教えました。「家に帰り、あなたが持っているお金と価値のある物をすべて献身者とブラーマナに与えなさい。それから戻ってきて、単に一枚の服だけを着て私に従いなさい。川の土手に小さなわらぶきの家を建て、その家のそばにトゥラスィーの木(の種)を撒きなさい。(訳注:to sow、通常は「種を蒔く」という動作を表すが、この場合は苗木でしょうか?)トゥラスィーの木の周りを(儀式的に)歩き、毎日一枚の落ちた葉を味わいなさい。そして何よりも(above all)、いつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えなさい。あなたの生計に関して言えば、私はあなたに穀物を送ります。しかし、あなたは自分自身とあなたの妻に必要な穀物だけを受け入れます。」

ナーラダはそれから半殺しの動物たちを救い、そしてひどい状態から解放されて、彼らは逃げました。ナーラダがこの奇跡をなすのを見て、色の黒い狩人は驚きに打たれました。ナーラダを家に連れ帰った後、彼は再び彼の足元にひれ伏しました。

ナーラダは自分の場所に戻り、そして狩人は家に帰ったあとナーラダが彼に与えた教えを実行し始めました。その間、狩人が献身者になったという噂がすべての村々に広がりました。結果として、村の住人たちが新しいヴァイシュナヴァを見に来ました。聖なる人に会いに行くときは、穀物と果物を持っていくのがヴェーダの習慣なので、そしてすべての村人たちは狩人が偉大な献身者になったのを見たので、彼らは食べ物をたずさえて行きました。こうして毎日彼は穀物と果物を与えられました。とてもたくさんだったので、10人から20人の人々がそこで食べることができました。ナーラダの教えに従って、彼は自分と妻が生きるのに必要な分以上のものは、何も受け入れませんでした。

何日かした後(訳注:After some days had passed、この場合は現代の感覚の「数日」とは異なるでしょう)、ナーラダは自分の友人のパルヴァタ・ムニに言いました。「私には弟子がいます。彼に会いに行って、元気にしているか(doing well)見てみましょう。」

ナーラダとパルヴァタという二人の聖人が狩人の家に行ったとき、狩人は自分の霊的指導者が遠くから来るのを見て、大いなる敬意をもって彼に近づき始めました。偉大な賢人たちに挨拶をしに行く途中で、狩人は自分の前の地面にアリがいて、それが自分の行く道を妨げているのを見ました。賢人たちのもとに着いたとき、彼は彼らの前にひれ伏そうとしましたが、アリがたくさんいたので、それらをつぶさないでひれ伏すことができませんでした。そのため彼はゆっくりと自分の布でアリを追い払いました。狩人がこのようにアリの命を救おうとしているのを見たとき、ナーラダはスカンダ・プラーナの一節を思い出しました。「主の献身者が誰に対しても、アリに対してさえも何らの痛みも与える傾向がないのはすばらしいではありませんか?」

狩人はかつては動物を半殺しにすることに大いなる喜びを感じていましたが、主の偉大な献身者になったので、彼はアリにさえ痛みを与えるつもりがありませんでした。狩人は二人の賢人を自分の家に招きいれ、彼らに座るところを勧め、水を持ってきて彼らの足を洗い、飲み水を差し出し(took water to them to drink)、そして最後に彼と彼の妻は二人とも、自分たちの頭で水に触れました(訳注:touched the water with their heads、これはどういう仕草でしょうか?)。この後、彼らは恍惚を感じ始め、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を歌って踊り始めました。彼らは両腕を高く上げ、服を振り乱して踊りました。狩人の体の中にこの至高神への愛の恍惚感が顕現するのを二人の偉大な賢人たちが見たとき、パルヴァタ・ムニはナーラダに言いました。「あなたはタッチストーン(訳注:触れたものがすべて金になるという物質)です。あなたとの関わりによって、偉大な狩人でさえ偉大な献身者に変わったからです。」

スカンダ・プラーナには次のような節があります。「我が親愛なるデヴァルシ(ナーラダ)よ。あなたは栄光に溢れています。そして、あなたの慈悲によって、最も低い生物、すなわち動物を狩る者でさえもまた、献身の道に上げられ、クリシュナへの超越的な愛着に至りました。」

ようやく(At length)、ナーラダは狩人だった献身者に聞きました。「あなたは定期的に食べ物を得ていますか?」

「あなたは非常に多くの人を送ってくださいます」と狩人は答えました。「そして彼らは非常に多くの食べ物を持ってくるので、私たちはそれらを食べ始めることができません。」

「それはよろしい」とナーラダは答えました。「あなたが得ているものは、何であれ、それでよろしい。では、そのようにあなたの献身奉仕を続けなさい。」

ナーラダがこう言ったあと、ナーラダとパルヴァタ・ムニは狩人の家から消えました。主チャイタンニャは、狩人でさえ純粋な献身者の影響によってクリシュナへの献身奉仕に携わることができるということを示すために、この話を語られました。

アートマーラーマの節の説明を続けながら、主チャイタンニャは、アートマーという言葉は様々な種類の至高の人格神も指す、と指摘なさいました。一般に、至高の人格神ご自身であるクリシュナ、および主の様々な拡張体は、すべて至高の人格神として知られます。

至高の人格神のいかなる形、あるいは拡張体への献身奉仕にたずさわっている者もまた、アートマーラーマと呼ばれます。すべてのそのような献身者は、献身奉仕の規律的な原則に従っているか、あるいは超越的な愛における献身奉仕に携わっています。

これらの献身者もまた、以下のように3つの部類に分けられます。
1、(主の)仲間
2、献身奉仕において完成の域に達した者
3、新しく献身奉仕に携わった者

新しく献身奉仕に携わった者は、二つに分けられ得ます。既に主への愛着を得た者と、まだそのような愛着を得ていない者です。献身奉仕の二つの区分(つまり規律的なものと超越的な愛における愛着)に従って考えると、これらの部類の献身者は8つになります。献身の規律的な原則に従うことによって、主の完全な仲間はさらに4つの部類に分けられます。従者、友人、親のような目上の者、そして婚約者です。

ちょうど一部の献身者が献身奉仕の遂行によって完成に至るように、したがって彼ら(献身者)の一部は永遠に完璧です。(訳注:やや分かりにくい表現ですが、「一部が~であるように、別の一部は~である」という意味と思われます。)献身奉仕の規律的な原則に従う者の中には、上級者と初心者がいます。そして、主への超越的な愛情ある奉仕(をする者)の中には、16種類の献身者がいます。こうして、アートマーラーマは32の部類において存在すると考えられえます。もしも32の部類にムニ、ニルグランター、チャ、およびアピという言葉が当てはめられるなら、そうすれば58種の異なる献身者があります。森にはたくさんの異なる種類の木が生えているかもしれませんが、「木」という言葉はそれらすべてを描写します。

こうして主は、アートマーラーマという言葉に60の異なる意味を与えられました。さらに主は、アートマーは「最初の生命ある被造物ブラーマーからアリに至るまでの生命体」を意味する、とおっしゃいました。主は、ヴィシュヌ・プラーナの6章から1節を引用なさいました。そこには、主のすべてのエネルギーは霊的である、と述べられています。これはその通りですが、生命体の源として知られているエネルギーは霊的と呼ばれますが、もう一つのエネルギー、無明に溢れ、物質的な活動において顕現するエネルギーは、物質自然と呼ばれます。物質創造においてさえ、生命体は無数です。もしも偶然によって物質世界の生命体が純粋な献身者と関わることができるなら、彼はクリシュナへの純粋な献身奉仕に携わることができます。「かつて私はアートマーラーマという言葉の60の異なる意味を考えていました」と主はサナータナ・ゴスヴァーミーにおっしゃいました。「しかし、あなたとの関わりによって、もう一つの意味を思い出しました。」

アートマーラーマという言葉の様々な説明を聞いたあと、サナータナ・ゴスヴァーミーは驚きに打たれ、献身の念を込めて主チャイタンニャの足元にひれ伏しました。「私はあなたが至高の人格神のクリシュナであることを理解します」とサナータナは言いました。「そして、あなたの呼吸と共に多くのヴェーダ文献が顕現しました。あなたはシュリマッド・バーガヴァタムの教師であり、そしてあなたはシュリマッド・バーガヴァタムの意味を最もよくご存知です。他の人にとって、あなたの慈悲なくしてシュリマッド・バーガヴァタムの極秘の意味を理解することは可能ではありません。」

「そのように私を讃えようとしてはなりません」と主はサナータナにおっしゃいました。「ただシュリマッド・バーガヴァタムの本当の性質を理解しようとしなさい。シュリマッド・バーガヴァタムは至高主クリシュナの音による描写です。したがってシュリマッド・バーガヴァタムはクリシュナと異なるものではありません。クリシュナは無限であり、そして同様にシュリマッド・バーガヴァタムのそれぞれの言葉と文字は無限の意味を持っています。人はこれらの意味を献身者との関わりを通して理解することができます。それなら、バーガヴァタムは単に問いへの答えを集めたものだ、と言ってはなりません。」

ナイミシャーラニャの賢人たちによってスータ・ゴスヴァーミーに問われた6つの質問があり、そしてスータ・ゴスヴァーミーはシュリマッド・バーガヴァタムにおいて6つの問いを説明したり、あるいは答えたりなさいました。(訳注:explained or answered、「説明した、言い換えると回答した」とも取れますが、大した違いはありません。)ヴェーダ文献には、主シヴァが次のようにおっしゃる節があります。「バーガヴァタムに関して言えば、私はそれを知っているかもしれず、あるいはシャカデヴァまたはヴャーサデヴァが知っているかもしれません。あるいは私たちはそれを知らないかもしれません。しかし実際はバーガヴァタムは献身奉仕によって、そして献身者から理解されるべきものであって、人が自分の知性によって、あるいは学究的な解説によって理解されるべきものではありません。」シュリマッド・バーガヴァタムの初めで(1.1.23)、ナイミシャーラニャの賢人たちは尋ねました。

brūhi yogeśvare kṛṣṇe
  brahmaṇye dharma-varmaṇi
svāṁ kāṣṭhām adhunopete
  dharmaḥ kaṁ śaraṇaṁ gataḥ

「我が親愛なる師(sir)よ。どうか親切にも私たちに、主がご自分のお住まいにお帰りになった後で、宗教の原則が主と共に去ったのかどうかを教えてください。主がお去りになった後で、どうやって私たちはそのような原則を見つけることができるでしょう?」

答えは次のようなものでした(1.3.43)。

kṛṣṇe sva-dhāmopagate
  dharma-jñānādibhiḥ saha
kalau naṣṭa-dṛśām eṣa
  purāṇārko ’dhunoditaḥ

「クリシュナがすべての宗教的な原則と共にご自分のお住まいに去って行かれたあと、主の代理人であるシュリマッド・バーガヴァタム、マハー・プラーナが、燃え盛り、明るく照らす太陽として残ります。」

主チャイタンニャはそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに言いました。「私はこのアートマーラーマの節を非常に多くの方法で描写するうえで、ちょうど狂った人のようでした。私が何か狂ったことを言ったなら、気にしないでください。しかし、もしも誰かが私のように狂人になるなら、彼は私がそれを説明したようにシュリマッド・バーガヴァタムの本当の意味を理解することができます。」

それからサナータナ・ゴスヴァーミーは合掌して主チャイタンニャの足元にひれ伏して祈りました。「わが親愛なる主よ」と彼は言いました。「あなたは私に献身奉仕の規律的な原則を準備するように頼まれました。しかし私は低い階級に属しています。私は何の知識も持っていません。
わたしはどうやってそのような重要な課題が私によって達成されるのか分かりません(訳注;どうやって私が~を達成できるのか分かりません)。もしもあなたが親切にも私にそのような献身奉仕に関する本の準備についていくらかの手がかりを与えてくださるなら、私はそれを書く資格が得られるかもしれません。」

主はそれから、こう言って彼を祝福しました。「何であれあなたが書くことは、クリシュナの恵みによって、あなたの心から生じ、あなたが頼んだように受け入れられるでしょう(will be accepted as you requested)。私はまた、あなたが書き留めることのできるいくつかの注釈をあげます(訳注:「いくつか注釈をあげるので、書きとめてください」)。最初にして最も大切な点は、人は真正なる霊的指導者を受け入れるべきであるということです。それが霊的な人生の始まりです。」主チャイタンニャはそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに、本当のグルの徴候と本当の献身者の徴候を書き留めるように頼みました。献身者の徴候はパドマ・プラーナに描写されています。資格のあるブラーマナであり、同時に献身者のすべての徴候を持った者は、すべての階層の人々の霊的指導者になることができます。そのような献身者と霊的指導者は、神ご自身として尊重されなければなりません。人は非常にちゃんとしたブラーマナの家庭に生まれるかもしれませんが、もしも主の献身者でないなら、彼は真正な霊的指導者になることはできません。人は、真正なる霊的指導者はいわゆるブラーマナの家庭に生まれなければならない、と誤って考えるべきではありません。つまり、霊的指導者は資格のあるブラーマナでなければなりません。すなわち、彼はその活動によって資格を得なければなりません。

これは、ナーラダが社会生活の4つの区分を特徴づける異なる徴候について語ったとき、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて確認されています。ナーラダはそこで、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、およびシュードラは、それぞれの個々の資格によって選ばれなければならない、と要約しました。この解説において、シュリーダーラ・スヴァーミーは、ブラーマナの家庭に生を受けることは必ずしも人がブラーマナであるということを意味しない、と特筆しました。人はブラーマナの徴候によって資格を得ねばならず、その徴候はシャーストラにおいて描写されています。ゴーディーヤ・ヴィシュナヴァ・サムプラダーヤの師弟継承には、二人の偉大なアーチャーリャ(タークラ・ナロッタマおよびシャーマーナンダ・ゴスヴァーミー)がいます。彼らはブラーマナの家庭には生まれませんでしたが、ガンガーナーラーヤナ、ラマクリシュナなどを含む多くの有名なブラーマナによって霊的指導者として受け入れられました。

このように、見込みのある献身者がはっきりと表す徴候があり、そして献身者と霊的指導者の両者が、互いに互いが真正な霊的指導者あるいは真正な生徒になる資格があるかどうかを判断しなければなりません。それから人は、唯一の崇拝しうる対象は至高の人格神であると知るべきであり、そして人は様々な真言と聖なる歌を学ぶべきです。

主はそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに、真言を受け入れる資格のある人の徴候を描写するように、そして、真言がいかにして理解されるべきか、および真言がいかにして儀礼的な儀式によって完成させられるべきかを描写するように指示なさいました。それから主は、洗礼(initiation、入門の儀式)、朝の義務と清潔さの義務ーーー顔を洗うことと歯を磨くことーーー(および)仕事の方法と、朝晩の両方に唱えられるべき祈りを描写なさいました。(訳注;構文に多少の問題あり。祈りについては、朝に唱えるものと晩に唱えるもの、という別のものだと思われます。)主はまた、人がいかに霊的指導者を崇拝すべきか、そしていかに自分の体にゴピー・チャンダナで印をつけるべきかも描写なさいました。主はまた、人がいかにトゥラスィーの葉を集めるべきか、いかに部屋と主(クリシュナ)の寺院を洗うべきかを描写なさいました。そして主はまた、人がいかにクリシュナを眠りから目覚めさせるかを描写なさいました。主チャイタンニャはまた、主(クリシュナ)を崇拝するための様々な方法を描写なさいました。それは全部で5つある方法と、全部で50個ある方法です(the method of five-fold paraphernalia and fifty-fold paraphernalia)。主(チャイタンニャ)は、人がいかに主(クリシュナ)に一日に5回アーラティを捧げることによって主を崇拝すべきかを描写なさいました。そして主は、人がいかにクリシュナに食べ物を捧げ、いかに主を寝床に寝かしつけるべきかを描写なさいました。主チャイタンニャはまた、主(クリシュナ)の様々な寺院がある聖なる地へ行くこと、および寺院の中の主の姿を見ることの効果を語られました。主はまた、主(クリシュナ)の超越的な御名を讃えることについて、そして人が崇拝をしている間に犯し得る無礼について語られました。主の崇拝において、特定の道具一式が使われます。ほら貝、水、薫り高い花、祈り、聖歌などです。そして、儀礼的に何かの周りを回ることがあり、敬意を払うということもあります。人はプラシュチャラナの規律的な原則に従うべきであり、クリシュナに捧げられていない食べ物を退け、クリシュナ・プラサーダを受け入れるべきです。主チャイタンニャはまた、人は献身者の実際の徴候を持つ献身者を中傷することにふけるべきではないと警告なさいました。

主チャイタンニャはまた、聖なる人の徴候と、賢人を満足させる方法と、望ましくない人々の交際を退ける方法を説明なさいました。主はまた、人はシュリマッド・バーガヴァタムを絶えず聞くべきであると助言なさいました。同じく従われるべきであるのは、一日の義務と2週間の義務、ならびにエカーダーシの日の断食です。人はまた、月の義務に従い、主の誕生日、三つの特定の断食の日、エカーダシー、ジャンマースタミー、ヴァーマナドヴァーダシー、シュリー・ラーマナヴァミーおよびヌリスィムハチャトゥルダシーなどの儀式を行わなければなりません。断食の日が他の日(ヴィッダー)と重なるときは、それらは献身奉仕の発達において助けとなります。主チャイタンニャはさらに、サナータナ・ゴスヴァーミーに、常にプラーナからの文書的な証拠を挙げるように教えました。主はまた、いかにして主の寺院を建立するかに言及なさり、そして主は、ヴァイシュナヴァの一般的な振る舞い、徴候、そして義務と仕事(occupation)を描写なさいました。このように主は、ヴァイシュナヴァの規律的な原則について本を書くにあたって人が知る必要があるすべての詳細を要約して説明なさいました。

サナータナ・ゴスヴァーミーは主の偉大な献身者でした。そして彼は、多くの本を書くことによってバークティの礼拝形式(cult)を広めるように直接指示されました。チャイタンニャ・チャンドロダヤにサナータナの描写があり、そこにおいてサナータナ・ゴスヴァーミーはナワブ・フッサインの政府における最も重要な名士の一人だったと言及されています。彼の弟ルーパ・ゴスヴァーミーもまた、政府の役人でしたが、二人とも物乞いになって至高主に奉仕をするために、その実入りの多い政府の仕事を辞めました。外見上は、兄弟たちはちょうど普通の物乞いのようになりました。しかし、彼らの心はヴリンダーヴァンの牛飼いの少年への超越的な愛情ある奉仕と大いなる愛で満ちていました。実に、サナータナ・ゴスヴァーミーは当時のすべての純粋な献身者にとって愛しい(dear)存在でした。

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