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第20章

秋の様子

ブラランバースラが殺されたことや、クリシュナとバララーマが火事を飲み消した話で、ヴリンダーヴァン中が持ちきりです。牛飼いたちがこれらの話を妻や他の人々にも話すと、だれもが驚きの念を禁じることができませんでした。クリシュナとバララーマは実は神々だが、ヴリンダーヴァンの人々の子供となるために慈悲深くも降誕してくださったのだ、とヴリンダーヴァンの人々は話し合っていました。季節は移り、雨期の訪れの気配が感じられる頃となりました。夏の猛暑の後、インドの人々は雨期の訪れを待ちこがれています。空には雲がたなびき、太陽と月を覆います。雨の到来を感じさせる、その雲に人々は喜びを感じます。夏の後の雨期の訪れは、すべての者に生命力を与える源とされています。雷鳴が暴き稲妻が時折走ると、人々は心を楽しませます。

秋に私たちが目にすることのできる様々なものは、物曹自然の三様式に覆われた生命体にたとえることができます。無限の空は至上ブラフマンに、小さな生命体は雲に覆われた空つまり物質自然の三様式に覆われたブラフマンに、それぞれ似ています。本来、すべての生命体はブラフマンの一部分です。至上ブラフマンすなわち無限の空が雲に覆われることはありませんが、空の一部分が雲に覆われることはありえます。『バガヴァッド・ギーター』に記述されているように、全生命体はバガヴァーンの一部分です。しかし、生命体は至上主の取るに足らない一部分に過ぎません。この生命体という至上主の一部分は、物質自然によって覆われることもあります。ですから生命体の中には尋この物質界に住むものもあるのです。ブラフマジョーティすなわち精神的光輝はまさに太陽光線に似ています。太陽光線が極微小の輝く粒子で構成されているように、ブラフマジョーティもバガヴァーンの極微小の部分体で構成されています。至上主の無限の極微小拡張体の中には物質自然の影響下に入るものもありますし、またその影響を受けないものもあります。

太陽光線によって蒸発した水分は雲となります。八カ月間太陽は全地球から水分を蒸発させます。この水分が雲となり、必要な時にこの水分が雨として供給されるのです。同様に政府は国民から様々な税金を徴収します。農業、貿易、工業などの様々な物質的活動を行うことによって国民は税金を払います。このように、政府は収入税や売上税などを国民から徴収することができるのです。これは太陽が地上から水分を取るのに似ています。地上で水分が必要とされると、太陽光線が水分を雲に変えて地上全体に雨を降らせるのです。同様に政府が徴収した税金も教育、福祉、衛生保健などの形で国民に還元されなければなりません。良い政府にはこれが必要不可欠な条件です。政府は徴収した税金を徒に浪費してはなりません。税金は国家公共の福祉のために使われなければならないのです

雨期には強い風が吹き、そして雲が様々な場所に流されて雨を降らせます。夏が去り水が渇望されるころに早天の慈雨を降らせる雲は、必要とあれば自分の全財産をもなげうって富を分配する富豪に似ています。雲は地上全体に雨を分配し、自らは枯渇してしまうのです。

主ラーマチャンドラの父、マハーラージ・ダシャラタは、農民が不必要な雑木を伐採するように、敵を懲らしめました。ダシャラタが物を施す様子は雲が雨を降らせるようであった、と言われています。雲は分け隔てなしに雨を十分に降らせるので、その分配の様子は偉大で寛大な人物が富を配ることにたとえられます。雲は雨をふんだんに降らせます。水分が必要とされない岩や丘や海の上にさえも雨は降り注ぎます。自分の富をなげうって様々な物を施し、必要とする人々にもそうでない人々にも分け隔てなく富を与える慈善家に、雲は似ています。そのような人物は広い心で物を施1し..ま、●すc

雨か降らないと言大地はあたかもすべての力を失った不毛の地のようになってしまいます。雨が降ると、緑の草花に満ちた大地は力強く豊かな姿を現します。これは物質的な望みを満たすために謹厳な生活を行っている人々に似ています。雨期の後に大地が肥えるのは、物質的な望みがかなうことにたとえられます。国に望ましくない政治が行われると、様々な人々や政党がその政治を抑制するために様々な厳しい努力を行います。そしてその望ましくない政治を抑えたとき、それらの人々や政党は自らに十分な報酬を与えて繁栄を楽しみます。これもまた雨期の後に大地が肥えるのと似ています。実際には、苦行や謹厳生活は精神的な幸福を得るために行われるべきものです。至上主を悟るためだけに夕.ハスヤすなわち苦行を受け入れるようにと『シ『一リーマド・バーガヴァタム』は薦めています。献身奉仕の中で謹厳生活を受け入れることにより人は精神生活を回復することができ、精神生活を回復するやいなや人は無限の精神的至福を味わうことができるのです。しかし、物質的な利益のために苦行や謹厳生活を行う人には、一時的な結果だけしか与えられません。そのような一時的な結果を望むのは知性の乏しい人である、と『バガヴァッド・ギーター』に述べられています。

雨期には夕方になると、木の上やあちらこちらに蛍が飛び交います。蛍はあたかも小さなともし火のようです。しかし空には輝く星々や月が見られません。同様にカリの時代には無神論者や愚者たちが著しく目立つようになり、逆に精神的な解放のためにヴェーダの原則に実際にしたがう人々が目につかなくなります。カリ・ユガというこの時代は生命体にとって曇った季節とされています。この時代には物質文明が進歩し、その影響で真の知識が覆い隠されてしまいます。軽率な心的思索家や無神論者や、その他にも虚偽の宗教原則を作り上げる人々が蛍のように顕著になります。その一方、ヴェーダの原則や教典の教えに厳格にしたがう人々はこの時代の雲に覆われてしまいます。私たちは蛍をともし火とするのではなく、空に輝く太陽や月や星々から光を得るようにしなくてはなりません。蛍は闇夜に光を放つことができません。雨期であっても時には雲が切れて、月や星々や太陽か見えることもあります。同じようにこのカリ・『一ガにおいても時には利点もあります。ハレークリシュナ・マントラの唱名を配る主チャイタンニャのヴェーダ運動がその例です。真の光を求める真剣な人ならば心的思索家や無神論者に光を求めるのではなく、主チャイタンニャの運動から光を得るべきです蓬

最初の雨が降った後、雲間に雷鳴が暴き渡っているとき、学生が突然に書を読み始めるように、すべての蛙は突然鳴き始めます。一般に学生は早朝に起きるものとされています。学生は自分で起きるのではなく、寺院や教育施設の鐘に合わせて起床します。グルの命令によって学生たちはただちに起床し、朝の義務を終えた後に座ってヴェーダを学習し、そしてヴェーダのマントラを唱えます。だれもがカリ・ユガの闇の中で眠っていますが、しかし偉大なアーチャーリャは存在します。

そのようなアーチャIリャが呼びかけるときにのみ、人々はヴェーダを研究し真の知識を得ようとします。池や小川や湖は雨期には水で満たされますが、それ以外のときには乾いています。同じように物曹(的な人々は乾燥していますが、時に家や妻子に恵まれわずかの銀行預金を持ち、そのようないわゆる豊かな状態にあるとき、彼らは繁栄しているように見えます。しかし、しばらくすると彼らは小川や池のように干上がってしまいます。友人、家族、妻子との交際は砂漠の中の一滴の水である、と詩人のヴィッデャー・ハティは言いました。だれもが疑いなく喜びを求めています。しかし喜びは砂漠の中の一滴の水にたとえられるものなのです。砂漠でだれもが水を求めるように、だれもが幸福を求めています。砂漠にも水はもちろんありますが、もし一滴だけしかなければ、それはとるにたらない量に過ぎません。物質的な生活の中で私たちは幸福を求めています。しかし社会や友人や俗的な愛の中には私たちは単に一滴の水しか得ることができないのです。小川や湖や池は乾期に水に満たされることが決してありません。同じように、私たちは決して満足を得ることができないのです

雨が降ると、木々や草花は豊かな緑を呈します。時には緑の草を赤い虫か取り囲むこともあります。そして傘のような茸にその緑と赤があいまって、ちょうど人が突然裕福になったように、あたり一面が変化したようになります。農夫は自分の農地に作物が実るのを見て喜びますが、しかし超自然力の動きを常に理解できない資本家たちは価格競争の恐れのために喜ぶことができません。作物の過剰生産をさせないように、政府の中の資本家たちが農夫に対して制限を加えている国もあります。そのような資本家たちはすべての食物がバガヴァーンから授けられたものであることを知らないのです。王-.-・バフーナーン・ョ-・ヴィダダーティ・カーマーン」というヴェーダの教えによれば、バガヴァーンがこの創造界を維持していらっしゃいます。全生命体が必要とする物をバガヴァーンが供給していらっしゃるのです。人口が増加したとしても、人々に食物を供給するのは至上主の務めです。自分の利益が阻害される場合は特に、無神論者や愚者たちは食物が豊かに生産されることを好みません。

空を期ぶものも、陸を這うものも、水の中を泳ぐものも、雨期の間すべての生命体はちょうど主への超越的な愛情奉仕を行う者のように活気づけられます。クリシュナ意識国際協会の学生たちの中に、私たちはそのような例を実際に経験してきました。本来は美しい人格の様相を持っているにもかかわらず、学生になる前の彼らは薄汚れて見えました。クリシュナ意識の知識を持っていなかったために、彼らは薄汚れて惨めでした。クリシュナ意識を受け入れてからは彼らの健康状態も良くなり、そして規定原則を守ることにより彼らの体も輝きを取り戻しました。額にティラクを塗り、手に数珠を持ち、首に数珠を巻き、サフロン色の衣装を身にまとった彼らは、直接ヴァイクンタから来た人々のように見えます。

雨期には川が怒涛となって海に流れ込みます。その様子は、海を動揺させているかのようです。同様にョIガの神秘的プロセスにしたがっていても、精神生活の高い段階にいない人は性の衝動に動揺されます。しかし豪雨が降りつけても、高い峰は動くことがありません。同じように、高いクリシュナ意識を持つ人は困難に直面しても動揺することがありません。なぜなら精神的に高い段階にいる人は、いかなる人生の窮地も主の慈悲と受け入れるからです。このように、クリシュナ意識の人は精神王国に入るための完全な資格を持っているのです曇

雨期には人通りが途絶える道もあります。そのような道はやがて長い草に埋もれてしまいます。これはまさにヴェーダの教えによる浄化の方法を実践研究することを忘れてしまったブラーフマナに似ています。そのようなブラーフマナはマーャーという長い草に覆われてしまうのです。そのような状況に陥ってしまえば、人は本来の性質を忘れてしまい、自分がバガヴァーンの永遠の召使であるという事実を忘却の彼方に追いやってしまいます。季節毎にマーャーの草が大きくなります。それによって道を誤った人々は自分自身がマーャーによって創造されたものであると考え、精神生活を忘れ幻想に圧倒されるようになるのです。

雨期には、一群の雲から稲妻がきらめくと、瞬時に別の雲からまた稲妻が走り出ることがあります。この現象は情欲の強い女性が一人の男性に心を落ち着けることができないことにたとえられます。雲は立派な男性にたとえられます。なぜなら雲は雨を降らせ多くの人々に生きる糧を与えるからです。立派な男性もまた、家族や仕事の同僚などの多くの人々を支えています。残念なことに、そのように立派な男性の生活も妻の離婚によって乱されてしまいます。一家の主が乱されれば、家族全体が崩れます。子供は散り散りになり、仕事は休業せざるをえなくなります。万事休すとなってしまいます。ですから一人の夫と穏やかに暮らし、いかなる事があっても離婚しないことが、クリシュナ意識で向上することを望む女性に薦められています。人生の完成を達成するために、夫婦は性生活をコントロールし、心をクリシュナ意識に集中させるべきです。物質界では結局男性は女性を必要とし、女性には男性が必要です。男性と女性が結ばれたとき、男性も女性もクリシュナ意識で穏やかな生活をし、稲妻のように群から群を渡り歩くようなことはすべきでありません。

雲が雷鳴を発すると同時に、虹が現れることもあります。虹は弦を張っていない弓のように見えます。弓は両端を弦で結ばれて湾曲していますが、虹にそのような弦はありません。それでも弓は空に美しい姿を現します。同様にバガヴァーンがこの物質界にお現れになるとき、主は普通の人間のような姿でお現れになりますが、物質的な状況には依存されません。主の内的エネルギーは外的エネルギーの束縛を受けません。主はその内的エネルギーによってお現れになる、と『バガヴァッド・キーター』に述べられています。バガヴァーンは普通の生命体を束縛するものには束縛されません。雨期には、雲に覆われていた月の光が雲の合間から顔を出すこともあります。そのようなとき、雲の動きのために月が動いているように見えます。しかし実際には月は動きません。雲の動きのために、月が動いているような錯覚が生じたに過ぎないのです。同様に、様々な動きをする物質界と自分自身を同一視する者の精神的輝きは幻想によって覆われています。物曹〈的な活動に応じて自分自身が様々な生命環境の中を動いている、とそのような人は考えています。これは偽我意識によるものです。ちょうど月光と闇を隔てているものか雲であるように言精神存在と物曹{存在を隔てているものが偽我意識です。雨期になって最初に雲が現れたとき、雲の到来を見て孔雀は歓喜に満ちて踊り始めます。そのように踊る孔雀は、物質的な生き方に苦しんできた人々にたとえられます。そのような人々は、主に愛に満ちた献身奉仕を捧げている人々との交際を得ると、啓発を受けてまさに孔雀のように踊り始めます。このような例を私たちは実際に目にしてきました。私たちの学生は、クリシュナ意識に参加する以前は無味乾燥で陰気な生活をしていたのですが、献身者との交際を得て今は喜びに満ちた孔雀のように踊っています。

草花は大地から水を吸って成長します。同様に、謹厳生活を行う人は最初は乾燥しますが、謹厳生活を完成しその結果を得たときには、家族、社会、愛、家やその他の様々な感覚満足の中で人生を楽しみます。泥水や刺草に満ちている湖や川のほとりに、鶴や白鳥がいつまでもあてどなく歩いていることがあります。同様に、クリシュナ意識を持たない世帯者は、様々な苦難があるにもかかわらず物質的な生活をし続けるのです。世帯者生活を行うにしても、どのような生活をするにしても、クリシュナ意識でなければ完全な幸福を得ることはできません。世帯者であっても放棄階級者であっても、主への超越的愛情奉仕をいつも行い常に主チャイタンニャの聖なる御名を大声で唱えている人々との交際を得ることができるように、とシュリーラ・ナローッタマ・ダース・タークルは祈りました。物曹一的な人々にとって俗的な事柄はあまりも苦悩に満ちたものですが、クリシュナ意識の人にとってはすべてが喜びに満ちているのです。

車軸のような大雨に田畑の柵が破られることもあります。同様に、カリの時代における権威のない無神論的な伝道によってヴェーダの教えの柵が破られます。そして人々はしだいに無神論へと堕ちていきます。雨期には雲が風に流されて、雨を降らせます。人々はその雨を甘露のように待ちわびています。王や裕福な商人がヴェーダにしたがうブラーフマナたちに薦められて大きな供犠祭の中で布施をするとき、そのような富の分配もまた甘露に満ちたものです。ブラーフマナ、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラの人間社会の四区分は、協調の中で平安な暮らしをするために存在しているのです。供犠祭を行い富を平等に分配するヴェーダ的なブラーフマナが社会を導くとき、社会全体は平安と協調の中で繁栄します。

ヴリンダーヴアンの森は雨のために姿を変え、熟れたデーッ、マンゴー、ブラックベリーなどの果物に溢れています。バガヴァーン・主クリシュナは友人や主バララーマといっしょに森へ入って行き、新しい季節の雰囲気をお楽しみになりました。乳牛は新鮮な草を食べ元気になり、乳房には乳が満ちました。主クリシュナが乳牛たちをお呼びになりました。愛情に満ちて主のもとに駆け寄った牛の乳房からは乳が滴っています。ゴーヴァルダンの丘のそばの森をお歩きになって、主クリシュナは満足されました。ヤムナー川のほとりでは、すべての木の枝が蜜蜂の巣で飾られ、それらの巣からは蜜が滴っていました。ゴーヴァルダンの丘には多くの滝があり、その心地好い音が耳に届いてきます。丘の洞穴をご覧になりながら、主は滝の音をお聞きになっていらっしゃいます。雨期の終わりにさしかかり、秋の気配が感じられるころになると、特に雨の降る日にはクリシュナは友人たちと木の下や洞穴の中に腰を降ろし、熟れた果物を食べ、言葉を交わしながら楽しい一時を過ごされました。クリシュナとバララーマが一日中森にいらっしゃるときには、ヤショーダーとローヒニーはお二人に果物やスゥィートそしてヨーグルトと御飯を混ぜた食べ物をよく送ったものでした。クリシュナはそれらの食べ物をヤムナー川のほとりの石の上でお食べになりました。クリシュナはバララーマや友人たちと食べながら、牛をご覧になっていました。大きい乳房を持つ乳牛は立っているだけでも疲れそうでした。体をおろし草を食べて、牛も楽しく時を過ごしていました。クリシュナは乳牛たちが喜んでいるのを見てお喜びになりました。ヴリンダーヴァンの森の美しさは主のエネルギーの現れに過ぎなかったのですが、主はその美しさを見て誇らしく思われました。雨期の間に見られる美しい自然の様相をクリシ『一ナはよく称えられました。『バガヴァッド・ギーター」に記述されているように、物曹王ネルギーすなわち物質自然は独立して動くのではありません。自然はクリシュナの監督のもとに動いているのです。『ブラフマ・サンヒター』にも記述されていますが寒・ドゥルガーと呼ばれる物質自然はクリシュナの影として作用します。物質自然はクリシュナのいかなる命令にもしたがいます。ですから、雨期の後の自然の美はクリシュナの指示によって創造されたものなのです。秋の訪れとともにすべての泉は清らかさを増し、人々に大きな喜びをもたらしました。爽やかな風もそよいでいます。空に一片の雲もなく、空はもとの青さを取り戻しました。ヴリンダーヴァンの森の清らかな水に映える蓮華の花は、あたかもョ-ガから堕落した人が精神生活を再び得て、美を取り戻したかのようです。

秋の到来とともに、すべては自然美を取り戻します。同じようにクリシュナ意識と精神生活を受け入れた物曹一的な人も、秋の空や湖のように清らかになります。秋には、空に渦巻く黒雲や地に満ちた汚水は姿を消します。そして地面の猿れも清められます。同じように、クリシュナ意識を受け入れた人は内的にも外的にもすべての減れが取り除かれます。ですからクリシュナはハリとも呼ばれています。ハリとは「取り去る御方」という意味です。クリシュナ意識を受け入れた、いかなる人のどのような稜れも、クリシュナは取り除いてくださいます。水分を含んでいないために、秋の雲は白い色をしています。同じように、引退した人は家族や妻子を養う義務から解放されて、クリシュナ意識を受け入れ、すべての不安から解き放たれ、秋の雲のように白くなります。秋には、滝が現れて清らかな水を落とすこともあります。また滝の水が途絶えることもあります。同じように、偉大な聖者は清らかな知識を伝えることもあり、また何も語らないこともあります

秋の到来とともに、すべては自然美を取り戻します。同じようにクリシュナ意識と精神生活を受け入れた物曹一的な人も、秋の空や湖のように清らかになります。秋には、空に渦巻く黒雲や地に満ちた汚水は姿を消します。そして地面の猿れも清められます。同じように、クリシュナ意識を受け入れた人は内的にも外的にもすべての減れが取り除かれます。ですからクリシュナはハリとも呼ばれています。ハリとは「取り去る御方」という意味です。クリシュナ意識を受け入れた、いかなる人のどのような稜れも、クリシュナは取り除いてくださいます。水分を含んでいないために、秋の雲は白い色をしています。同じように、引退した人は家族や妻子を養う義務から解放されて、クリシュナ意識を受け入れ、すべての不安から解き放たれ、秋の雲のように白くなります。秋には、滝が現れて清らかな水を落とすこともあります。また滝の水が途絶えることもあります。同じように、偉大な聖者は清らかな知識を伝えることもあり、また何も語らないこともあります。小さな池は雨期には水に満ちていますが、秋になるとしだいに干上がります。物質に束縛された人々が日毎に自分の寿命が減っているのに気づかないように、そのような小さな池に住む小さな生き物は、仲間が日に日に減っていくことに気がつきません。牛や所有物、家族や妻子や友人との関係を維持することにそのような人々はかまけています。水が減り、日が照りつけるために、小さな池に住む小さな生き物は大きな責苦にさいなまれます。その様子は、あたかも自制できない人が生活も楽しめず、そして家族も維持できずに常に不幸であるのと似ています。ぬかるみの士は秋にはしだいに乾き始め、新しく生えた新鮮な野菜も枯れ始めます。同じように、クリシュナ意識を受け入れた人にとっては、家族生活を楽しみたいという欲望がしだいに枯渇します。

自己の悟りを得た人がもはや物質自然の三様式に乱されないように、秋の訪れとともに海は凪ぎ、穏やかな表情を現します。秋、農夫は水が溢れないように田畑に柵を作り、田畑に水を蓄えます。これ以後雨が降ることはほとんど期待できないので、農夫たちは田畑に水を蓄えなければならないのです。同じように自己の悟りの高い段階にいる人は、感覚を支配することによって自分のエネルギーを保存します。五十才になった人は家族生活から退いて、クリシュナ意識を向上させることができるようにエネルギーを保つことが薦められています。感覚を支配せず、感覚をムクンダの超越的愛の奉仕に使うことができない人には、解放を達成することは不可能です。

秋の昼には強い陽光が照ります。しかし夜になると涼しい月光がさすために、人々は一日の疲れから救われます。自分自身が体であるという誤った概念に疲れた人々は、ムクンダすなわちクリシュナに保護を求めることによって、その苦しみから救われます。ムクンダすなわちクリシュナはヴリンダーヴァンの乙女たちの苦しみも和らげられました。ヴラジャブーミの乙女たちはクリシュナといっしょにいることができず、辛い思いにいつも耐えていました。秋の月夜のクリシュナとの逢瀬に、別れの苦しみに疲れていた彼女たちも辛さを忘れました。晴れた夜空には星々が美しく輝きます。同じように、クリシュナ意識の人はすべての機れから解放され、秋の夜空の星々のように美しく輝きます。ヴェーダには供犠を捧げるという形でカルマが規定されています。しかしヴェーダの究極的な目的は『バガヴァッド・ギーター』に記述されています。私たちはヴェーダの目的を完全に理解して、クリシュナ意識を受け入れなければなりません。ですから、クリシュナ意識の献身者の持つ清らかなハートは秋の夜空の星々にたとえられています。秋には、冴え渡った空に輝く星々とともに、月がひときわ明るく見えます。主クリシュナ御自身がヤドゥ王家の空にお現れになりました。月が星々に囲まれているように、主はヤドゥ王家の人々に囲まれた月のようでいらっしゃいました。森の花園で花が咲きほこるとき、厳しい夏や雨期に耐えてきた人々は、そのかぐわしいそよ風に疲れを癒します。しかし言ゴーピーたちのハートはそのようなそよ風にも慰められませんでした。なぜなら、ゴーピーたちのハートはただクリシュナだけに捧げられていたからです。普通の人々なら秋のそよ風を喜んだかも知れませんが、ゴーピーたちはクリシュナに抱きしめてもらえず、そのそよ風にも彼女たちの心は喜びませんでした。

秋の訪れとともに、牛、鹿、烏などすべての雌は身篭もります。秋になると、雄が発情期を迎えるからです。これはまさに超越主義者が至上主の恩寵によって人生の完成を達成するのと似ています。人は大きな熱意、忍耐、確信を持って規定原則にしたがい、物曹〈の穂れを寄せつけぬように自らを保ち、そして献身者との交際を持つべきである、とシュリーラ・ルーパ・ゴースワーミーは『ウ.ハデーシャームリタ』の中で教えています。これらにしたがう人々は、待望する献身奉仕の結果を得ることができます。献身奉仕の規定原則に厳格にしたがう人には、やがて待ち望む結果が与えられる時が訪れます。ちょうど女性が結婚して身重になってから子供を生むことができるのと同じです

秋には百合が咲かないために、湖には蓮華の花が咲きほこります。百合も蓮の花も太陽の光で大きくなるのですが、秋の強い陽の光の中では蓮華の花だけが成長します。王や政府が強力なために盗賊や強盗のような悪党が暗躍できない国を、この百合と蓮華の例は比職しています。盗賊や強盗の危険がない状態の中て国家は満足な発展を遂げることができます。強力な政府は秋の強い日差しにたとえられます。百合は盗賊などの望ましくない者たちにたとえられます。蓮華はそのような政府の下にある満足した国民に相当します。秋の大地は穀物を実らせます。そのとき人々は収穫を喜び、新しい穀物をバガヴァーンに捧げるナーヴァンナのような様々な式祭を催します。多くの寺院では新しい穀物がまず最初に神像に捧げられ、だれもが招待されその穀物で作られたスゥィート・ライスを食べます。その他に様々な宗教儀式や崇拝が行われ、特にベンガル地方ではそのような式祭の中で最大の規模をほこるドゥルガー・プージャーが催されます。

そのときヴリンダーヴァンにはバガヴァーン・クリシュナとバララーマがいらっしゃったので、秋の様子がひときわ美しさを増しました。秋になると、商人、王、偉大な聖者などの人々は自分の目的地に向かって旅立つことができます。同じように、超越主義者も物曹あ体の束縛から解放されると侍望の目的地に向かいます。雨期には商人は旅をすることができず、利益を得ることができません。王も人々から税金を徴収するために国内を巡ることができません。超越的知識を説くために旅をすべき聖者たちも、雨期のために旅をすることができません。しかし秋には、そのような人々も自由に旅立つことができるようになります。ジ『三ヤーニーもョ-ギーも献身者も、超越主義者は物質的体のために精神的完成を達成することができません。しかし、体から離れると、ジュニャーニーは至上主の精神的光輝に没入し、ヨーギーは様々な高位の惑星に移住し、献身者は至上主の惑星ゴーローカ・ヴリンダーヴァンやヴァイクンタに移り永遠の精神生活を楽しむのです。

以上『クリシュナ」第二十章一秋の様子」に関する寺ハクティヴェーダンタ解説終了。

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