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第88章

主シヴァの解放 

マハーラージ・パリークシットはクリシュナの偉大な献身者で、すでに解放の段階に 達していたのですが、シュカデーヴァ・ゴースワーミーに数多くの質問をしています。 それは知らないからではなく、様々な点をより明らかにするためです。第八十六章では、 パリークシット王が「ヴェーダの最終的な目的は何か」と尋ねると、シュカデーヴァ・ゴー スワーミーは、サナンダナから始まりナーラーヤン・リシ、ナーラダ、ヴィヤーサデーヴァ からシュカデーヴァ・ゴースワーミー自身へとつながる師弟継承の権威にしたがって、 バクティ(献身奉仕)こそがヴェーダの最終的目的であると結論しました・初心の献身 者はそれを聞くと玉日通、主シヴァの献身者は非常に裕福だが、主ヴィシュヌの献身者 はあまり物質的には豊かでないことが多い・人生とヴェーダの究極的な目標が献身奉 仕を行なうことなら、どうしてそのようなことが起こるのだろうか」と尋ねることでしょ う。それを明らかにするためにマハーラージ・パリークシットはシュカデーヴァ・ゴー スワーミーに尋ねました。 デーヴァ 「親愛なるシュカデーヴァ・ゴースワーミ-よ、主シヴァの崇拝者は、人間であれ神々 まず や悪魔であれ、一般に裕福なのですが、主シヴァ自身はたいへん貧しい暮らしをしてい ます。一方、幸運の女神の夫である主ヴィシュヌの献身者はあまり豊かではありません。むしろ、時には物質的な富がまったくない場合もあります。主シヴァは木の下やヒマラ ヤの山々の雪の中に住み、自分の家は建てようともしません。しかしながら、その崇拝 者は大きな富を持っています。主クリシュナや主ヴィシュヌは、ヴァイクンタでも、そ してまた、物質界でも、非常に豊かな暮らしをしていらっしゃるのですが、その献身者 はたいへん質素な生活をしています。これはなぜでしょうか」 

マハーラージ・パリークシットの質問は非常に知的なものです。献身者には、主シヴァ こと の献身者と主ヴイシュヌの献身者という二種類があって、両者はいつも意見を異にし ています。インドでは現代でもこの二種類の献身者が互いに批判し合っていて、特に南 インドでは、ラーマーヌジャーチャーリャの信奉者とシャンカラーチャーリャの信奉 者がヴェーダの最終結論について時々議論し合っています。一般に、ラーマーヌジャー チャーリャの信奉者が議論に勝ちます。ですから、マハーラージ・パリークシットはシュ カデーヴァ・ゴースワーミーに質問することによって、この状況を明らかにしようとし ているのです。貧しい生活をしている主シヴァの献身者が、豊かな暮らしをし、いつも せきひんあら 豊かな暮らしをしている主クリシュナ(主ヴィシュヌ)の献身者が、赤貧洗うが如き生 ふんべつ 活に甘んじています。これは分別ある人にとっては矛盾に満ちた謎に思えることでしよう。

シュカデーヴァ・ゴースワーミーはその問いに答えるにあたって、主シヴァが全物質 エネルギーの支配者であることを話しました。物質エネルギーは女神ドゥルガーの現 われです。ドゥルガーの夫が主シヴァであり、ドゥルガーは完全に主シヴァの支配下に います。したがって、主シヴァは徳・激情・無知という物質エネルギーの三様式の支配者 とされています。主シヴァが三様式に関わっているのは束縛された魂に恩恵を授ける つかさど ためです。主シヴァ自身は三様式を司る立場にあり、それらに影響されることはありま せん・束縛された魂は三様式の影響を受けますが、三様式の支配者である主シヴァはそ の限りではありません。 

愚かな人々は神々の崇拝も、主ヴィシュヌの崇拝も、結果は同じだと考えていますが、 それは誤りです。シュカデーヴァ・ゴースワーミーの言葉に明らかにされているように、 主シヴァの崇拝と主ヴィシュヌの崇拝は、結果がまったく異なります。『バガヴァッド・ デーヴァ デーヴア ギーター』に述、へられているように、神々の崇拝者はその神々が授け得る恩恵しか得る ことができません。同じように、物質エネルギーの崇拝者も、ピターの崇拝者も、それな りの結果しか手に入りません。しかし、献身奉仕を行なって至上主ヴイシュヌやクリシュ ナを崇拝する人は、ヴァイクンタ惑星やクリシュナローカに達します。主シヴァや主ブ デーヴア ラフマーなど、他の神々の崇拝によって、超越的領域であるパラヴイョーマ(精神空間)に到達することは不可能です。 

物質界は物質自然の三様式の産物なので、いかなる物質もこの三様式から現われ出 たものです。現代文明は物質科学の力によって様々な機械を製造し、快適な状況を生み 出しましたが、それらはすべて、物質自然の三様式が様々な形で相互作用したものにす ぎません・主シヴァの献身者は物質的な富を豊富に手に入れることができるのですが、 しかしながら、いかに富を積み上げたとしても、単に物質自然の三様式の産物を集めて いるにすぎません・三様式はさらに十の感覚器官(五つの運動感覚と五つの知覚感覚)、 こころ 思惟、五要素(土、水、火、空気、空間)の十六項目に分類されます。これらの十六項目は三 こころ 様式から現れたものです。物質的な幸福や富とは感覚(特に生殖器、舌、思惟)を満足さ こころ せることです。私たちは思惟を働かせることによって、舌と生殖器を喜ばせようと様々 めぐ な想いを巡らせます。物質界に住む人にとって、富とは、生殖器と舌をいかに利用する かです。どれだけ性的能力を行使するか、どれだけ美味な料理を食べて「洗練された」舌 こころ を満足させるかが「富」なのです。物質文明の発達とは、人間の思惟を使って生殖器と舌 の快楽を作り出すことに他なりません・主シヴァの崇拝者が富を得るのはなぜか、とい うマハーラージ・パリークシットの質問に対するシュカデーヴァ・ゴースワーミーの解 答がそこにあります。

主シヴァの献身者が持つ富は物質自然の三様式の領域における富でしかありませ ん。そのような物質文明の発達は、ただ人を物質界に縛り付けるだけです。それは進歩 ではなく、むしろ堕落です。主シヴァは三様式の支配者であり、その献身者は感覚満足 のために三様式の相互作用による産物を手にしているにすぎません。しかし『バガヴァッ ド・ギーター』での主クリシュナの教えによれば、私たちは三様式を超越しなければな らないのです。人間生活の使命は三様式を超越することです。ニストライグンニャ(三 様式を超越した段階)に達しない限り、物質の束縛から自由になることはできません。 つまり、主シヴァからは「富」の恩恵が得られますが、それは束縛された魂にとって真の 恩恵ではないのです。 

さらに、シュカデーヴァ・ゴースワーミーは「バガヴァーン・ハリは物質自然の三様式 を超越している」と語っています。『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、 主に服従する者は、誰もが物質自然の三様式の支配を超越することができます。主ハリ の献身者が物質自然の様式に縛られないので、主自身が超越者でいらっしゃることに 疑いの余地はありません。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、主ハリすなわち主ク うた リシュナこそが根源者バガヴァーンなりと躯われています。プラクリティ三ネルギー) には内的エネルギーと外的エネルギーという二種類があり、主クリシュナはその両者の支配者でいらっしゃいます。(一まりサルヴァ・ドリクとして外的・内的エネルギーの すべての作用を監督し、またウパドラスターとして至上の忠告者でいらっしゃいます。 デーヴァ デーヴァ 主は至上の忠告者としてす、へての神々を監督するお方で、神々は主の教えにただした がうべき立場にあります。したがって、至上主の教えに直接したがうならば『バガヴァッ ド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』で繰り返されているように、しだいに ニルグナ(物質的な質を超越した状態)に到達することができるようになります。ニル グナとは、物質的な富がまったくないという意味です。なぜなら、すでに述べたように、 物質的な富を持つということは物質の三様式の作用と反作用が増加することを意味す るからです。バガヴァーンを崇拝するならば、物質的な富を持っているがゆえの思い上 はぐく がりを捨て、クリシュナ意識の知識を育むことができます。ニルグナになるならば、永 遠の平安・宗教性・知識を得て、恐れがなくなり、そして物質的な執着が減っていきます。 けが 物質的な様式の汚れから解放されていくのです。 

シュカデーヴァ・ゴースワーミーはマハーラージ・パリークシットの質問に答えるに あたって、彼の祖父であるユディシュティラ王が大供儀祭場でアシユヴァメーダ・ヤジュ ニャを終わらせた後、偉大な権威者たちに「主シヴァの献身者が物質的な富を得るのに 対し、主ヴィシュヌの献身者はなぜそうでないのか」とまさに同じ質問をしたことを語
りました・シュカデーヴァ・ゴースワーミーはユディシュティラ王を特にラハーラー ジ・パリークシットの祖父」と呼びました。それはパリークシット王が自分とクリシュ ナとの関係を知り、自分の祖父がバガヴァーンと親密な関係を持っていたことを思い 出させるためでした。 

クリシュナはもともと常に喜びに満ちたお方でいらっしゃいますが、マハーラージ・ ュディシュティラがこのように尋ねると、さらに満足されました。なぜなら、その質疑 応答がクリシュナ意識の社会全体に非常に重要な意義を持つものだったからです。主 クリシュナが特定の献身者にお話しになるのは、それはただ特定の個人に向けられた ものではなく、人間社会全体に対するお言葉なのです。バガヴァーンの教えは主ブラフ デーヴァ マーや主シヴァなどの神々に対してさえ重要な意味を持つものです。バガヴァーンは すべての生命体に恩恵を授けることを使命として物質界に降誕されたので、その教え の恩恵に浴すことのできない人は、疑いなく不幸な人です。 

主クリシュナはマハーラージ・ユディシュティラの質問に対して「特に愛する献身者 に対して、私が特別の恩恵を授ける時は、まずその富をすべて取り去る」とお答えにな せきひんあらおちい りました。献身者が赤貧洗うが如き生活に陥ると、その家族や親戚は自然に遠のくよう になり、ほとんどの場合は、縁を切ってしまいます。すると、献身者は二重の不幸を味わいます。まず第一にクリシュナによって富がすべて奪い去られたがゆえの不幸を味わ い、次に、極貧の生活の中で家族や親戚に見捨てられた苦しみにさいなまれるのです。 ふけいけん しかし、献身者がこのような逆境に立たされるのは、カルマパラ(過去の不敬虐な活動 の結果)によるものではありません。そのことは忘れてはなりません。献身者が貧しい お‘らい 生活に陥るのは、バガヴァーンの計画によるものです。同じように、献身者が物質的な けいけん 富を獲得することも、過去の敬虐な行ないによるものではありません。いずれにせよ、 献身者が富を獲得しても失っても、それはバガヴァーンの計画です。献身者が完全にク リシュナに依存し、物質的な人間関係から完全に自由になれるように導くための配慮 こころ なのです。すると献身者は自分の力、思惟、体、すなわち自分のすべてを主の奉仕のため に使うようになります。それが純粋な献身奉仕です。『ナーラダ・パンチャラートラ』で は、すゃへての称号から解放されることが説明されています。家族、社会、地域、国家や人 類のために行なう活動は、すべて「私はこの社会に属する」、「私はこの地域に属する」、 もと おん 「これが私の国だ」、「これが私の種族だ」などの称号に基づくものにすぎません・主の恩 ちよ』7 寵によって、これらすべての称号から自由になった時、献身奉仕はナイシュカルマとな ります。ジュニャーニーはナイシュカルマ状態に大きな関心を持っています。その状態 に達した者の活動には、物質的な反動がまったくなくなるからです。献身者の活動に反動がなくなる時電その活動はカルマパラ(果報的活動)の範囲外のものとなります。ヴェー ダ権化たちがすでに説明したように、献身者は幸・不幸がバガヴァーンから授けられた ものだと知っているので、自分の幸福や不幸に気を取られることなく、ただ献身奉仕の は 義務を果たし続けます。献身者の活動が果報的活動の作用と反作用に影響されている ように見えたとしても、実際にはまったく左右されることはないのです。 

ガヴァーンがなぜ献身者を苦しめるのだろうか、と疑問を持つ人もいるかも知れ つ(b ません・しかし、主のそのようなふるまいは、ちょうど父親が息子に辛くあたるのと同 じです。献身者は服従した魂として、至上主の支配下にあります。したがって、主の配慮 によって献身者が、逆境であれ順境であれ、いかなる状況にあったとしても、その背後 にはバガヴァーンの大きな計画が存在するのです。たとえば、パーンダヴァが立たされ ひつぜつ た逆境は筆舌に尽くせないものであり、父祖ビーシュマでさえも、なぜそのようなこと けいけん が起こるのか理解できないほどでした。パーンダヴァ家は最も敬虐な王であるマハー ひき ラージ・ユディシュティラに率いられ、ビーマとアルジュナという偉大な戦士に守られ ていたばかりか、主クリシュナの親友・親戚でもあったのです。それにもかかわらず、彼 らが筆舌に尽くせぬ苦しみを余儀なくされていたので、ビーシュマの悲嘆は一層大き なものでした。しかしながら、後で明らかになったように、この一連の出来事はバガヴァーン自身の計画であり、悪魔を滅ぼし献身者を保護するという、主の使命を遂行す るためのものだったのです。 

幸・不幸は、献身者にとっては主の意志によるものであり、普通の人にとっては、自分 の過去の活動の結果によるものです。すると、両者とも幸・不幸を経験するのだから、違 いはないのではないか、と尋ねる人もいるかも知れません。違いがないなら、どうして すぐ 普通のカルミーより献身者のほうが優れていると言えるのでしょうか。それに対して は、カルミーと献身者はまったく違った段階にあると答えることができます。カルミー はどのような状況にあったとしても、カルマの種(果報的活動)があって、それは機が熟 すと芽を出します。そのために誕生と死が繰り返されます。一般の人々がカルマの法則 によって生と死を繰り返すのに対し、献身者の喜びと悲しみはカルマの法則によるも のではありません。それは、バガヴァーンの見えない手によって、献身者が一時的にそ の状況に置かれたにすぎず、決して束縛を与えるものではありません。ただ一時的な目 けいけん 的のために、主によって計画されたものなのです。カルミーは、敬虐な活動を行なえば お 天界の惑星に昇り、不敬度な活動をすれば地獄に堕とされます。しかし献身者は、いわ お ゆる敬度な活動や不敬度な活動を行なったとしても、天界にも昇らず、地獄にも堕ちま せん。ただ、精神王国に行くだけです。したがって、献身者の経験する幸’不幸とカルミーのそれは、まったく異なる段階にあるものです。この事実は、アジャーミラが解放を達 成した時にヤマラージが召使たちに語った教えの中で、詳しく説明されています。その 時、ヤマラージは召使たちに、主の聖なる御名を口にしたことがない者や主の姿・質・遊 ラー 戯を想ったことがない者だけにしか近づいてはならないと説きました。そして、献身者 に近づいてはならないと教えたばかりかfもし会った際には尊敬の礼を捧げるように お 命じたのです。したがって献身者は、この物質界で昇りもせず、堕ちもしません・母から しっせき ちょうばつ の叱責と敵からの懲罰が似ても似つかないのと同じで、献身者の苦は一般のカルミー の苦とはまったく別のものです。 

もし主が全能なら、献身者を矯正するにあたって苦しみを与える以外に方法はない のだろうか、と疑問に思う人もいることでしょう。その回答は、主は特定の目的を持っ て献身者を逆境に立たされる、という点にあります。たとえば、主に対する惜別の情を より一層大きくさせるために、献身者が苦しい状況に置かれる場合があります。その例 として、クリシュナがパーンダヴァの都を出発し主の宮殿にお向かいになる際に、クン い‐とまご ティーに暇乞いをされた時の出来事をあげることができます。その時、クンテイーデー いし」 ヴィーは「愛しいクリシュナよ、苦しい時はいつも一緒にいてくださる御身が、私たち た が王となった今、お発ちになってしまいます。御身とお別れするくらいなら、苦しみの中で暮らしとうございます」と語っています。献身者は苦しい時にはさらに献身奉仕に はげ 励みます。主は、このように特別の恩恵を授けるために、献身者を苦しみの中に置かれ るのです。また苦さをなめた者には幸福の甘さがひときわ増すと言われます。至上主は 献身者を苦しみから救うためにこの世界に降誕されるので、献身者が苦しんでいない みずか 限り、主はこの世界に降りておいでにはなりません。悪魔や悪人を殺すために、主自ら が動く必要はありません。主の外的エネルギーであるドゥルガーが数多くの悪魔を殺 したように、主のエネルギーは悪魔たちを難無く滅ぼすことができます。悪魔を殺すた みずか めに主が降りて来る必要はありませんが、献身者が苦しんでいる時には、主自らが降り て来なければならないのです。主ヌリシンハデーヴァはヒランニャカシプを殺すため ではなく、プララーダ・マハーラージに会って祝福を授けるために降りていらっしゃい ました。つまりプララーダ・マハーラージが大きな苦境に立たされていたために、主が お現われになったのです。 

闇に包まれた夜が終わり、ついに朝日が昇ると、たへいん快いものです。灼熱の太陽 い が照る下では冷水が快く、凍てつく寒さの中では温水が有り難く感じられます。同じよ うに、献身者が物質界の状況を経験した後に、主から精神的な幸福を授かれば、その喜 びはひときわです。 

主はさらに-私の献身者が物質的な富をすべて失陀親戚・友人・家族から見放された 時、彼を守る者は誰一人としてなくなり、私の蓮華の御足に保護を求めるしかなくなる」 とおっしゃいました。シュリーラ・ナローッタマ・ダース・タークルはこれに関して、「親 愛なる主よ、おおナンダ・マハーラージの息子よ、今御身はヴリシャバーヌ王の娘シュ リーマティー・ラーダーラーニlとともに私の御前に立っていらっしやいます。御身に 服従致します。どうか、私をお受け入れください。どうか、私を見過ごさないでください。 私には御身の他に頼るものがございません」と歌っています。 

いわゆる逆境に立たされ富や友を失ってしまった時、献身者は何とかして失った富 を取り戻そうとします。しかし、何度取り戻したとしてもクリシュナがまた奪い去られ るのです。献身者は物質界に絶望してしまい、何をやっても挫折する中で、ついにバガ ヴァーンに完全服従するようになります。主はそのような献身者に対し、他の献身者と おの 交際するように内面から忠告されます。献身者と交際することによって、自ずとバガ はぐく ヴァーンに仕えるようになり、そしてクリシュナ意識を育むための様々な導きが主か たくわ ら授けられるのです。しかし、非献身者は物質的な富を蓄えることにしか関心がありま せん。一般に、彼らはバガヴァーンを崇拝しようとはしませんが、すぐに物質的な恩恵 を得るためなら、主シヴァなどの神々を崇拝することを決してためらいません。『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、カルミーは物質界で成功するために様々 デーヴァ な神々を崇拝します。それだけではなく、主は神々を崇拝する者の知性が劣っているこ とを説いていらっしやいます。したがって、主に強く惹付けられている献身者は愚か者 とは異なり、決して神々のもとに近づこうとはしません。 

主クリシュナは1デイシュティラ王に、「私の献身者は逆境に立たされたからといっ て決して進歩を止めない。常に道からそれず、乱されない・私はそのような献身者に自 おんちょう 分自身を授ける。私の恩寵によって、彼らは人生の完成を達成することができるのだ」 とおつしやいました。努力を怠らない献身者に対して主がお授けになる慈悲は、ブラフ マンです。ブラフマンとは「無限広大」を意味し、主の慈悲がすべての場に遍在するブラ フマンの光輝に匹敵するほど偉大であることを示しています。また、主の慈悲はパラマ です。なぜなら、物質界で比類のないものだからです。また、スークシュマン(「非常に素 晴らしい」の意)でもあります。主が真剣な献身者にお授けになる慈悲は偉大であり、無 限に広がり続けるばかりではありません。それは献身者と主の間で交換される超越的 な愛の最も素晴らしい質なのです。主の慈悲はさらにチン・マートラン(完全に精神的) とも言われます。ここで用いられているマートランという語は、物質的な質にまったく 染まらない絶対的な精神性を指します。主の慈悲はサット(永遠)、そしてアナンタカンデーヴァ (無限)とも言わます。主の献身者はそのような無限の精神的恩恵を授かるので、神々を 崇拝する必要などどこにもありません・主クリシュナの献身者は、主シヴァや主ブラフ デーヴァ マーなどの神々を崇拝しません。ただ献身的にバガヴァーンベの超越的愛情奉仕を行なうのです。

さらにシュカデーヴァ・ゴースワーミーま一Iインドーズチャンドラやヴァルナなどの デーヴァ 神々ばかりではなく、主ブラフマーや主シヴァでさえも、自分の献身者の善行にはただ ちに満足し、悪行にはすぐに立腹する。しかし、バガヴァーン・ヴイシュヌはそのような お方ではない」と言いました。この言葉に示されているように、束縛された生命体は言 およ デーヴァ うに及ばず、高貴な神々でさえも物質自然の三様式に支配されているために、物質界で デーヴァ は特に無知と激情の質が目立っています。神々の祝福を求める献身者もまた、特に激情 と無知に影響されています。したがって、主シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギー デーヴァ タ-』で、神々からの祝福は一時的なものなので、それを受け入れる者は知性に欠けて デーヴァ いる、とおっしゃっています。神々を崇拝すれば、簡単に物質的な富が手に入ります。し さいやくデーヴア かし結果は、時として思いがけない災厄となります。したがって、神々から授かる恩恵 とぽ を喜ぶのは知性の乏しい人で、そのような者たちは物質的な富に思い上がり、恩恵を授 デーヴア けた神々をしだいに忘れるようになります。シュカデーヴア・ゴースワーミーはマハーラージ・パリークシットにさらに語りました ○

一おお親愛なる王よ、物質餅造の三神である主ブラフマー、主ヴィシュス主シヴァは さいやく 誰にでも祝福や災厄を授けることができる。この三神のうち、主ブラフマーと主シヴァ すみ ただ はすぐに満足するが、またすぐに怒る。満足すれば速やかに恵みを施し、怒れば直ちに わぎ』わ ふんくつ 災いを施す。しかし、主ヴィシュヌはそのようなことは決してなく、物事をよく分別さ れる。献身者から何かを求められれば、それを授けることが最終的に良い結果をもたら すかどうかをお考えになり、最終的に災難をもたらすような恩恵は決してお授けにな らない・主は超越的な質をお持ちであり、常に慈悲に満ちたお方なので、恩恵を授ける 前に、必ず献身者に対して真の恩恵になるかどうかを考慮される。バガヴァーンは常に 慈悲に満ちたお方であり、悪魔を滅ぼされる時も、献身者にお怒りになる時も、それら は表面上のことであって、実は主のふるまいは常に吉兆である。したがって、バガヴァー ンは完全に善なるお方と呼ばれ、主がなされるすべては善である」 

偉大な聖者たちは、主シヴァなどの神々が授ける恩恵について次のような歴史上の 出来事を語っています。かって、主シヴァがシャクニの息子、悪魔ヴリカースラに恩恵 きゆうちおちい を授けた後、窮地に陥ったことがありました。ある一つの恩恵を求めていたヴリカースラは、それを得るには、三神のうちいずれを崇拝するべきか考えていました。すると、偉 大な聖者ナーラダがやって来たので、彼は、苦行を行なえばすぐに恩恵を授けてくれる のは誰か、と尋ねました・ナーラダはヴリカースラの意図を見抜いていたので「主シヴァ を崇拝するがよい。されば望む物がすぐにも手に入ろう。主シヴァはすぐに満足するが、 ただちに怒る。ゆえに、主シヴァを崇拝するがよい」と言い、ラーヴァナやバーナースラ などの悪魔が、ただ主シヴァに祈りを捧げただけで膨大な富を手に入れたことを話し ました。大聖者ナーラダは悪魔ヴリカースラの性情を見抜いていたので、主ヴイシュヌ や主ブラフマーに近づきなさいとは言いませんでした。ヴリカースラのような者たち は無知の様式に影響されているので、ヴィシュヌの崇拝を行ない続けることができな いのです。

悪魔ヴリカー『〈ラはナーラダから教えを授かった後蔦ケーダーラナータに向かいま した。その巡礼地は主シヴァの献身者にとって聖地とされ、今もカシミールの近くにあ り、ほとんど一年を通じて雪に包まれていますが、七月頃だけは寺院に行けば神像を見 ることができ、訪れた献身者は尊敬の礼を捧げることができます。ヴェーダの教えによ れば、神に食べ物を捧げるには火に捧げるべきだとされているので、祭火はどのような デーヴァ 儀式でも必要とされます。シャーストラに特に述べられているように、神々に食べ物を捧げる時には、火を通じて行なうべきです。悪魔ヴリカースラはケーダーラナータに行 き、主シヴァを喜ばせるために、祭火をともしました。 

ヴリカースラはシヴァに捧げる祭火をともした後、主シヴァを喜ばせようと自分の さ 肉を切り裂き、火に捧げました。それが無知の様式の崇拝の特徴です。「ハガヴァッド・ ギーター』には、徳・激情・無知の様式の崇拝が述べられています。この世界には様々な 人々がいるので、それに応じて様々なタパスヤや崇拝方法が定められています。しかし、 究極的タパスヤであるクリシュナ意識は、最高のヨーガであると同時に最高の供儀で す。『バガヴァッド・ギーター』に明らかにされているように、最高のョ-ガとはハート の中でいつもクリシュナを想うことであり、最高の供儀とはサンキールタン・ヤジュニャ を行なうことです。 

『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、神々の崇拝者は知性に欠けてい ます。この章の後の部分で明らかにされるように、ヴリカースラが主シヴァを喜ばせよ うと望んだのは、彼の望みがまったく価値がなく、得たとしても何の恩恵もまったくな デーヴァ い一時的で物質的なものだったからです。アスラ(無知の様式の人々)は神々からその ような恩恵を受け入れます。そのような無知の様式の崇拝と対極をなすのが、非常に簡 素なアルチャナー・ヴイッディを行なって、主ヴィシュヌや主クリシュナを崇拝することです。献身者の捧げ物は、慎ましいものでもかまいません・主クリシュナが貢ガヴァッ ド・ギーター」でおっしゃっているように、ただわずかばかりの果物・花・水を捧げれば、 主は受け入れてくださるのです。わずかの果物・花・水を集めることは、貧富の差にかか わらず誰にでもできることです。もちろん裕福な者がただ少しの果物・花・水を捧げれ ばそれで十分だ、というわけではありません。自分の立場に応じた捧げ物を行なうべき まず つつ です。しかし、献身者が貧しい暮らしをしているなら、主は最も慎ましい捧げ物でさえ も受け入れてくださいます。主ヴィシュヌや主クリシュナの崇拝方法は簡素なもので、 この世の誰もが行なえます。それに対してヴリカースラが行なったような無知の様式 の崇拝は、困難な上に苦痛極まりなく、しかもただ時間の無駄にすぎず、そればかりか デーヴァ 得られる結果も一時的です。したがって『バガヴァッド・ギーター』は神々の崇拝者が 知性に欠けると述べています。 

ヴリカースラは六日間難行苦行を続けましたが、望みがかなわず、主シヴァは姿を現 わしません・ヴリカースラは主シヴァに直接会って恩恵をもらいたいと切に願ってい ました・ここにも、悪魔と献身者の違いを見ることができます。献身者は完全な献身奉 仕を行なって捧げたものを主がお受けくださることをまったく疑いませんが、それに 対して、悪魔は自分の崇拝対象を直接見て、直接の恩恵を得ようとします。献身者は恩恵を得るために主ヴイシュヌや主クリシュナを崇拝しているのではないので倉アカー マ(無欲者)と呼ばれます。ついに七日目、悪魔ヴリカースラは自分の頭を切り落として 主シヴァに捧げる決心をしました・彼は近くの湖で体浴した後、体も髪も乾かさずに頭 を切り落とす準備をしました。ヴェーダによれば、いけにえの儀式を行なう際には、ま ず動物を体浴させ、まだ濡れているうちに捧げることになっています。首切りの準備を あわ あわ している悪魔ヴリカースラを見て、主シヴァは憐れに思いました。この憐れみは徳の様 あわ 式の象徴です。主シヴァはトリリンガとも呼ばれます。したがって、主シヴァが憐れみ あわ の質を現わしたことは徳の表現です。しかし、憐れみの情は主シヴァでなくとも、誰で あわ も持っているものです。主シヴァが憐れみを覚えたのは、ヴリカースラが自分の体を祭 火に捧げようとしていたからであって、何も特別なことではありません・普通の人でも、 自殺をしようとしている人を見かければ、思わず助けようとするものです。したがって、 主シヴァがヴリカースラの自殺を止めようと炎から現われたことは、それほど偉大な恩恵とは言えません。

主シヴァがヴリカースラに触れました。ヴリカースラの傷がたちまち癒え、彼は自殺 から救われました・主シヴァは悪魔に、「親愛なるヴリカースラょ、頭を切り落とす必要 などない・望む物があらば言うがよい・お前の望みをかなえよう。私を喜ばせるためとはいえ、なぜ頭などを切り落とそうとした。ただわずかな水を捧げさえすれば、私は十 分満足なのだ」と言いました。ヴェーダの崇拝方法によれば、寺院のシヴァ・リンガや主 シヴァの神像を崇拝するには、ただガンジス川の水を捧げるだけでよいとされていま す。なぜなら、主シヴァは頭にカンジス川の水が注がれるだけで大いに満足するからで す。一般に、カンジス川の水とビルヴァ樹の葉と果実が主シヴァと女神ドゥルガーヘの 捧げ物とされています。主シヴァは、簡単な崇拝を行なうだけで自分は満足する、とヴ リカースラに告げました。なぜヴリカースラは自分の頭を切り落とすことなど思いつ きざ いたのでしょう。どうして痛みに耐えながらも、自分の体を切り刻んで祭火に捧げたの あわ でしょうか。そんな難行苦行はまったく必要ないのです。いずれにせよ、主シヴァは憐 れみを覚えて姿を現わし、ヴリカースラの望みを聞いたのでした。 

ヴリカースラは主シヴァに尋ねられて、恐ろしくも忌まわしい恩恵を求めました。ヴ リカースラは非常に罪深い悪魔です。罪深い者は主にどんな恩恵を求めれば良いか知 りません・彼が主シヴァに求めたものは、「彼の手で頭を触られた人は頭が割れて即死 する」という恐ろしい力でした。悪魔は『バガヴァッド・ギーター」でドゥスクリティー (悪人)と呼ばれています。クリティーとは「言(賛に値する」という意味ですが、ドゥスと い土手 いう接頭辞が付いて「忌まわしい」という意味となります。ドウスクリティーは決してバガヴァーンに服従せず、逆に、様々な神々を崇拝することによって忌まわしい物質的 たいりようさつりく 恩恵を得ようとします。たとえば、大量殺致の兵器を作り出す、悪魔的な物質的科学者 がいます。彼らは人類を死から救うような業績を決して残しはしません。ただ兵器を開 発して、人の死を早めるだけです。主シヴァはどんな恩恵であろうと授ける力があるの えき一 で、ヴリカースラは人間社会に益をもらたすような恩恵を求めることもできたのです/、、b が、欲に目が舷んでいたために、ただ人を簡単に殺すような力を求めたのです。 主シヴァはヴリカースラの意図を知ると、恩恵を授けると言ったことを後悔しまし た。しかし、今さら約束がなかったことにはできません。後悔の念に駆られながらも、人 さいやく に災厄をもたらす恩恵を与えざるを得ませんでした。悪魔は優れた頭脳や能力を持つ いヰエ ていたとしても、それを忌まわしい目的のためにしか利用しないので、ドゥスクリティー (悪人)と呼ばれます。その例として、物質的な悪魔たちが多数の人命を奪う兵器を開発 すぐ することがあげられます。兵器開発には優れた頭脳が要求されますが、物質的科学者の 発明は人間社会に恵みをもたらすことはなく↑末‐可避の死をただ早めているにすぎま えき』 せん・同じように、ヴリカースラが主シヴァに求めた恩恵は、人間社会に、益ではなく、 さいやくまれ ただ災厄を招くものでした。したがい、主シヴァは後悔したのです。しかしそれに対し て、、ハガヴアーンの献身者は主ヴィシュヌや主クリシュナに決して恩恵を求めません。 たとえ主に恩恵を願うことがあ(一たとしても人間社会に危険をもたらすようなもの は決して求めません。それが悪魔と献身者、もしくは主シヴァの崇拝者と主ヴイシュヌ の崇拝者の違いです。 

シュカデーヴァ・ゴースワーミーはヴリカースラの話をしながら、マハーラージ・パ リークシットをバーラターと呼びました。この呼びかけは、マハーラージ・パリークシッ トが献身者の家系に生まれたことを意味するものです。マハーラージ・パリークシット のろ は、母の胎内にいた時にさえ主クリシュナに救われたほどなので、ブラーフマナの呪い から救われることを主に願うこともできたはずですが、あえてそうはしませんでした。 それに対して、ヴリカースラはただ触れるだけですべての人を殺す力を求めると同時 に、自分自身は不死身になることを望んでいました・主シヴァはそれを知りながらも、 約束した以上はヴリカースラにその恩恵を授けざるを得ませんでした。 

ヴリカースラは非常に罪深い悪魔だったので、恩恵を授かるやいなや、主シヴァを殺 しゴゥリー(パールヴァティー)を奪って楽しもうと決心しました・主シヴァの頭を触 ろうとしたのです。皮肉なことに、主シヴァは自分の授けた恩恵によって、自分で自分 デーヴァ の首を絞めたのです。これもまた物質的な献身者が神々から授かった力を間違って使う例の一つです。

悪魔ヴリカースラは素早く主シヴァに近づき頭に手を伸ばしました。主シヴァは恐 ふる 怖のあまり震え出し、陸から空、空から惑星へと逃げ回り、そして、ついには高位の惑星 は を越えて宇宙の果てまでも逃げました・主シヴァがいくら逃げ回っても、ヴリカースラ ・しつ.よう は執勘に追跡を続けます。ブラフマー、インドラやチャンドラをはじめとする様々な惑 星の主宰神も、シヴァを救う手立てが見出せませんでした。主シヴァが誰に助けを求め ても、誰も何も言えませんでした。 

ついに主シヴァは、この宇宙内にあるシュヴェータドヴィープ惑星にやって来て、主 ヴイシュヌに近づきました。シュヴェータドヴィープは宇宙内にあるヴァイクンタ惑 星で、外的エネルギーの影響を越えています。主ヴィシュヌは遍在的な姿によって宇宙 みずか 内のすべての場所にいらっしゃいますが、主自らが直接いらっしゃる場所はヴァイク ンタの雰囲気に満たされています。『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、 主は全生命体の心臓の中にいらっしゃいます。しかし、主が数多くの低い生命体の中に いらっしゃるからといって、主自身が低級だというわけではありません・主がいらっしゃ る場所はす余へてヴァイクンタとなるのです。この宇宙内のシュヴェータドヴィープ惑 星もまたヴァイクンタローカです。シャーストラの記述によれば、森に住むことは徳の 様式であり、大都市・街・村に住むことは激情の様式、不正な性行為・陶酔物・肉食・賭博という四つの罪が行なわれる場所に住むことは無知の様式です。しかし、至上主ヴィシュ ヌの寺院に住めばヴァイクンタに住んでいることになります。寺院がどこにあったと しても寺院自体がヴァイクンタであるように、この宇宙内にあるシュヴェータドヴィー プ惑星もヴァイクンタなのです。 

ついに、主シヴァはシュヴェータドヴィープに逃げ込みました。シュヴェータドヴィー ねた プに住んでいるのは、物質的な妬みを捨て尽くし、物質的活動の四原則(宗教・経済発展. 感覚満足・解放)から解放された偉大な聖者だけです。ヴァイクンタ惑星に入った者は 再びこの物質界に戻ることはありません。献身者を愛するお方として称えられる主ナー ラーヤンは、主シヴァが危険にさらされているのを知ると、ブラフマチャーリーの姿を 取り、はるばるやって来た主シヴァを歓迎されました。主は完壁なブラフマチャーリー のいでたちで、腰にベルトを巻き、聖紐、鹿の皮、ブラフマチャーリーの棒、そしてロウ ドラの数珠(トゥラシーの数珠とは異なり、主シヴァの献身者が使う)を身に着けてい まぱゆ らっしゃいます。このような姿でシヴァの前にお立ちになった主の体からは目映い光 ひきつ 輝が発せられていて、主シヴァばかりか悪魔ヴリカースラさえも惹付けられました。 主ナーラーヤンはヴリカースラの気を引き、好感を持たせるために尊敬の礼をお捧 げになりました。そしてヴリカースラの気を十分に引いた上でおつしやいました。

一ジャクニの息子よ。ずっと遠いところからお越しになったようでたいへんお疲れ のご様子ですね。どうして、遠路はるばるおいでになったのですか。それにしても、くた くたになっていらっしやるので、少しばかりお休みになってはいかがですか。体を疲れ させるのはよくありませんよ。体があるからこそ望みをかなえることができるのです。 体がどれだけ大切かは誰もが知っているのですから、体はいたわってくださいね」

ブラフマチャーリーがヴリカースラをシャクニの息子と思わせぶりに呼ぶと、ヴリ カースラはブラフマチャーリーが父の知り合いだと思い込み、そのいたわりに満ちた なご ひま 言葉に心が和みました。「今は重要な要件があって体を休めている暇などない」と言い 出す前に、逆に「体をいたわりなさい」と説得されてしまったのです。特に悪魔というも のは自分の体が非常に重要だと考えているので、体を大切にしなさいと説かれて、つい つい納得してしまったのです。 

ブラフマチャーリーはヴリカースラをなだめるために、「おお主人よ、わざわざここ までおいでになったわけをお話しくださいませんか。もしかして、お力になれるやも知 みずか れませんので」と言いました・主は至上ブラフマンでいらっしゃるので、主シヴァが自 ら作り出した困難な状況を解決できることを間接的におっしゃったのです。 ヴリカースラは主ナーラーヤンの気持ちよい言葉に気分を良くし、主シヴァから授かつた恩恵のことを話しました。すると主がお応えになりました。 

「主シヴァがそんな恩恵を授けたとは、とても信じられませんね・私が知っている限 り、主シヴァは今はもう、まともではないのです。義理の父親ダクシャと口論した時に ちみもうりょうかしら ピシャーチャ(幽霊)になるよう呪われて、今は躯魅岨緬の頭になりさがってしまった のです。私だったら、主シヴァの言葉なんて信じませんよ・主シヴァが本当に恩恵を与 えたと信じていらっしゃるなら、悪魔の王ヴリカースうよ、実験してみてはいかがです うそ うそ か。嘘か本当か、自分の頭に触ってみれば、わかるではありませんか。もし恩恵が嘘だつ うそ たら、もう二度と嘘の恩恵を授けることができないように、すぐにでも主シヴァを殺し てやればいいのです」 

このようにして主ナーラーヤンの優しい言葉と優れた幻惑力によって、ヴリカース ラは頭が混乱させられてしまい、主シヴァの力も自分が授かった恩恵も、まったく忘れ てしまいました。自分の頭に触るように簡単に説き伏せられてしまったのです。ヴリカー宮フ スラが、自分の頭に触れた瞬間、まるで稲妻に撃たれたかのように頭が打ち割れて、あっ デーヴァ けなく即死してしまいました。天界の神々は主ナーラーヤンに花を降り注ぎ、敬意と感 デーヴ↓ノ 謝の念をもって主を称えました。ヴリカースラが死ぬと、高位の惑星に住む神々、ピター、 ガンダルヴァ、そしてジャナローカの住民たちは、バガヴァーンに花を降り注ぎました。

主ヴィシュヌは、ブラフマチャーリーの姿で主シヴァを危機一髪からお救いになっ た後、悪魔ヴリカースラが自分自身の罪によって死んだことをお告げになりました。ヴ リカースラは主シヴァから恩恵を授かりながら、その恩恵で主シヴァを殺そうとした ので、特に罪深く侮辱的でした・主ナーラーヤンは主シヴァにおっしゃいました。 みずか 「親愛なる主シヴァよ、偉大な魂に侮辱を働いた者は生き続けることはできない・自 みずか らの罪によって、ただ自らを滅ぼすのだ。御身に大いなる侮辱を働いたこのヴリカース らの罪によ(一てただ ラもその一例である」

このようにして主シヴァは、物質的な質を完全に超越したお方バガヴァーン・ナーラー がんちよう ヤンの恩寵によって、あわや殺されるところを救われました。信念と献身をもってこの じゅばく 物語を聞く者は、物質的束縛と敵の呪縛から解放されます。

以上『クリシュナ』第八十七章一主シヴァの解放」に関するバクティヴェーダンタ解説終了。

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