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(三十一)

31. 秋には四つの持徴がある。空に水がなく、雨期に繁茂した雑草は枯れ、ぬかった道や地面は乾き、そして地の木はこよなく澄む。これらは、人生の四つの区切りにも似ている。

varṇāśrama(ヴァルナアーシュラマ)制度において学生は、尊師のアーシュラマヘ行き、教えを受けながら、僕として師に仕えます。学生が体験しなければならないこれらの苦難は、主シュリー・クリシュナ、人格を持つ神々の中の最高の神と自分との関係、という超越的な知識を悟ったとき、すぐにやわらぎます。ちょうど秋の白雲が、水の重荷をすでに背負っていないように。学生は、もし尊師のおかげで精神的な知識に逹すれば、その帥に仕える際に味わう辛苦は、どこかに消えうせていることに気づくでしょう。

雨期の雑草のように、子供たちを何の制限もなしに作る家庭生活を営んでいだ人々は、献愛奉仕の段階に進むと、孤独になります。無神論的文明においてはいかなる産児制限を試みても、雑草のようにふえる余計な人口をとめることは不可能です。人々は性生活を自発的に抑制することを学ばなければなりません。それは最高主への奉仕に身を入れたとき、初めて可能になります。このことについては、『バガヴァッド・ギーター』において確証されています。固い決意を持つ主の献愛者たちは、超越性の美しさに心を奪われているので、物質的な感覚を楽しむことを慎みます。産児制限として強制的に規制をしたり、似たような他の不自然な方法をとっても、それはあまり長続きするものではなく、その人が超越性に心が引かれていない限り、不可能なのです。精神的な楽しみという上級のものを体験してこそ、下級の楽しみを捨て去ることがてきるのです。ですから人が、精神的な人間性の修業に励むとき初めて、産児制限は成功します。

みずから清潔にせずに、ひけやつめを伸ばしほうだいの、ヴァーナプラスタたちがいます。彼らが主の奉仕に従事するとき、すでにこういったつきまとうものによる、不快さを感じることはありません。そして何よりも、性生活から離れることを誓った托鉢僧は、超越的な奉仕に熱心に従事している限り、すでに性欲への衝動を感じなくなっています。

ですから精神的な四段階(プラフマチャーリー、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーサ)と、社会の四階級(ブラーフマン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)の人々にとって、主への献愛奉仕は欠くべからざることです。この奉仕という関係なしでは、ヴァルナとアーシュラマに関するすべての規定法則は、どこにてもあるようなカリ時代のただのやっかいな義務になってしまいます。これらの規則が本米の目的を失ったとき、ヴァルナはカースト制度に、アーシュラマは商人たちのビジネスにと、それぞれ藩ちてしまうのです。現代社会におけるこれらの異常事態は、最高主への献愛奉仕をしながら、人間精神を養うことによってのみ改善され得るのです。

viṣayā vinivartante nirāhārasya dehinaḥ rasa-varjaṁ raso ’py asya paraṁ dṛṣṭvā nivartate(B.g.2-59)
〃肉体化された魂は、感覚的楽しみを制限することはできるが、感覚的対象への味わいは残る。しかし、より高い喜びを経験することによって、感覚的楽しみに対する味わいを捨て去れば、人は意識に固定する〃(第二章五十九節)

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