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第43節

atha vā bahunaitena
kiṁ jñātena tavārjuna
viṣṭabhyāham idaṁ kṛtsnam
ekāṁśena sthito jagat

atha vā – or; bahunā – many; etena – by this kind; kim – what; jñātena – by knowing; tava – your; arjuna – O Arjuna; viṣṭabhya – pervading; aham – I; idam – this; kṛtsnam – entire; eka – by one; aṁśena – part; sthitaḥ – am situated; jagat – universe.

だが了必ジュナよ謡この知識を詳細に知ろうとするのは無益ではないか?私のほんの一断片がしみわたって、私はこの全宇宙を支えているのだから。

至上主はあらゆる存在のなかにパラマートマーとして入ることにより、全物質宇宙にあまねく表われている。主はここでアルジュナに、「私がどこでどのように表われているか
11盛州限で多様な、豊潤荘厳なる質を一々こまかく知ろうとするのは、不必要であり無益である」とおっしゃる。ただ、すべてのものはクリシュナが。ハラマートマーとしてそこに入っているために存在しているのだ、という真理を知ればよろしい。最も巨大な存在であるブラフマーから、最も小さい蟻に至るまで、主がそれらすべての、それぞれに入って支えておられるから存在しているのである。

どのデーヴァを拝んでいても、それを通じて究極の目的地である華ハガヴァーンのもとへ行ける、と説いている教派がある。しかし、ここに至って、デーヴァ信仰は全面的に思い止まざる得ないであろう。なぜなら、ブラフマーとかシヴァのような最も偉大なデーヴァでさえ、至上主の豊潤なる質のほんの一部だけを代表しているにすぎないからだ。クリシュナこそすべてのものが生まれる原泉であり、彼にまさるものは何一つないのである。クリシュナはアサマウルドヴァである―つまり、彼より秀れた者も無くまた彼に等しい者もない、という意味だ。『パドマ・プラーナ』には、「至上主クリシュナをデーヴァと同じ分類だと考える人は―たとえブラフマーやシヴァとでも―即刻神を信じない者へと堕ち下る」と書いてある。だが、クリシュナのエネルギーの拡張について、豊潤なる質について充分に学んだ人なら、主シュリー・クリシュナの立場が疑念なくハッキリ理解できるはずであり、他にそれることなく、クリシュナの崇拝に心を固く定めることができる。主は自らの部分的表われの拡張体によって、つまり、万有万物のなかに入る.パラマートマーによって、あらゆるところに充満・遍在している。だから純粋な献身者は、完全に献身奉仕に没入して、心をクリシュナ意識に集中する。そして常に超越的な境地にいる。献身奉仕とクリシュナの崇拝については、この章の第八節から第十一節にわたって、まことにハッキリと書いてある。ここに述べてあることこそ、純粋な献身奉仕のあり方なのだ。どうすれば、バガヴァーンと親しく交際する献身の極致に達することができるかが、この章の全体を通じて徹底的に説明してある。クリシュナからの師弟継承のなかの一人である偉大なアーチャーリャ、シュリーラ・バラデヴァ・ヴィデャーブーシャンはこの章の解説の最後を次の言葉で結んでいる。

yac-chakti-leśāt sūryādyā
bhavanty aty-ugra-tejasaḥ
yad-aṁśena dhṛtaṁ viśvaṁ
sa kṛṣṇo daśame ’rcyate

「主クリシュナの偉大なエネルギーから、かくも強大な太陽は力を取り入れている。クリシュナの部分的な拡張体が全世界を支えている。だから、主クリシュナをこそ崇拝するべきなのだ。」

以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第十章〃絶対者の豊潤なる質″に関するバグティヴェーダンタの解説は終了。

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